ごった煮の集まり
Book of Romans 2023 • Sermon • Submitted • Presented
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2023年2月11日 杉並中通教会 降誕節第7主日礼拝
ローマの信徒への手紙16章1~16節
「ごった煮の集まり」山下ジョセフ
本日はローマの信徒への手紙16章からお話をしますが、先ほど読んでみてどのような印象を持ったでしょうか。「正直、人の名前の羅列だし、知らない人ばかりだし、ただの挨拶ですよね。」と思った方が多いかと思います。事実、本日の聖書箇所は使徒パウロがローマへ向かう前にローマの教会へ送った手紙に書かれた挨拶です。
しかし、2000年前の時代背景を知ってからローマ16章の挨拶を読むと、パウロは社会的にあり得ないとんでもないことをしていることが分かります。今回の箇所のとんでもなさを知るにはそれぞれの人物がどこの誰なのか知ることが大事です。
1節から2節をお読みしましょう。「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」まず初めにパウロはフェベという名前の女性の紹介をしています。フェベはどのような人物だったのでしょうか。フェベは聖書の中ではローマの信徒への手紙16章1節から2節でしか言及されていない人物ですが、このたった2節にフェベという人物に関してたくさんの情報が書かれています。まず、1節にケンクレアイの教会の奉仕者と書かれています。ケンクレアイは現在のギリシャの南のほうに存在していた港町であり、ギリシャの主要都市コリントの玄関口だり地中海貿易の要所の一つでした。ケンクレアイに住んでいたフェベはその教会の奉仕者でした。奉仕者と書かれていますが、新約聖書のもとの言語であるギリシャ語では「執事」とも意味する言葉であり、現代の教会では役員を意味する言葉です。すなわちフェベはケンクレアイの教会の執事、すなわちリーダーの一人であったということが分かります。また2節にはフェベが「援助者」であり、パウロを含む多くの人々の援助をしていたと書かれています。新約聖書時代には教会という建物はなく人の家に集まって礼拝を献げていました。ケンクレアイの教会はフェベの家に集まっていのです。また教会では裕福な人が貧困に苦しんでいる人の援助をすることが当然だったため、フェベは教会に集う貧困に苦しんでいる人々の生活の援助をしていたと思われます。そしてパウロはローマの信徒への手紙をフェベに託し、フェベがローマへ手紙をもっていきました。また、当時は一部の人以外は文字を読めなかったため、代表者がみんなの前で手紙を読み上げるのですが、フェベが代表としてパウロの書いた手紙を読んだのです。
フェベは文字を読むことができ、パウロ達キリスト者の生活の援助をしており、パウロの書いた手紙をローマへ送り届ける手段を持っている裕福な家族の一員であり、ケンクレアイの教会のリーダーであったことが分かります。フェベに関してもう一つ特筆すべき点があります。それはフェベを紹介するときにフェベ以外の人物が一緒に紹介されていないことです。他の人の紹介を見ればわかる通り、同じ家族だったり夫婦だったりすると同時に紹介されています。これは何を意味するのかと言いますと、女性であるフェベがケンクレアイの教会のリーダーだったということです。聖書の時代、女性は人間扱いされておらず、夫や父などの所有物としてみなされていました。女性が男性の上に立つことは許されず、それどころか男性の集まっている場所では女性が発言することも許されていませんでした。そのような男尊女卑が徹底されている社会においてフェベは教会のリーダーだったのです。このようにフェベの存在は聖書時代の教会の姿を現しているのです。つまり、教会は男女等ジェンダーに関係なく全ての人が等しく神に召され、神に仕えることができるということなのです。教会は男尊女卑の社会の中でジェンダー平等が実現できる場所なのです。
