光に頼って歩もう

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 11月4日土曜日に、東京の杉並区で『第4回難民・移民フェス』が開かれました。難民・移民フェスとは、出店の物販や体験を通じて日本に住む外国人の方々、特に出身国での紛争や迫害から逃れ、安全な生活を求めて日本にたどり着いた難民たちや移民たちの背景を知り、交流し、そして募金などを通して支援する活動です。特に入荷に収容され、仮放免となった方々に行政は働く許可を与えないことが多いため、このような募金などの支援によって何とか生きながられている方々もいます。フェスでは外国のおいしい料理を食べたり、民族衣装や小物を買ったり、ステージでは難民の方々の歌や音楽を楽しんだり、難民の支援をしている方々の話を聞いたり、そしてフェスのクライマックスではみんなで楽しく綱引きをして、大盛り上がりをして終わるイベントです。僕自身、難民・移民フェスが好きで、個人的にすごく応援している理由は、このフェスが命の危険がある出身国からはるばる日本まで逃れてきたのに、日本政府にはそっぽを向かれ、行政の都合によって不当にも犯罪者のように扱われている人たちをみんなで支える、すなわち社会から疎外されている人たちへの隣人愛に基づいているイベントだからです。
 そのような隣人愛のあふれている場所となっている難民・移民フェスですが、前回は本当に許すことのできない醜悪な行為が行われました。僕自身はその行為を目撃しませんでしたが、神奈川新聞の石橋学記者がその一部始終をレポートされたため、その文脈から説明します。ある区議会議員「視察」と称してフェスにやってきました。その議員は外国人の人権に対して絶対反対の立場であり、公然とトランスジェンダー差別をしている差別主義者です。その議員はお茶を配っていた外国人の方に「パスポートを持っているのか」「ビザをちゃんと取得しているのか」などとしつこく尋ねていました。公に必要な場面以外でパスポートの有無のことなど尋ねることはプライバシーの侵害であり、もし、これをいやがらせ目的でやっていたのであれば完全なるハラスメントです。異変に気付いた周りの人が間に入り、その議員に対して「プライバシーに関することは聞くものじゃない」と咎められたところ「興味があることを聞いて何がいけないのか」と居直ったため、残念ながら帰ってもらったとのことです。この醜悪な出来事はここからエスカレートします。その議員は、SNS上で声明を上げるのですが、その内容は自分を被害者にした一方的な声明であり、その議員がハラスメントをしていた外国人から「神はあなたを殺すだろう」と脅迫されたといい、更に難民・移民フェスを悪質なイベントと呼んだのです。「神はあなたを殺すだろう」と言われたとその議員は言いましたが、実際に言った言葉は「難民の差別やめて。難民いらないは神様殺す。あなた、神様殺す」です。その外国人の方は日本語を話すのに難のある方なので、「差別をしたらバチが当たる」と言おうとしてたのは明白であり、決して脅迫ではありません。この議員の一方的な声明を、あろうことが大手新聞社の産経新聞がその議員の言い分だけを新聞に掲載し、議員によるデマが広がりました。更にその記事を見た「それ、あなたの感想ですよね」と人の揚げ足を取ることで有名な有名人がそのデマが書かれている記事を読んで「外国人への恐怖と話の通じなさを広めているだけの、目的の分からないイベント」だと拡散しました。一人の議員によるいやがらせとデマが何を生んだのかと言いますと、外国人に対しての恐怖を拡散したのです。ある特定のコミュニティのデマを拡散し、そのコミュニティに対しての恐怖と嫌悪をあおることは完全なる差別行為であり、ヘイトスピーチです。隣人愛を基にしたイベントが、差別主義者のヘイトスピーチによって妨害されたのです。僕はこの醜悪な出来事を見て強い怒りと憤りを覚えました。
 
