信じること

Book of Romans 2023  •  Sermon  •  Submitted   •  Presented
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2023年11月12日 杉並中通教会
ローマの信徒への手紙 10章9-18
山下ジョセフ
 キリスト教には、大事な教えがあります。それは、「人の罪のためにイエス・キリストは十字架にかけられ3日後のイースターに復活した。」ということです。この教えのベースは人の罪によって神との関係が断絶し、神と人間の関係を修復するために、イエスは十字架にかかる犠牲となったという教えです。
 僕はこの教え、特に「イエスが犠牲になった」というところに関して長い時期葛藤しておりその葛藤している理由を最近やっと言語化できるようになったのでご紹介したいかと思います。それは「人の犠牲を美化している世の中でイエス・キリストの十字架による犠牲に関して、単純に語っていいのか」ということです。特に日本の文化では人の犠牲を美化することが特に強調されています。その犠牲とは、公のため、すなわち家族、会社、国のため立場の弱い社会弱者に自己犠牲を強制し、その強いられた自己犠牲を美化し、犠牲者を称賛する、その犠牲によって社会強者による社会弱者への搾取を正当化し、継続させているのです。第二次世界大戦の特攻がそのよい例の一つです。特攻は日本軍が行った作戦であり、戦闘機や小型船などで敵軍の戦艦に体当たり攻撃をする、つまり乗っている人が死んでしまう自爆攻撃だったのです。この自爆攻撃を行っていたのは10代から20代前半の若者たちであり、志願制の建前がありましたが、実際には上官の暴力やプレッシャーによって志願しないという選択肢が奪われ、事実上の強制でした。「お国のために」という建前のために不当にも強制的に犠牲となった若者たちを日本は称賛し英雄扱いしていました。その風潮はいまだに続いており、特攻隊員を自ら志願した英雄と称賛する作品が数多くあり、特攻によって死んだ若者たちがいまだに美化され、正当化され続けています特攻隊の若者はお国を守った尊い犠牲ではなく、日本の権力者に殺された被害者なのです。
 また、この自己犠牲を美化する風潮は、普段の生活でも見ることができます。世の中で特に自己犠牲が美化され、搾取されているのは母親という存在ではないでしょうか。母親という存在は昔から24時間休みなく家事育児を求められ、夫を立てて、自分のことは二の次、もし、子供の身に何かが起こると全責任をかぶらされ、家事も育児も完璧が求められる。家事育児を完璧に行うことは「当たり前」であるとみなされ、少しでも楽をしようとすると責められる。父という存在は、そして母という存在が少しでも母自身のために行動しようとすると、「子育てはどうした」「夫へのサポートはどうした」などと文句を言われ、自己犠牲をしていない母への攻撃が始まります。そして、自己犠牲という名の搾取に甘んじて抵抗をしない母親は「良妻賢母」と称賛され、少しでも自分自身を大切にし、自己犠牲という名の搾取に抵抗している母親は「ダメな母親」のレッテルが張られます。これは昔の話かと思われがちですが、2020年の調査報告によると日本での家事育児の割合は女性8.5割、男性が1.5と判明しているため、現在もこの考えは根強く残っています。
 そのような弱い立場の人が強い立場の人への自己犠牲を美化し正当化している文化の中で生きていると、イエス・キリストの犠牲によって救われるという考えは搾取を肯定することになるのではないか。「イエス様も犠牲になったのだから、あなたも同じように犠牲になりなさい」と弱い立場の人へ犠牲になり、被害者になることを強要することになるのではないかと葛藤しています。そのような葛藤の中で本日の箇所を読みたいと思います。 
実は、本日の箇所は搾取されている弱い立場の人にとってはとんでもない聖書箇所だったのです。ローマの信徒への手紙10章9節「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」。9節の初めに「口でイエスは主であると公に言い表し」と書かれていますが、ローマの信徒への手紙が書かれていた時代は、ローマ帝国の時代でした。ローマ帝国で「主」と呼ばれることが許された存在は一人しかいませんでした。その存在とは「ローマ皇帝」です。ローマ帝国は完全なるピラミッド構造の国であり、頂点に皇帝がいました。ローマ皇帝は現人神であり、主と呼ばれる唯一の人物でした。