20230115_1Cor_11_17-34

First Corinthians  •  Sermon  •  Submitted   •  Presented   •  46:54
0 ratings
· 15 views
Files
Notes
Transcript
Sermon Tone Analysis
A
D
F
J
S
Emotion
A
C
T
Language
O
C
E
A
E
Social
View more →
コリント人への手紙 第一 11:17-34 無秩序な食卓 今日はコリント人への手紙 第一 11 章の残りの部分である 17〜34 節までを取り上げます。11 章の始めでパウロは、女性が礼拝の際、頭につけるかぶり物について言及していたことを覚えて いらっしゃるかと思います。そして 11 章の残りの部分では、礼拝におけるもう一つの問題であ る主の晩餐について語っています。10 章で偶像礼拝について論じる中でも、パウロは既に主の晩 餐に触れていました。この箇所では、私たちがどのように主の晩餐に臨むべきかについて論じて います。それを、コリントの人々の主の晩餐に対する姿勢を否定する形で示しています。コリン ト第一 11:2 は「私はあなたがたをほめたいと思います」と始まっていましたね。ですが、この 箇所はそのまま続くわけではありません。パウロはこの無秩序に食事をするどうしようもない教 会に、主の晩餐を守るよう指導していますが、私たちもそこに学ぶことがあります。 17 節から読みましょう。「17 ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめ るわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。 18 まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。あ る程度は、そういうこともあろうかと思います。19 実際、あなたがたの間で本当の信者が明ら かにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。20 しかし、そういうわけで、あなた がたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。21 というのも、食事のと き、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという 始末だからです。22 あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神 の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう 言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。」パ ウロは彼らがそれぞれ男として、女としてふさわしい身なりで礼拝に参加していることをほめま したが、次に主の晩餐に目を向けて彼らを褒めることができないと言っています。なぜなら、コ リントの教会が私たちが主の晩餐と呼んでいる主の食卓を蔑ろにしていたからです。食事の機会 が一部の人々の最悪な面を示す結果となり、教会内にある分裂をあからさまにしていたのです。 このことがパウロがコリントの教会について最初に解決しなくてはならなかった問題であり、お そらく主要な問題であったことに目を留めてください。彼が 18 節で「ある程度は」と言ってい るのは興味深い点です。それは、誰が真にキリストに従う者たちであるか、誰の行動が神に認め られるものかを明らかにするため、教会の中にある程度の分裂や派閥ができるのは自然な事だと パウロが思っていたからでしょう。では以前、教会内の不一致について強く非難していた姿勢を 変えたのでしょうか。決してそうではありません。ただ、こうした分裂が、誰が真に神の子ども 達であるかを明らかにする場合があるということを指摘しているに過ぎません。それは、27-31 節で主の晩餐の食卓にどのような姿勢で臨むのかによって、神が私たちを裁かれるのだという発 言に繋がっています。神は本当の信仰を持っており、正しい心で主の食卓に臨む者たちをご存知 です。 ここで何が起こっているのかを知るためには、初期の教会で主の晩餐をどのように祝っていたの かを理解する必要があります。教会員たちは、ギリシャ語で愛を意味する「アガペ」と呼ばれる 食事を定期的に共にしていました。その食事の席で出されるパンとぶどう酒を用いて主の晩餐に 与っていたのです。ですが、これは実際の食事でもありました。ですから、私たちが主の晩餐で 使うような小さなウエハースや小さなジュースカップはありません。この食事の席で、明らかに 一部の人たちは、自分たちが他の人たちよりもより多くの量の食事とワインをもらえるべきだと 思っているかのような食べ方、飲み方をしていたのです。貧しくて大したものを持ち寄れない人 と、裕福でお金も食べ物もたくさん持ってくる人との間の格差が表面化していたようです。様々 な立場に置かれたキリストに在る兄弟姉妹の間で、本当の愛を実践する場としてではなく、この 世にある格差が教会生活に影響を及ぼす場となる機会をこの食卓が与えてしまっていました。 今日もそうした心配があるでしょうか。もちろんあります。交わりが一致につながるはずが、今 日においても私たちを分断させ、分裂させる傾向があります。YIBC の場合、教会全体の交わり の中でそうしたことを見ることがあります。感謝祭の食事など、皆が同じ量、同じ種類の食べ物 をもらえるように努めました。ですが、誰と食べ、誰と交わるかについてはどうでしょう。一緒 にいる人は自分と同じような文化や言語といった背景を持っていないでしょうか。それとも、意 図的に自分とは異なる人たちを知り、教会内での自分のコミュニティーや交友関係を広げようと しているでしょうか。私たちを分断するものは、社会的な地位や貧富の差ではなく、経歴や国籍 と言ったものだと思います。自分が最も快適に感じる文化グループの中に主に身を置くこと自体 は罪ではありません。ですが、共に食事をするような教会の交わりの場で、意図的にそのような 垣根を取り払い、そうした行事を通して一致を目指すことが大切です。 コリントの人々は、主の晩餐という儀式を含んだ食事において、主の食卓を軽んじ、他人に対し 罪深く、恥ずべき行いをしていたのです。この罪深い行動に対するパウロの解決策は何だったで しょうか。23-26 節で彼が記した見慣れた言葉の中にそれを見ることができます。「23 私は主 から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、 24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わ たしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25 食事の後、同じように杯を取っ て言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚え て、これを行いなさい。」26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主 が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」聖霊はパウロを通して、間違った主の晩餐の在 り方に対する解決策を与えてくださいます。その解決策とは、主の晩餐に与るたびにその意味を 再確認することで、主の晩餐を真剣に受け止めるということです。コリントの人々は食卓の意味 を見失っていました。彼らにとって、この食卓がパーティーの場、酔っぱらう場、教会内での自 分の社会的地位を誇示する場でさえあったのです。パウロは、主の晩餐の意義に再度目を向けさ せます。初期の教会のように交わりの食事と共に行うにせよ、現代のように単独の礼拝行為とし て行うにせよ、主の晩餐が示す福音を決して見失ってはなりません。復活したキリストとの直接 の出会いを通して使徒となったパウロも、イエスとの最後の晩餐の席にはいませんでした。