Sermon Tone Analysis

Overall tone of the sermon

This automated analysis scores the text on the likely presence of emotional, language, and social tones. There are no right or wrong scores; this is just an indication of tones readers or listeners may pick up from the text.
A score of 0.5 or higher indicates the tone is likely present.
Emotion Tone
Anger
0.11UNLIKELY
Disgust
0.07UNLIKELY
Fear
0.11UNLIKELY
Joy
0.64LIKELY
Sadness
0.53LIKELY
Language Tone
Analytical
0.42UNLIKELY
Confident
0UNLIKELY
Tentative
0.06UNLIKELY
Social Tone
Openness
0.91LIKELY
Conscientiousness
0.81LIKELY
Extraversion
0.31UNLIKELY
Agreeableness
0.52LIKELY
Emotional Range
0.67LIKELY

Tone of specific sentences

Tones
Emotion
Anger
Disgust
Fear
Joy
Sadness
Language
Analytical
Confident
Tentative
Social Tendencies
Openness
Conscientiousness
Extraversion
Agreeableness
Emotional Range
Anger
< .5
.5 - .6
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コリント人への手紙第一 12:12-27 霊的な賜物がもたらすつながり
先週からコリント人への手紙第一の 12 章を見ていますが、霊的な賜物について、その存在理由
という点に着目しつつ話題に挙げています。その鍵となる聖句は、コリント第一 12:7 です。そ
こには「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」とありま
す。誰がどのような賜物を持っているかで互いを分け隔てするのではなく、霊的な賜物はどのよ
うなものでも、私たち一人一人の内におられる聖霊によって与えられているという真実ゆえに私
たちを一つにするものです。つまり、聖霊の存在が私たちをキリストの体の一部とするのと同じ
く、賜物は私たちを一つにするものであるべきです。そして、今日の聖書箇所である第一コリン
ト 12:12-27 へと続きます。もちろん、キリストの体が一つとなる目的で賜物が与えられている
ということが議論の中心であることに変わりはありません。ですが、ここでパウロは暗に示され
た疑問に答えています。もし、その目的がからだの共通の益であり、一致を築くことであるのな
ら、なぜ様々な賜物があるのかという疑問です。パウロは彼の書簡の中で何度も教会を体に例え
ることで、様々でユニークな霊的賜物の重要性を示しています。彼は多くのユニークな部分ある
いは賜物の重要性を、それらがどのように組み合わされ、体全体の一部として共に働くのかを見
ることで示しました。12-13 節を見て下さい。「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があ
り、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。13 私
たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受け
て、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」パウロは、キリス
トに従う者らである私たちを人間の体に例えています。もしイエス・キリストを主であり救い主
として受け入れたなら、人はこの世で孤独に生きることはできませんし、自分の益のためだけに
働くこともしません。私たちは同じ聖霊に繋がっているという事実ゆえに、他のクリスチャンと
も永遠に繋がっているのです。ガラテヤ人への手紙で使徒パウロは、私たちの内に聖霊がおられ
るということは、彼の言葉によると「一つの御霊を飲んだ」のであり、私たちが聖霊によって、
聖霊の力で人生を生きることを意味しているのだと語っています。ガラテヤ人への手紙 5:25-26
「25 私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。 26
うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。」パウロがガラテ
ヤ人への手紙 5 章で、キリストの体において私たちがどのように互いに繋がり、また互いに接す
るかを聖霊と関連付けていることに注目してください。私たち皆に聖霊が与えられており、その
聖霊によって生きるべきであるということは、私たちが同じ聖霊を共にする者同士一つの体、共