「私たちの主はローマ皇帝だけである」という文化の中で、イエス・キリストを主と呼ぶことは、ローマ帝国への反逆です。すなわちイエス・キリストを自分の主と呼ぶことは、自分自身を支配し、搾取し、差別し、疎外している権力に対しての反逆であり、また、イエス・キリストの復活こそ、イエス様を十字架にかけて殺した人の罪・悪を乗り越え、人の罪・悪に勝利したあかしであり、私たちすべての人間にとっての救いなのです。そのことは11~12節に書かれています。「聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」。どんな民族であっても、人種であっても、社会的階級であっても、どんなセクシャリティであっても、どんなジェンダーであっても、すべての人へ分け隔てなく救いがあるのです。そして13節「「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」イエス・キリストが十字架にかかったのは人の罪の犠牲となるためではなく、イエス・キリストこそがすべての人間の救い主であり、主なる神で本人であることを証明するためだったのです。十字架にかかっているイエス・キリストを見ることは神の愛そのものを見ることなのです。すべての人間は神に愛されているからこそ救われたのです。僕たちはその十字架にかかったイエスを信じ、口で公に言うことだけでいいのです。
 イエス・キリストの十字架を通して救われた私たちには、与えられた使命があります。それは14~15節に書かれています「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」。世の中には神の愛を知らない人たちがたくさんいるので、それを伝えましょうとのことです。それをするにはどうすればよいのでしょうか。
少し極端な例ですが、1980年代のころ、著名な宣教師であるアーサー・ホーランドは夜な夜な新宿アルタ前の横断歩道へ行き、信号待ちをしている人たちへの辻説法ならぬ辻メッセージをしていました。そこでアーサー・ホーランド先生はシンプルに一つだけのことを語っていました。それは、道行く人たちに「あなたは愛されています」という短いメッセージでした。いろいろと難しい神学的な話でもなく十字架による救いのことでもなく、そこにいるすべての人を神様は初めから愛しているというシンプルなメッセージを語っていました。
別にすべての人が外へ出て神の愛に関して話す必要はありません。イエス様の救いを人々に伝える方法として隣人愛もあります杉並中通教会の先代の牧師であるサンサン先生は定期的に子ども食堂を行っていました。子ども食堂は、貧困の中で生きている子どもたちへ食事を提供する場所であると同時に地域の人たちが安心して集まることのできる場所であります。すなわちサンサン先生は子ども食堂を通して神様の愛を人々に示していたのです。僕自身、杉並中通教会に就任した際には、子ども食堂を復活させて、改めて地域への隣人愛を示したいと願っています。
イエス様の愛を宣べ伝える方法をもう一つお話ししたいと思います。それは、教会に尋ねてきた人を神が愛したように、分け隔てなく受け入れて愛することです。それこそ、軽く挨拶するだけでも良いですし、杉並中通教会は愛餐会があるので、愛餐会にお誘いして交わることです。分け隔てなく愛することは言葉でいうのは簡単ですが、実行するのはとても難しいものです。なぜなら、世の中にはいろんな人がいて、それぞれに神様に創られたときに与えられた個性があり、人それぞれに相性の良い個性と相性の悪い個性があります。また、人を分け隔てなく愛するためには、自分自身が無駄なプライドを捨てて、へりくだることを覚える必要があるのです。
僕自身、教会はどんな人物であっても安心して入ることができ、教会内では加害を受ける心配なく安全に過ごすことができる場所にしたいと願っています。それこそ、国籍も、人種も、ジェンダーも、セクシャリティも、障害も、病気も関係なくすべての人が安心して交わることができ、神を賛美することのできる場所にしたいと祈り願っています。しかし、これを達成するには僕自身成長する必要がありますし、教会に集う皆様にも僕と共に成長してくださるようにお願いします。そして、成長することによって、よりへりくだることができるようになり、どのような人であっても、神様に創られたそのままの姿を分け隔てなく愛することができる、そんな教会を目標に祈りつつ成長できればと願っています。
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