です から、彼がイエスを体験する中で、イエス・キリストご自身が最後の晩餐との関係と、その継続 的な意義を示されたのです。 彼らが守っていた主の晩餐の問題点は、礼拝においていつ、どのように行っていたのかではな く、なぜそれを行っていたかという点でした。主の晩餐の目指すところを見失っていたのです。 パウロはこの食卓の由来をキリストの言葉で語ることで、その意義を示し、彼らをその目的に立 ち返らせました。これを語ることで、パウロは晩餐に与るたびに、その由来、その意義、つまり 主の晩餐の目的を繰り返すことが大切だと言っているのです。ですから、今日、私たちも主の晩 餐に与るとき、福音書にあるキリストの言葉や、ここでパウロが語った言葉を御言葉から読み、 その意味を繰り返し語るのです。パウロがなぜこのような言葉を書き記したのかを説明したうえ で、この食卓に関するイエスの言葉がシンプルでありながらも、どれほど深いものであるかを見 ていきましょう。パウロは、この食卓が、イエスがご自分の弟子の一人であるイスカリオテのユ ダに裏切られて死ぬと分かっていた夜の出来事であったことをまず指摘しています。23 節に「主 イエスは渡される夜」とあります。そして、まずはパンを取り、感謝の祈りを捧げることから始 められました。イエスがご自分の死を覚える食卓につかれながらも、その心に感謝を持たれたと いうことを想像できますでしょうか。自分の体が割かれることで味わう痛みをイエスが心待ちに していたと思われますか。もちろんそうではありません。事実、ルカによる福音書 22 章で、イ エスが捕らえられる直前に園で祈っておられた姿が記されていますが、その祈りは苦しみを味わ いたくはないというイエスの人間的な側面を示すものでした。ルカ 22:42 にはこうあります。 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではな く、みこころがなりますように。」子なる神は、世の罪と御父の怒りをその身に負うことによっ て受ける、肉体的、霊的な苦しみを心待ちにしていた訳ではありませんが、父なる神の御心に全 てを委ねておられました。神の救いのご計画にご自身を委ねられたからこそ、その犠牲への感謝 を捧げられたのです。そしてパンを割き、「これはあなたがたのための、わたしのからだで す。」と言って、これから起きることを弟子たちに生々しく伝えています。イエスはローマ人の 鞭によって自分の肉体が割かれ、いばらの冠の長いとげが頭に押し付けられ、手足に釘を打た れ、殴られた体が十字架にかけられることによってでなければ、彼らに救いがもたらされないこ とをご存知でした。その砕かれた体、傷の一つ一つから血が流れました。へブル人への手紙 9:22 にはこうあります。「22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。 血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」罪の赦しには血の犠牲が必要であるという ことを、イエスは真理の御言葉を通して弟子たちや私たちに覚えていることを望まれました。で すから、イエスはパンを食べ、過ぎ越しの食事をとられた後に杯を取り「この杯は、わたしの血 による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」と言われたので す。これは極めて重要なイエスの発言です。ご自分の死が古い契約の成就であり、新しい契約の はじまりであると言っておられるのです。エレミヤ書 31:31-33 にはこうあります。「31 見 よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家 と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から 導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわ たしの契約を破った──主のことば──。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結 ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼ら の心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」福音と救いのメ ッセージは旧約と、アブラハムの子孫がこの世の救い主であるメシアを世に送り出すという契約 に始まりました。そのメシアとは、生贄という姿で繰り返し描かれました。救いの条件は旧約聖 書の律法に示されていますが、それは誰にも守ることができないものでした。ですが、エレミヤ 書の中で、神は律法を実際に守ることによって達成される聖さが人々の心に記される日が来るこ とを約束されています。そして今やイエスは、ご自分の死をもって動物の捧げ物全てを必要とし なくなる生贄が捧げられることで、この新しい契約が実現すると言っておられるのです。イエス が私たちの罪の罰をその身に受けて下さったので、イエスに信頼することで、その聖さと神の律 法を完全に守る力を与えていただくのです。そうすれが神が私たちをご覧になるとき、私たち自 身のものでなく、キリストの聖さと義をご覧になるのです。ただ、キリストの聖さゆえに、私た ちは父なる神に罪を赦して頂けるのです。 それこそが「この杯は、わたしの血による新しい契約です。」というシンプルなことばで表され ている福音です。そしてイエスは、私たちがこの食卓に与るたびに、キリストの死を通して福音 を宣べ伝えるのだと言われます。また、教会はこの地上にある限り、キリストが再臨されるまで これを行うべきであると明確に示されています。主の晩餐を行わない教会、行っていても稀にし か行わない教会があります。パウロもイエスも、どれくらいの頻度で主の晩餐に与るようには示 していませんが、それを行うべきだと明らかに命じています。「飲むたびに」とおっしゃってい るのですから、それなりに頻繁におこなうべきであったと思われます。私たちの教会では毎月行 っていますが、これを行うたびに福音を宣べ伝えるのですから、聖書的な観点で言えば毎週行っ ても良いと思われます。 これに与るたびにキリストのことばとその犠牲が示す福音を繰り返し宣言するのであれば、それ を食べ、飲むことは重要な事です。既に 10 章で、この食卓がキリストにあずかることであると いうパウロの主張を見ましたから、彼が何に基づいてこの食卓が重要であると言っているのかは 理解できます。27-34 節を読みましょう。「27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパン を食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 28 だれ でも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえ ないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。31 し かし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。32 私たちがさばか れるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らし められる、ということなのです。33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合 わせなさい。34 空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受け ないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします」 この食事の重要性から、主の晩餐にふさわしくない与り方をするなら、それに応じた結果を伴う ことは明らかです。パウロはそのことを明らかにすることなくこの議論を終わらせたくなかった ですし、彼らがどのように食事を共にしていたのかという点についても触れたかったようです。 