同体の中に存在しているのだということを意味します。そして、ユダヤ人かギリシャ人か、奴隷
かそうでないかというような外見的なものではなく、聖霊とキリストに在るアイデンティティが
私たちを特徴づけるのです。体に仕え、一つの体として共に人生を歩むべきで、キリストの体か
ら離れて存在するキリスト教信仰を聖書は認めていません。このことは、私たちが聖書的である
と信じている教会員制度という考えにも繋がります。私たちはクリスチャンとして、地域のキリ
ストの体の中に、その一員として生活をするべきで、それが教会員制度です。また、13 節では、
その体に正式に加わる方法が洗礼であることを明確に示しています。なぜ教会員になるために洗
礼を必要とするのでしょうか。それは、私たちがキリストに献身すること、つまり私たちの人生
に聖霊がおられることを、洗礼が公に証しするものだからです。水のバプテスマは、救いの中に
与えられた聖霊のバプテスマを公に示すものです。聖霊のバプテスマについては様々な意見があ
りますが、バプテスマのヨハネが水のバプテスマを授け始めた時から、それはイエス・キリスト
を主であり救い主として信じることとつながりがあります。マタイの福音書 3:11 でバプテスマ
のヨハネはこのように言っています。「私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けて
いますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて
差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」
そして使徒の働きでは、キリストに従う者はキリストが昇天されて聖霊が来られる前にキリスト
を受け入れた場合、救われた後に聖霊のバプテスマを受けた者として語られてています。使徒の
働き 19:5-6 で、パウロが人々にイエスについて証しし、彼らがイエスを受け入れた後のことに
ついてこう書かれています。「これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受け
た。6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したり
した。」パウロが諸教会に書簡を書き送っていた頃までには、第一コリント 12 章にあるよう
に、聖霊のバプテスマを受けるということは救われるときに聖霊を与えられたということを意味
しており、だからこそ彼は教会に対して、皆が聖霊と水のバプテスマを受けたと言うことが出来
たわけです。私たちは浸礼によるバプテスマが聖書にあるバプテスマの形であると信じています
が、様々な教派に属する全ての真の信者の方々とバプテスマの礼典を共に守っています。そし
て、詳細については同意していないかも知れませんが、バプテスマの必要性については皆が同意
しています。
ですから、私たちはキリストの体に積極的に参加することで、他の信者とつながるべきです。今
日、そのようなつながりをバーチャルに持つことができるという考え方があります。ですが、教
会とは基本、それぞれが賜物を用いて互いに仕え合う集まりです。それをバーチャルな世界でど
のように達成できるのか、私にはよく分かりません。ですから、ライブ配信は主に教会の会員で
あっても健康上の理由や年齢的に集まるのが難しい方々のために行っています。教会の集まり
は、私たちが YIBC と呼んでいるこの教会という体の中で、皆さん一人一人が担っている役割の
ために重要なのです。14-16 節を読むと、そのことが分かります。「14 実際、からだはただ一
つの部分からではなく、多くの部分から成っています。15 たとえ足が「私は手ではないから、
からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。16
たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属
さなくなるわけではありません。」人の体に多くの部分があるように、教会という体にも多くの
異なる部分があり、多くの異なる賜物を持った人々が聖霊によって共にあることで一つのキリス
トの体を形作っているのです。つまり、教会員になることは必要ですが、それは教会員名簿に名
前が載る以上の意味を持つのです。キリストの体との繋がりは、聖霊による他の信者との関係に
基づくものであるからこそ、それを無視したり、その中に在る自分の位置を軽んじてはならない
のです。教会の会員であることが、ただ集会の席に座り、歌を歌い、説教を聞いて、家に帰るこ
とでしかない人が大勢います。そうした人にとって、このパターンを毎週、あるいは月に一度程
度繰り返すことがキリストの体の一部であることの全てです。それは、行動を通して自分が体の
一部ではないと宣言するに等しいことです。聖書がここで述べているような形で体に繋がってい
る訳ではありません。自分をこの体の一部とされたのは神であり、体の一部として与えられた役
割を果たすことを求められているということに気づいていないのです。
それが 17-18 節に見られることです。「17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くので
しょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。18 しかし実