16章に書かれている他の女性たちを見るとさらにジェンダー平等の教会の姿が見えます。3節にはプリスカとアキラという夫婦の名前があります。プリスカが妻であり、アキラが夫です。男尊女卑が徹底されていたローマ社会では夫の前に妻の名前が呼ばれることはありえないことだったのです。しかし、ここではあえて妻の名前を書くことによって教会がジェンダー平等であることが表されています。6節にはマリア、12節にはトリファイナ、トリフォサ、ペルシスという名前があります。この4人は全員女性であり、教会のために熱心に働いていることをパウロに褒められています。女性が家庭以外で働くことが期待されていなかった時代にこの女性たちは教会のために熱心に働いていたのです。
しかし、新約聖書の時代には実現していたジェンダーの平等は教会の歴史の中で崩れていき、教会も男尊女卑になっていったのです。それこそ、女性は牧師になることが許されず、それどころか礼拝の司会者やお祈りなど礼拝中に発言をすることさえも許されなくなっていたのです。その教会内の象徴的な出来事が7節にあります。「わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。」この箇所には「ユニアス」という名前がありますが、これは完全な誤訳であり、正しくは「ユニア」です。「ユニアス」は男性の名前であって「ユニア」は女性の名前です。なぜ女性の名前が男性の名前に代わってしまったのか、それは7節に書かれている「使徒」という言葉がかかわっています。使徒とは、イエス・キリストのことを人々に宣べ伝えることに責任を持ち、福音宣教を本業とした人々です。すなわち、現在においては牧師のような立場の人々でした。しかし、聖書翻訳者に「女性が使徒であるわけがない」という偏見があったため、女性であった「ユニア」が男性名の「ユニアス」と変えられてしまったのです。これはキリスト教の負の歴史の一つであり、ひとりのキリスト教徒としては決して忘れてはならない教会の持っている偏見によって起こってしまった差別なのです。ただ、最近に出版された聖書には「ユニア」と正しく訳されているため、改善はされています。個人的には誤訳であっても、アンドロニコとユニアスと、まるで男性二人が同性愛のパートナーのように書かれているようになるので、それはそれで面白いと思いますが…
ローマの信徒への手紙16章を読むと、パウロは女性を重用していたことが分かり、新約聖書時代の教会では男女平等が実現されていることが分かりましたが、それ以外にもわかることがあります。それは、教会には多様な人々がいるということです。例えば、6節には「マリア」という名前の人がいますが、名前からわかるようにユダヤ人です。フェベはギリシャ人であり、9節にはウルバノという名前の人がいますが、これはローマの名前であるためウルバノはローマ人です。すなわち様々なルーツを持っている人が教会に集っているということです。そしてローマ帝国は地中海全体を支配していた大国だったため、ローマの教会にはアジア人もアフリカ人もヨーロッパ人もいてもおかしくなかったのです。教会は人種や民族的多様性に満ちていたのです。
また、教会には様々な社会的地位の人がいることもわかります。10節にアリストブロ家の人々と11節にはナルキソ家の中で主を信じている人々と書かれています、この~家の人々とはその家が所有している奴隷たちです。また11節にヘロディオンという名前の人物がいますが、この人はユダヤの権力者ヘロデ家の元奴隷の自由人です。自由人でありますが元奴隷であるため苦しい貧困生活をしていたことが想像できます。3節にはプリスカとアキラという名前の人物たちがいますが、この二人がローマの教会として使用する家を提供していた夫婦です。すなわち貧困に苦しんでいる人々を援助する財力を持っている裕福な夫婦ということです。教会には裕福な人もいれば奴隷もいたのです。
新約聖書の時代の教会はジェンダーの区別や差別はなく、様々の民族や社会的地位の人々が神様に招かれて集まる場所でした。それこそごった煮と言ってもよいような場所です。しかし、教会の歴史を紐解くと決してそのような場所ではないことがむしろ多かったのです。新約聖書の時代から数百年たつと女性ははじに追いやられ男性中心の場所となり、互いに対立し分裂を続けていました。また、聖書を悪用することによって人種差別を行い、奴隷制度を正当化していた時もあり、奴隷制度が撤廃された後も人種間の交際はしてはならないという教えをしていた時代もあります。これは海外の教会の話ですが、日本の教会も他人事ではありません。本日は「建国記念日」ですが、日本のキリスト教会の多くでは「信教の自由を守る日」と呼んでいます。