それは、私たちが主の晩餐に与るとき、完ぺきであるべきだという訳ではなく、自分の分かって いる罪を謙虚に告白し、これを食べ、飲むのにふさわしい霊的な状態であるべきだということで す。それを、私は個人的な罪について吟味することだと思ってきましたが、29 節でパウロが何を 吟味しているかに注目してください。そこには「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者 は」と言っています。これには二つの意味があります。一つ目は、明らかに 10 章に関連してい て、私たちが主の晩餐を通してキリストとその肉体的な死に特別な形で霊的につながっているこ とを見過ごすことです。ですが、ここにはもう一つの意味があります。それは、主の晩餐がキリ ストの体である教会を一つにするものであるはずだということです。ですが、コリントの人々は 自己中心的な態度で食事に参加することで、教会に分裂を招いてしまっていたのです。主の晩餐 は個人的な行いではありません。キリストの体として集い、共に行う礼拝の行為なのです。 罪と自分勝手な思いを抱いたまま主の晩餐に与ることは、神にとって深刻な問題でしたから、そ うした罪深い形で主の晩餐に参加している幾人かに神の裁きが下りました。この礼拝行為に対す る罪深い態度から、病気になる者や死んでしまった者さえおりました。パウロは最後に、その罪 深さに対する解決策を与えていますが、その解決策とは無私の心でした。主の晩餐に身勝手な態 度で参加することが罪なわけですから、その解決策とは自分よりも他人を優先することでした。 他の人が食べられるようになるまで待ち、お腹が空いているのであれば集まる前に食べてくるこ とで、皆と食事を共にするときに自分勝手に飲みたいだけ飲み、食べたいだけ食べるなどという ことにならないようにします。もちろん、今日私たちが同じような形で主の晩餐を祝うことはあ りません。私たちは食事と主の晩餐を分けていますが、そこにある原則は同じです。主の晩餐に 私たちが自分とキリストの関係、またキリストの体との関係を吟味することなく与るなら、ふさ わしくない態度で参加していることになります。ですから今日、2000 年以上に渡ってクリスチ ャンを一つにしてきた、この食卓に再び与るにあたり、ご自分を吟味して頂きたいと思います。 人生において、まだ告白していない罪はないでしょうか。キリストの体において、罪深い行いや 身勝手な行動をとってしまったために和解する必要のある人はいないでしょうか。イエス・キリ ストをご自分の主であり救い主として既に受け入れておられ、洗礼を受けておられる方は、どう ぞ共に主の晩餐に与ってください。イエス・キリストを救い主として、ご自分の主としてまだ受 け入れておられず、洗礼を受けておられない方は、参加をご遠慮いただくようお願い致します。 私が祈った後、執事が礼拝堂の四隅でパンとジュースをお配りします。その後に共にこれを食べ 飲みたいと思います。祈りましょう。 1Corinthians 11:17-34 A Messy Table Today, we are covering the rest of First Corinthians 11, from verse 17-34. You will remember that at the beginning of chapter 11 Paul introduced the next topic which was the wearing of head coverings by women in worship. In the rest of Chapter 11, he now addresses another matter that was coming up in the worship service, involving the Lordʼs Supper. He has already brought up the topic of the Lordʼs Supper in Chapter 10 as he discussed idolatry. In this passage, he discusses how we should approach the Lordʼs Supper. But he does it by addressing the negative ways the Lordʼs Supper was being done in Corinth. Remember how this chapter began in 1Corinthians 11:2, Now I commend you... But that is not how this chapter continues. Paul instructs this Messy Church with a Messy Table on how to properly observe the Lordʼs Supper and today we should learn from that instruction. 17 Letʼs begin reading at verse 17. But in the following instructions I do not commend you, 18 because when you come together it is not for the better but for the worse. For, in the first place, when you come together as a church, I hear that there are divisions among you. And I 19 believe it in part, for there must be factions among you in order that those who are 20 genuine among you may be recognized. // When you come together, it is not the Lord's 21 supper that you eat. For in eating, each one goes ahead with his own meal. One goes 22 hungry, another gets drunk. What! Do you not have houses to eat and drink in? Or do you despise the church of God and humiliate those who have nothing? What shall I say to you? Shall I commend you in this? No, I will not. Although Paul commended them on the way they participated as both men and women in worship, he now turns his attention to the Lordʼs Supper and he cannot commend them. Instead, he condemns them, because the church at Corinth was making a mockery of the Lordʼs Table, what we call the Lordʼs Supper. This meal was bringing out the worst in some people and showing the divisions that existed in the church. Remember this was the first issue and likely the primary issue that Paul dealt with in the church at Corinth. It's interesting that he says he believes it at least “in part,” verse 18, because to him it is natural that there will be some division or factions in the church to show who is genuine in following Christ and have Godʼs approval on their actions. Is he changing his views on disunity in the church that he has strongly condemned previously? Definitely not. He is pointing out that these divisions do reveal in some cases who are truly Godʼs children. It is leading to his statement in verses 27-31 showing that God will judge us for how we come to the Lordʼs table at the Lordʼs Supper. God knows truly who are genuine in their faith and approaching the Lordʼs Table with the proper heart. We need to understand how the Lordʼs Supper was celebrated in the early church in order to see what was going on here. The church members would eat a meal together regularly called an “Agape” from the Greek word for love. This is where they would celebrate the Lordʼs Supper using bread and wine served as part of this meal. But it was truly a meal as well. So, none of the tiny wafers and tiny little juice cups that we use for the Lordʼs Supper! It was this meal where clearly some were eating and drinking in a way that showed they felt they were owed a bigger portion or more wine than others. It seems that the class divisions between those who were poorer who possibly could not contribute as much to the meal and those who were more wealthy and likely brought more money and food to it were coming to the surface. Instead of being a time to truly practice love towards brothers and sisters in Christ from all walks of life, it became an opportunity for class distinctions of the world to influence the life of the church. Do we still have to worry about this today? Yes. We have a tendency to separate ourselves and divide ourselves even today, when fellowship is supposed to unite us. For us, YIBC specifically, we can sometimes see that in church wide fellowships. We have done everything we can to ensure that something like the thanksgiving dinner is done in such a way that everyone gets the same amount and types of food. But what about who we eat with, who we fellowship with? Do they always have the same cultural and language background as you? Or are you intentionally trying to get to know people who are different than you are, to expand your friendships within the church outside of your natural community and comfort zone. I donʼt think its so much the class or wealth that divides us, but our backgrounds and nationalities. It is not inherently sinful to primarily spend time in the cultural group you are most comfortable with. But within the church fellowship like meals together, it is important to be intentional in breaking down those barriers and striving for unity through those types of events. So the Corinthians in the meal that included the Ordinance of the Lordʼs Supper were mocking the Lordʼs Table and treating others sinfully and shamefully through this meal. What was Paulʼs solution to this sinful behavior? We see it in the familiar words he now 23 writes in verses 23-26. For I received from the Lord what I also delivered to you, that the 24 Lord Jesus on the night when he was betrayed took bread, and when he had given thanks, [f] he broke it, and said, “This is my body, which is for you. Do this in remembrance of [g] 25 me.” In the same way also he took the cup, after supper, saying, “This cup is the new 26 covenant in my blood. Do this, as often as you drink it, in remembrance of me.” For as often as you eat this bread and drink the cup, you proclaim the Lord's