際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。」神は
全ての人を長老や牧師は執事に召されるわけではありません。全員がサンデースクールの先生に
なるよう召されるわけでもありません。執事のように全員がミニストリーのリーダーを務める必
要もありません。ですが、神は皆さんが何かを担うためにと YIBC に置かれたのは確かです。18
節にあるように、神はみこころに従って、からだのすべての部分を特別な目的のために備えて下
さいました。そしてキリストの体における奉仕やミニストリーは、賜物に基づいて備えられてい
ます。ですから、皆が異なった賜物を与えられているということはとても素晴らしいことなので
す。パウロがここで言っているように、キリストの体の全てが耳だとしたらどうでしょうか。彼
が言うように、鼻がないのですから嗅覚もないでしょう。それどころか、触覚も味覚も視覚もな
く、動く事さえできません。神は様々な賜物を与えてくださいます。それは、多くの異なる部
分、多くの異なる才能、多くの異なる個性が集まって、体の様々な働きを成すことができるため
です。19 節からでもこのように指摘されています。「19 もし全体がただ一つの部分だとした
ら、からだはどこにあるのでしょうか。20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなので
す。」同じ聖霊によって与えられた異なる賜物を持つ様々な人々が、神の目的を果たし、神に栄
光を帰するために、一つの生きた体として共に働くように、神は教会を造られました。キリスト
の体として体に属するすべての人とつながるのだという真理は、地域の教会に属することの重要
性を示しています。つまり、クリスチャン生活とは、私とイエスが世界に対抗することではな
く、私たち一人ではキリストの体とはなり得ないのだから、私たちは他のクリスチャンを必要と
しているのだということです。21 節を見て下さい。「21 目が手に向かって「あなたはいらな
い」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできま
せん。」もしあなたが目だとしたら、物を見ることができるというのは素晴らしいことです。で
すが、手を伸ばして物を動かす腕や、体を動かして違った視点を与えてくれる足がなければ、違
う景色を見ることはできません。パウロがこのことを指摘しなくてはならなかった理由は、私た
ちが他のクリスチャンを見て物事のやり方や考え方の違いに気づかされることが多々あるからで
す。ですが、教会の中にそうした仲間が必要なことに気づかず、私たちはそれらの人を避けよう
としてしまいます。自分にはない賜物をその人たちは持っていて、そうした賜物が教会が機能す
るために必要であること、つまり私たち自身が必要であることを見過ごしてしまうのです。多く
の場合、自分のクリスチャンとしての歩みに教会の他の人たちが必要だと思わないために、キリ
ストの体を蔑ろにし、教会がキリストとの歩みに不可欠であることに目を向けず、私たちの召し
をおろそかにしてしまうことに繋がるのです。これこそが 22 節以降、パウロが聖霊を通して指
摘していることです。「22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえって
なくてはならないのです。23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う
部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になり
ますが、24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよく
するものを与えて、からだを組み合わせられました。25 それは、からだの中に分裂がなく、各
部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。」ここで一先ず止めておきましょう。パ
ウロが興味深いことを言っています。パウロは、私たちが教会の中で他の人たちとどのように関
わるかを、自分の体をいたわることに例えています。すべての部分、すべての賜物が不可欠なの
だけれど、私たちが特に気遣うのは、体の他の部分よりも劣っている部分であると言っていま
す。消化器官のような部分です。私たちがあまり意識する部分ではありませんが、消化器官は軟
部組織ですから傷つきやすい部分です。体全体を維持するためにその部分に食べ物を送ります。
ですが、その働きは皮膚や衣服に覆われたところで成されます。私たちは体のある部分は服を着
て覆い、慎み深くあろうとしますが、パウロによれば、私たちはそうすることによって他人に付
け込まれる可能性がある部分を大切にしているのだと言うのです。私たちはそれを覆うことで守
り大切にするのです。ですから、私たちは教会として自分たちに与えらている賜物を用いて、救
われていない社会が好ましくないと見なす人々にさえも仕え、繋がるのです。貧しい人、やも
め、孤児、障害者、ホームレス、難民、外国人…これら全ての人がキリストの体の中には居場所
があり、パウロの言葉を借りれば、教会において完全に受け入れられ、大切にさえされるべき存
在なのです。私たちがそのように共にキリストの体として仕えるとき、25-27 節に語られている
姿になります。「25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配