建国記念日は1966年に制定された休日ですが、1873年に制定された「紀元節」という祝日にルーツを持っています。「紀元節」とは初代天皇の即位を記念した日であり、個人の思想信条や信仰を抑圧し天皇制を人々に強要するために定められた日です。第二次世界大戦中、人々に天皇崇拝が強要され、キリスト教会も国の管理下に置かれました。管理下に置かれた教会は、日本が武力で脅して韓国を支配することや、アジアの国々への日本軍の侵略戦争を支持をするようになったのです。これは日本の教会罪であり、その一員である私たち、とくに大和民族である私たちが忘れてはならないことであり、悔い改め続け、謝罪し続ける必要があるのです。その反省をもとに、1966年の紀元節と同じ日である2月11日に建国記念日を制定することは国による人々への天皇制の強要が繰り返されてしまう恐れから、多くのキリスト教会では「建国記念日」を「信教の自由を守る日」と呼んでいます。
教会はごった煮の集まりなのです。ごった煮ということは、年齢も人種も国籍も財力も社会的地位もジェンダーもセクシュアリティも関係なく、ありとあらゆる属性を持つ全ての人が神に招かれて集まり、共に神を礼拝し、祈りあい励ましあう場所なのです。もし、特定の属性を持つ人々が教会から追いやられているのであれば、それは健康な教会とは言えません。現在では、追いやっていたことにやっと教会が気づき、教会が悔い改め謝罪をしなければならない。それは同性愛者やトランスジェンダーのクィアな人々、いわゆるLGBTQIA+の人々です。教会はその長い歴史の中で同性愛を罪だと断罪し、LGBTQIA+の人々を迫害していた歴史があります。聖書では決して同性愛を罪だとみなしていません。7節に書かれている女性の「ユニア」が男尊女卑のキリスト教会の偏見によって男性の「ユニアス」とみなされていたように、同性愛を罪だと断罪していると言われている箇所は同性愛者に対しての偏見によって間違った解釈がされているのです。全ての人が招かれているということは何の誇張でもなく、本当に全ての人が招かれているのです。私たち自身が偏見を持っている属性の人々も招かれているのです。教会の理想の姿はまさにごった煮なのです。私たちも新約聖書時代の教会のようにありとあらゆる人々が集まるごった煮の教会を目指したいと祈り願っています。2023年2月11日 杉並中通教会 降誕節第7主日礼拝
ローマの信徒への手紙16章1~16節
「ごった煮の集まり」山下ジョセフ
本日はローマの信徒への手紙16章からお話をしますが、先ほど読んでみてどのような印象を持ったでしょうか。「正直、人の名前の羅列だし、知らない人ばかりだし、ただの挨拶ですよね。」と思った方が多いかと思います。事実、本日の聖書箇所は使徒パウロがローマへ向かう前にローマの教会へ送った手紙に書かれた挨拶です。
しかし、2000年前の時代背景を知ってからローマ16章の挨拶を読むと、パウロは社会的にあり得ないとんでもないことをしていることが分かります。今回の箇所のとんでもなさを知るにはそれぞれの人物がどこの誰なのか知ることが大事です。
1節から2節をお読みしましょう。「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。」まず初めにパウロはフェベという名前の女性の紹介をしています。フェベはどのような人物だったのでしょうか。フェベは聖書の中ではローマの信徒への手紙16章1節から2節でしか言及されていない人物ですが、このたった2節にフェベという人物に関してたくさんの情報が書かれています。まず、1節にケンクレアイの教会の奉仕者と書かれています。ケンクレアイは現在のギリシャの南のほうに存在していた港町であり、ギリシャの主要都市コリントの玄関口だり地中海貿易の要所の一つでした。ケンクレアイに住んでいたフェベはその教会の奉仕者でした。奉仕者と書かれていますが、新約聖書のもとの言語であるギリシャ語では「執事」とも意味する言葉であり、現代の教会では役員を意味する言葉です。すなわちフェベはケンクレアイの教会の執事、すなわちリーダーの一人であったということが分かります。また2節にはフェベが「援助者」であり、パウロを含む多くの人々の援助をしていたと書かれています。新約聖書時代には教会という建物はなく人の家に集まって礼拝を献げていました。ケンクレアイの教会はフェベの家に集まっていのです。また教会では裕福な人が貧困に苦しんでいる人の援助をすることが当然だったため、フェベは教会に集う貧困に苦しんでいる人々の生活の援助をしていたと思われます。そしてパウロはローマの信徒への手紙をフェベに託し、フェベがローマへ手紙をもっていきました。また、当時は一部の人以外は文字を読めなかったため、代表者がみんなの前で手紙を読み上げるのですが、フェベが代表としてパウロの書いた手紙を読んだのです。