death until he comes. The Holy Spirit, speaking through Paul gives us the solution to this divisive abuse of the Lordʼs Supper. The solution is to take the Lordʼs Supper seriously by rehearsing or repeating its meaning every time we partake. The Corinthians had lost sight of the meaning of the meal. To them it was another occasion for partying, drunkenness, and even lording their social position over others within the church. Paul points them back to the point of the Lordʼs Supper. No matter how it is observed whether it is done with a fellowship meal like the early church here or as it came to be practiced like we now do it, as a stand alone act of worship...we must not lose sight of the gospel that is proclaimed in this act. Remember that Paul, although an apostle through a direct encounter with the risen Christ, was not present at the original last supper with Jesus. So, at some point in his experience with Jesus, Jesus Christ himself had related the events of the Last Supper and explained their continuing significance to him. The problem with their practice of the Lordʼs Supper was not in when or how they were doing it with their worship, but in why they were doing it. They had lost sight of the purpose behind it. Paul brings them back to that purpose by reciting the history of the meal in Christʼs own words that also show us its significance. By reciting this, he is saying that repeating this history, this meaning and therefore the purpose of the Lordʼs Supper is important to do every time you partake of it. So, even today, when we partake of the Lordʼs Supper, we read directly from the scripture the words of Christ from the gospels or here as told by Paul in order to continue to rehearse the meaning of the meal every time we partake of it. Having explained why Paul gives us these verses, letʼs see exactly how simple, but yet how deep Jesusʼ words regarding this meal really are. Paul reminds us right away that this took place on the same night that Jesus knew he would be betrayed to his own death by one of his own disciples, Judas Iscariot. Verse 23 says ...the Lord Jesus on the night when he was betrayed... Then starting with the bread, he prayed a prayer of thanksgiving to begin. Can you imagine Jesus instituting a meal that will celebrate his death, and yet his mindset is one of thanksgiving? Do you think that Jesus was just looking forward to the pain that would come from his body being broken? Of course not. In fact in Luke 22, we find Jesus praying in the garden right before his arrest and his prayer is one that shows his humanity not wanting to go through the suffering. Luke 22:42 says, “Father, if you are willing, remove this cup from me. Nevertheless, not my will, but yours, be done.” God the Son wasnʼt looking forward to the suffering, either physical or spiritual as he took the sin of the world and the wrath of the Father, but he was committed to the will of God the Father. It is this commitment to Godʼs plan for salvation that led to his giving thanks for the coming sacrifice. So he breaks the bread and gives his disciples the graphic picture of what is coming as he says, This is my body, which is for you. He knows that their salvation must come through the flesh being torn from his body by a Roman whip, a sarcastic crown made of long thorns being pressed into his skull, nails being placed in his hands and feet, his beaten body being hoisted in the air on the cross, and a spear being thrust into his side. And with each of those wounds, blood flowed from his broken