慮し合うためです。26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊
ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、一
人ひとりはその部分です。」目指すのは一致と支えです。もし私たちが自分の賜物や役割が何で
あれ、それが体において必要なものであると認識し、教会の兄弟姉妹一人一人についても同じ真
実を認めるなら、体として共に働くことで一つにされます。そして、そのことが一人一人の信者
にとって素晴らしい結果をもたらします。一人のクリスチャンが苦しむとき、体全体が共にその
人を支えるのです。その人と私たちはつながっているのですから、一人にしたりしませんし、共
に苦しみます。また一人の信徒に良いことが起これば、それが体全体に起こったことのように共
に喜ぶことも意味します。このような教会において、他の人が持たないものをある人が得たから
といってそれを妬むなどということはありません。私たちは神の祝福を共に喜び、苦しみの中に
あっては互いを支え合うのです。パウロはその例えが意味するところを人々が見落としてしまわ
ぬように、その例えを明確に示すことによって自分の考えを締めくくっています。「あなたがた
はキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」皆さんはこの世界で一人ではあり
ません。自分がどんなに小さく、取るに足らない存在だと思えても、キリストの体の部分なので
すし、その体に不可欠な賜物を持っておられるのだからです。
私たちが住むこの街には、日々何千何万という人たちがおられます。日本政府によると、2020
年現在、横浜には 380 万人が住んでいます。私たちが住む社会は、他の多くのアジア諸国と同様
に、個人主義というよりも集団主義的な社会と言えるでしょう。つまり、一般的に西洋の世界観
と比べて、アジアでは個人よりも集団の利益を追求します。もちろんそれは、良いことにもなり
得ますし、悪いことにもなり得ます。ですが、これだけの人がいて、一つの目標や目的に向かっ
て共に働いているにも関わらず、日本は先進国の中でも自殺率が最も高い国です。社会から取り
残され、引きこもりとなり、極端に社会から孤立してしまう若者が増え続けています。そんな
中、教会は、創造主である神を拒絶する社会が決して与えることのできないものを人々に与える
ためにあります。真の家族、社会的な義務ではなく、心から互いを思いやる愛に基づいた繋がり
です。そのような繋がりのない教会があるでしょうか。残念ながらよくあります。もし皆さん
が、キリストを主とし救い主として従うとしたら何を諦められるだろうか、とか、教会員となっ
たらどんな益があるだろうと考え、教会にコミットすることをためらっているとしたら、聖書に
描かれているキリストの体あるいは家族とは、皆さんが思うどんな社会的組織よりも、家族のつ
ながりさえよりも優れているということをお伝えしたいです。外から見ているだけでは、決して
本当の意味でそれを経験することはできません。教会の一員となるためには、自分が聖書にある
唯一の神であり、創造主に栄光を帰すことのできない罪人であることを認め、福音のメッセージ
を受け入れなければなりません。罪を悔い改め、イエス・キリストを自分を罪から救って下さる
救い主として、また自分の主として受け入れて下さい。そうすれば、キリストの体に必要な部分
として、本当に愛されるとはどのような意味かを知ることができます。イエス・キリストを主で
あり救い主として知っておられますか。この世で、キリストの体に真に繋がっておられますか。
祈りましょう。
1Corinthians 12:12-27 The Connection that comes with Spiritual Gifts.
We started First Corinthians 12 last week, and if you remember, it starts by introducing
the subject of spiritual gifts by focusing us on the reason for their existence.
These gifts
are not given to us to put any of us individually in the spotlight, but are given for the
purpose of building up the church, the Body of Christ.
The key verse is 1Corinthians
12:7 To each is given the manifestation of the Spirit for the common good.
Rather than
dividing us against each other by who has what gift, this view of spiritual gifts unites us
around the fact that no matter what our gifts are, they all come from the same place,
the Holy Spirit who indwells each one of us.