 この出来事を踏まえて本日の箇所を読みたいと思います。
 
 本日の聖書箇所の時代は、イエス・キリストが生まれる540年ほど前になり、バビロン捕囚の末期とも言える時期です。バビロン捕囚とは、現在のパレスチナ地方に存在していたユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされ、ユダ王国の首都エルサレムはがれきの山となり、ユダの人々はバビロン帝国にによって強制的に移住させられます。その後、ペルシア王国によってバビロン帝国は滅ぼされ、ペルシア王は布告の布告によって人々がユダへ戻り始めている時期です。特に本日の聖書箇所を含むイザヤ書40章~55章は旧約聖書のネヘミヤ記と重なりあうところがいくつか見受けられます。ネヘミヤ記とは、ペルシア帝国のアルタクセルクセス王の献酌官(けんしゃくかん)ネヘミヤが廃墟と化しているエルサレムの話を聞き、とても悲しまれ、王の許可を得てエルサレムの城壁を立て直しにいった話です。ネヘミヤがエルサレムの城壁を立て直そうとしたところ妨害にあうのです。その箇所はネヘミヤ記4章1~4節です。「サンバラトとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドドの市民は、エルサレムの城壁の再建が進み、破損の修復が始まったと聞いて、大いに怒った。彼らは皆で共謀してエルサレムに攻め上り、混乱に陥れようとした。わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。しかし、ユダもこう言うのだった。「もっこを担ぐ力は弱り土くれの山はまだ大きい。城壁の再建などわたしたちにはできません。」わたしたちの敵はこう言っていた。「気づかれず、見つからないように侵入し、彼らを打ち殺して、工事をやめさせよう。」」。今回のイザヤ書の箇所は、まさに命の危険までもある妨害にあう目前で恐怖におののいているネヘミヤたちへの励ましの言葉でもあるように見えます。
 イザヤ書50章4~5説をお読みします。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。」バビロン捕囚中ユダの人々は互いに支えあい生きてきました。しかし、捕囚という先の見えない絶望の中で心身ともに削られていき、ユダに戻ることをあきらめていた人たちが増えてきました。しかしその中でも、必ず戻れるという希望を忘れずに生き続けた人たちもいました。そしていざ、戻れるようになったときにエルサレムを立て直しに行ったのです。そして希望に向かって生きてきた人たちがいざ戻ると酷い妨害にあったのです。
 
 イザヤ書50章6~9節「打とうとする者には背中をまかせひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っているわたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのかわれわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのかわたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ちしみに食い尽くされるであろう。」ネヘミヤたちがエルサレムの城壁を立て直していた際には妨害者たちにあざけられ、暴力によって危害を加えられ、殺されてしまう危険がありました。しかし、その危険な状態の中でもユダの人々は互いに守りあい、支えあいながら、エルサレムの城壁を立て直していました。なぜここまでできたのか、それはネヘミヤがエルサレムの城壁を立て直すことこそが神のから与えられた使命だと確信しており、また、妨害があるたびに神に祈り筒進めていたからです。 
 神が僕たちに命じたことの一つに、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉があります。一言でいうと隣人愛です。隣人愛を実践しようと努力すと痛感してしまうのですが、世の中には隣人愛に関して否定的な人たちがいます。差別している人に人権を与えたら私の安全が守られなくなってしまう。疎外されている人をこの輪の中に入れたら私のコミュニティの平和が乱されてしまう。あの人に対する搾取をやめたら私が金銭的に、また精神的に損する。だから、あの人たちを自分のように愛してはならない。人はそんな利己的な考えを持ってしまうのです。それこそ、難民・移民フェスで起こった醜悪な出来事のように、差別されている人、疎外されている人、搾取されている人、そのような弱い立場にいる人へ隣人愛を示そうとすると、必ずといっていいほど妨害が起きます。このような、差別や疎外、搾取を実際に行っている人もいれば、そういう差別主義者によって差別や疎外、搾取を受けている人への恐怖をあおられて妨害を始める人もいます。その妨害者にから心無い言葉を言われたり、実際に危害を加えられたりもします。それどころか、加害に対して自分自身の怒りをコントロールできなくなり、相手を傷つけようとしてしまうこともあります。
 イザヤ書50章10~11節「お前たちのうちにいるであろうか主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。」11節の松明はまさに僕たち人間の利己的な心です。また、恐ろしいことに僕たち自身がの自分の中にある差別心や利己心に気づかず、僕たちのほうが隣人愛を快く思わなくなってしまい、他の人を差別したり、疎外したり、搾取してしまうことがあります。それどころかその欲望にまみれた自分勝手な行動こそが神の導きであり、神の御心のままに行動していると勘違いしてしまうのです。だからこそ、しっかりと歩み・行いを顧み、自分の罪に気付き、その罪を日々悔い改める必要があります。正義に酔っぱらって暴走することは人への加害にしかなりません。
 隣人愛を実践することは狭い門から始まる細く険しい道なのです。しかし、神は神の使命を全うしようとする人達を細く険しい道で放置する人ではありません。神の使命である隣人愛を実践することはゴールの見えない真っ暗なトンネルを歩んでいるようなものです。それこそ、捕囚にあっていたユダの人々のように心が折れてあきらめてしまうこともあります。そういう時こそ、神が僕たちを導く光であることを確信持てますように。また、しっかりと神の光を見極めることができますように。そして互いに支えあいながら神からの使命を達成できますように。
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