body. Hebrews 9:22 says, Indeed, under the law almost everything is purified with blood, and without the shedding of blood there is no forgiveness of sins. Jesus wanted to remind his disciples and us through his words of the truth that forgiveness of sin requires blood sacrifice. So, Christʼs words continue with him taking the cup after eating the bread and likely the rest of the Passover meal, and saying, “This cup is the new covenant in my blood. Do this, as often as you drink it, in remembrance of me.” This is an extremely significant statement that Jesus is making. He is saying that his death is the fulfillment of the Old Covenant and the beginning of the New Covenant. Jeremiah 31, verse 31 and 33 says 31 “Behold, the days are coming, declares the Lord, when I will make a new covenant with the house of Israel and the house of Judah,... 33 For this is the covenant that I will make with the house of Israel after those days, declares the Lord: I will put my law within them, and I will write it on their hearts. And I will be their God, and they shall be my people. The message of the gospel and salvation started with the Old Testament and a covenant between Abraham whose descendants would bring the Messiah, the Savior to the world. This messiah was pictured in sacrifice after sacrifice. The requirements for salvation were seen in the Old Testament law which no human being was capable of keeping. And yet right there in Jeremiah, God promises that a day is coming where the holiness that comes with actually keeping the law will be written on their hearts. Now, Jesus is saying that through his death, this New Covenant, this sacrifice to end all animal sacrifices will come to pass. Because of Jesus taking the punishment for our sins, we can place our faith in him and be given his holiness, his ability to fully keep Godʼs law. So that when God looks at us, he sees holiness and righteousness that is not our own, but is Christʼs. But on the basis of Christʼs holiness, we are then forgiven for our sin by God the Father. Thatʼs the gospel, laid out in this simple statement that “this cup is the new covenant in my blood.” And Jesus says that every time we come to this table and this meal, we are proclaiming the gospel through the death of Christ. And it is clear that the church should do this for the rest of her existence on this earth until Christ returns. I know churches that donʼt practice the Lordʼs Supper or rarely do it. Neither Paul nor Jesus give us a command on how often to partake of the Lordʼs Supper, but we are clearly to do it. And given that it says “as often as you drink it,” it seems it should happen more regularly than less. We do it monthly, but I can also see good Biblical reasons behind a weekly observance as well, since it proclaims the Gospel every time we observe it. Since this is a rehearsal of the gospel in the words of Christ and picture of his sacrifice every time we partake of it, then it is a serious matter to eat and drink this meal. We have already seen his argument in chapter 10 that it is a participation with Christ, so he has set the foundation for what he now says regarding the seriousness of this meal. Letʼs read 27 verses 27-34. Whoever, therefore, eats the bread or drinks the cup of the Lord in an 28 unworthy manner will be guilty concerning the body and blood of the Lord. Let a person 29 examine himself, then, and so eat of the bread and drink of the cup. // For anyone who 30 eats and drinks without discerning the body eats and drinks judgment on himself. That is 