This means that our gifts should be uniting
us in the one Body of Christ that the presence of the Holy Spirit makes us a part of.
This brings us to todayʼs passage, verses 12-27 of First Corinthians 12.
Of course, the
discussion remains focused on gifts which are given for the purpose of unity in the Body
of Christ.
But now Paul answers what may be an implied question.
If that purpose is the
common good of the Body, meaning that it builds unity, then why have all the different
gifts?
Paul demonstrates the importance of differing and unique spiritual gifts by going back to
the metaphor of the church as a body which of course is how he describes the church
many times in his letters.
He shows the importance of the many unique parts or gifts by
first looking at how they fit together and work together as part of a whole body.
Look at
verses 12-13.
For just as the body is one and has many members, and all the members
of the body, though many, are one body, so it is with Christ.
13 For in one Spirit we
were all baptized into one body̶Jews or Greeks, slaves or free̶and all were made to
drink of one Spirit.
Paul compares our existence as followers of Christ to how our human
bodies exist.
If we have accepted Jesus Christ as Lord and Savior then it is not possible
for us to live as a loner in this world or serve our own interests.
We are forever
connected with other Christians by the fact that we all share the same Holy Spirit.
In the
book of Galatians, the Apostle Paul makes clear that to have the Holy Spirit inside of us
or in his words here, “drink of one Spirit” means that we now live our lives by the Spirit
or in His strength.
Galatians 5:25-26 says, If we live by the Spirit, let us also keep in
step with the Spirit.
26Let us not become conceited, provoking one another, envying
one another.
Notice that Paul ties the Holy Spirit directly to how we connect with “one
another” and treat “one another” in the Body of Christ in Galatians 5.
The fact that all of
us have the Holy Spirit, and are supposed to be living by the Spirit means that we exist
in community, in a body with others who share that same Holy Spirit.
And the Holy Spirit
and the identity we have in Christ become what defines us, not our outward
circumstances of being Jew or Greek, slave or free.
The Bible simply does not recognize
a Christianity that exists apart from the Body of Christ, serving the Body and doing life
together as a body.
This leads to the idea of church membership that we believe is a
Biblical concept.
You should as a Christian be committed formally to doing life within a
local Body of Christ which is membership.
Verse 13 also makes it clear that baptism is
the entrance in a public way into that body.
Why do we require baptism for
membership?
Because it demonstrates publicly our commitment to Christ and therefore
the presence of the Holy Spirit in our lives.
The Baptism with water declares publicly the
spiritual baptism of the Holy Spirit that has taken place in salvation.
There are differing
views of the baptism of the Holy Spirit, but from the time we see it introduced with John
the Baptist, it is connected with having faith in Jesus Christ as Lord and Savior.
In
Matthew 3:11, John the Baptist says “I baptize you with water for repentance, but he
who is coming after me is mightier than I, whose sandals I am not worthy to carry.
He
will baptize you with the Holy Spirit and fire.”
Then in the book of Acts, those who follow
Christ are spoken of as being baptized in the Holy Spirit, sometimes after salvation if
they accepted Christ before Christ ascended and the Holy Spirit came.
In Acts 19:5-6
after Paul tells some people who Jesus was and they fully accepted him, we read, On
hearing this, they were baptized in the name of the Lord Jesus.
6 And when Paul had
laid his hands on them, the Holy Spirit came on them, and they began speaking in
tongues and prophesying.
By the time Paul writes his letters to the churches, it is clear
like we read here in 1 Corinthians 12 that to be baptized in the Holy Spirit is to receive
the Holy Spirit at salvation, which why he can speak to the church and say that we were
all baptized in the Holy Spirit and in water.
While we believe that believerʼs baptism by
immersion is the Scriptural form of baptism, we share a commitment to the sacrament
or ordinance of baptism with all true believers from many denominational backgrounds.
And while we may not agree on the specifics, we all agree on the necessity of baptism.
So we are supposed to be joined together with other believers where we actively
participate in the Body of Christ.
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