フェベは文字を読むことができ、パウロ達キリスト者の生活の援助をしており、パウロの書いた手紙をローマへ送り届ける手段を持っている裕福な家族の一員であり、ケンクレアイの教会のリーダーであったことが分かります。フェベに関してもう一つ特筆すべき点があります。それはフェベを紹介するときにフェベ以外の人物が一緒に紹介されていないことです。他の人の紹介を見ればわかる通り、同じ家族だったり夫婦だったりすると同時に紹介されています。これは何を意味するのかと言いますと、女性であるフェベがケンクレアイの教会のリーダーだったということです。聖書の時代、女性は人間扱いされておらず、夫や父などの所有物としてみなされていました。女性が男性の上に立つことは許されず、それどころか男性の集まっている場所では女性が発言することも許されていませんでした。そのような男尊女卑が徹底されている社会においてフェベは教会のリーダーだったのです。このようにフェベの存在は聖書時代の教会の姿を現しているのです。つまり、教会は男女等ジェンダーに関係なく全ての人が等しく神に召され、神に仕えることができるということなのです。教会は男尊女卑の社会の中でジェンダー平等が実現できる場所なのです。
16章に書かれている他の女性たちを見るとさらにジェンダー平等の教会の姿が見えます。3節にはプリスカとアキラという夫婦の名前があります。プリスカが妻であり、アキラが夫です。男尊女卑が徹底されていたローマ社会では夫の前に妻の名前が呼ばれることはありえないことだったのです。しかし、ここではあえて妻の名前を書くことによって教会がジェンダー平等であることが表されています。6節にはマリア、12節にはトリファイナ、トリフォサ、ペルシスという名前があります。この4人は全員女性であり、教会のために熱心に働いていることをパウロに褒められています。女性が家庭以外で働くことが期待されていなかった時代にこの女性たちは教会のために熱心に働いていたのです。
しかし、新約聖書の時代には実現していたジェンダーの平等は教会の歴史の中で崩れていき、教会も男尊女卑になっていったのです。それこそ、女性は牧師になることが許されず、それどころか礼拝の司会者やお祈りなど礼拝中に発言をすることさえも許されなくなっていたのです。その教会内の象徴的な出来事が7節にあります。「わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。」この箇所には「ユニアス」という名前がありますが、これは完全な誤訳であり、正しくは「ユニア」です。「ユニアス」は男性の名前であって「ユニア」は女性の名前です。なぜ女性の名前が男性の名前に代わってしまったのか、それは7節に書かれている「使徒」という言葉がかかわっています。使徒とは、イエス・キリストのことを人々に宣べ伝えることに責任を持ち、福音宣教を本業とした人々です。すなわち、現在においては牧師のような立場の人々でした。しかし、聖書翻訳者に「女性が使徒であるわけがない」という偏見があったため、女性であった「ユニア」が男性名の「ユニアス」と変えられてしまったのです。これはキリスト教の負の歴史の一つであり、ひとりのキリスト教徒としては決して忘れてはならない教会の持っている偏見によって起こってしまった差別なのです。ただ、最近に出版された聖書には「ユニア」と正しく訳されているため、改善はされています。個人的には誤訳であっても、アンドロニコとユニアスと、まるで男性二人が同性愛のパートナーのように書かれているようになるので、それはそれで面白いと思いますが…