31 [i] why many of you are weak and ill, and some have died. But if we judged ourselves truly, 32 [j] we would not be judged. But when we are judged by the Lord, we are disciplined so that 33 [k] we may not be condemned along with the world. // So then, my brothers, when you 34 [l] come together to eat, wait for one another̶ if anyone is hungry, let him eat at home̶so that when you come together it will not be for judgment. About the other things I will give directions when I come. Clearly, with the serious nature of this meal, there is a consequence for partaking of the Lordʼs Supper unworthily. Paul does not want to end this discussion without making that clear, and also tying it back to the issue at hand with how they are partaking of it. The point is not that we will be perfect when coming to the Lordʼs Supper, but that we will humbly confess known sin and put ourselves in the right spiritual mindset to eat and drink this meal. I always looked at this examination as being personal sin, but notice in verse 29 the focus for Paul of this examination. He says, anyone who eats and drinks without discerning the body...There are two levels of meaning here. One is the obvious that ties back to chapter 10, we fail to see that we are connected to Christ and his physical death in a unique and spiritual way through the Lordʼs Supper. But there is a second meaning intended here, that the Lordʼs Supper is supposed to be a unifier of the Body of Christ, the church. And with how the Corinthians were conducting themselves, it instead had divided them by their selfish way of partaking in it. The Lordʼs Supper is not an individual act. It is an act of worship done together within the gathered body of Christ. Their harboring of sin and selfishness when participating in the Lordʼs Supper was so serious to God that his judgment had come on some of those who were participating in the Lordʼs Supper in this sinful way. Some were sick and ill and had even died because of their sinful approach to this act of worship. Paul ends with the solution to their sinfulness, and that solution was selflessness. It was their selfish approach to the Lordʼs Supper that had shown their sin, so the solution was to put others above yourself. Wait for others to be able to eat, and eat before you gather if you are hungry so that you are not a selfish glutton in sharing the meal with others. Of course we donʼt celebrate the Lordʼs Supper in the same way today. We separate it in our celebration from a full meal, but the principle remains the same. If we fail to examine ourselves and our relationship to Christ and to the Body of Christ before we partake, then we open ourselves up to participating in an unworthy manner. So, today we again come to an opportunity to partake of this meal that has united Christians through centuries over the last 2000 years, and I invite you to examine yourself as we prepare to receive this meal. Is there unconfessed sin in your life? Are there others within the Body of Christ that your have acted sinfully or selfishly toward and need to be reconciled with? If you know Jesus Christ as your Lord and Savior and have been obedient in baptism, then I invite you to join us in this Lordʼs Supper meal. If you have not accepted Jesus Christ as Savior and Lord or been baptized, then I would ask you to refrain from taking the elements. After I pray the Deacons will serve the elements from the 4 corners of the sanctuary and we will eat and drink together. Letʼs pray.
Related Media
See more
Related Sermons
See more