ローマの信徒への手紙16章を読むと、パウロは女性を重用していたことが分かり、新約聖書時代の教会では男女平等が実現されていることが分かりましたが、それ以外にもわかることがあります。それは、教会には多様な人々がいるということです。例えば、6節には「マリア」という名前の人がいますが、名前からわかるようにユダヤ人です。フェベはギリシャ人であり、9節にはウルバノという名前の人がいますが、これはローマの名前であるためウルバノはローマ人です。すなわち様々なルーツを持っている人が教会に集っているということです。そしてローマ帝国は地中海全体を支配していた大国だったため、ローマの教会にはアジア人もアフリカ人もヨーロッパ人もいてもおかしくなかったのです。教会は人種や民族的多様性に満ちていたのです。
また、教会には様々な社会的地位の人がいることもわかります。10節にアリストブロ家の人々と11節にはナルキソ家の中で主を信じている人々と書かれています、この~家の人々とはその家が所有している奴隷たちです。また11節にヘロディオンという名前の人物がいますが、この人はユダヤの権力者ヘロデ家の元奴隷の自由人です。自由人でありますが元奴隷であるため苦しい貧困生活をしていたことが想像できます。3節にはプリスカとアキラという名前の人物たちがいますが、この二人がローマの教会として使用する家を提供していた夫婦です。すなわち貧困に苦しんでいる人々を援助する財力を持っている裕福な夫婦ということです。教会には裕福な人もいれば奴隷もいたのです。
新約聖書の時代の教会はジェンダーの区別や差別はなく、様々の民族や社会的地位の人々が神様に招かれて集まる場所でした。それこそごった煮と言ってもよいような場所です。しかし、教会の歴史を紐解くと決してそのような場所ではないことがむしろ多かったのです。新約聖書の時代から数百年たつと女性ははじに追いやられ男性中心の場所となり、互いに対立し分裂を続けていました。また、聖書を悪用することによって人種差別を行い、奴隷制度を正当化していた時もあり、奴隷制度が撤廃された後も人種間の交際はしてはならないという教えをしていた時代もあります。これは海外の教会の話ですが、日本の教会も他人事ではありません。本日は「建国記念日」ですが、日本のキリスト教会の多くでは「信教の自由を守る日」と呼んでいます。建国記念日は1966年に制定された休日ですが、1873年に制定された「紀元節」という祝日にルーツを持っています。「紀元節」とは初代天皇の即位を記念した日であり、個人の思想信条や信仰を抑圧し天皇制を人々に強要するために定められた日です。第二次世界大戦中、人々に天皇崇拝が強要され、キリスト教会も国の管理下に置かれました。管理下に置かれた教会は、日本が武力で脅して韓国を支配することや、アジアの国々への日本軍の侵略戦争を支持をするようになったのです。これは日本の教会罪であり、その一員である私たち、とくに大和民族である私たちが忘れてはならないことであり、悔い改め続け、謝罪し続ける必要があるのです。その反省をもとに、1966年の紀元節と同じ日である2月11日に建国記念日を制定することは国による人々への天皇制の強要が繰り返されてしまう恐れから、多くのキリスト教会では「建国記念日」を「信教の自由を守る日」と呼んでいます。
教会はごった煮の集まりなのです。ごった煮ということは、年齢も人種も国籍も財力も社会的地位もジェンダーもセクシュアリティも関係なく、ありとあらゆる属性を持つ全ての人が神に招かれて集まり、共に神を礼拝し、祈りあい励ましあう場所なのです。もし、特定の属性を持つ人々が教会から追いやられているのであれば、それは健康な教会とは言えません。現在では、追いやっていたことにやっと教会が気づき、教会が悔い改め謝罪をしなければならない。それは同性愛者やトランスジェンダーのクィアな人々、いわゆるLGBTQIA+の人々です。教会はその長い歴史の中で同性愛を罪だと断罪し、LGBTQIA+の人々を迫害していた歴史があります。聖書では決して同性愛を罪だとみなしていません。7節に書かれている女性の「ユニア」が男尊女卑のキリスト教会の偏見によって男性の「ユニアス」とみなされていたように、同性愛を罪だと断罪していると言われている箇所は同性愛者に対しての偏見によって間違った解釈がされているのです。全ての人が招かれているということは何の誇張でもなく、本当に全ての人が招かれているのです。私たち自身が偏見を持っている属性の人々も招かれているのです。教会の理想の姿はまさにごった煮なのです。私たちも新約聖書時代の教会のようにありとあらゆる人々が集まるごった煮の教会を目指したいと祈り願っています。