あなたを待っていた

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サマリア人とユダヤ人の対立は本当に根深いものでした。イエス様が生まれる500年前、バビロン捕囚からエルサレムへ戻り、神殿と町の修復を終えた後、他民族と交わった存在としてサマリア人のルーツとなる人々ユダヤ人社会から追い出されました。ユダヤ人社会から追い出されエルサレム神殿で神を礼拝することができなくなったため、サマリア人たちはゲリジム山に神殿を建てました。イエス様の生まれる100年ほどの前の紀元前107年、当時のユダヤの王ヨハネ・ヒルカノス1世は軍勢を率いて、サマリア人の聖地であるゲリジム山に建てられていた神殿を破壊しました。本日の聖書箇所はそのサマリア人の聖地であるゲリジム山の近くにある町シカルでの出来事です。
ユダヤ人が南のユダから北のガリラヤへ移動する場合、サマリア人の住む地域を通ったほうが早かったのですが、ユダヤ人は敵であるサマリア人と関わりを持ちたくなく、回りをして移動することが当たり前でした。イエス様はサマリアの地域を通ってユダからガリラヤへ移動していました。そこでイエスはあるサマリア人の女性と出会ったのです。
このサマリア人の女性は5回結婚しましたが、5回とも婚姻を解消している状態の人です。結婚を終える方法は2つあります、一つはどちらか片方が死ぬことによって終わること、もう一つは離婚することによって終わることです。正直、夫と5回も死別することはにわかに信じることができないので、5回とも離婚だったのではないかと思います。聖書時代のパレスチナ地方において女性は男性の所有物であり、結婚とは所有者である父から夫となる男へ譲渡することでありました。つまり、離婚は男性のみが選ぶことのできる特権であり、男性の都合によって離婚することできます。結婚した女性の義務は健康な男子を産むことであり、子供を産めない女性は義務を果たすことができない価値のない存在だとみなされます。このサマリア人の女性は子どもを産むことができず、5回も離婚させられたのではないでしょうか。もはや行き場を失ったサマリア人の女性は結婚すらしてくれない男の共に暮らさざるを得なくなったのです。
イエス様の時代。井戸とは交流の場所でした。毎朝、水を汲みに集まり、ご近所さんと会話を楽しみながらワイワイと水を汲んでいました。しかし、このサマリア人の女性は誰も集まらない正午に水を汲んでいました。なぜなら、結婚もせずに男と暮らしている不品行の女とみなされており、他の人と交流を許されていない罪人とされていたからです。
男の都合によって振り回され、傷つけられ、社旗から放り出されたサマリア人の女性は、ユダヤ人の都合によって破壊されたゲリジム山の神殿の跡地と自分自身を重ね合わせ、絶望しかない状況から救い出してくださるメシアの到来を祈り願っていたのではないでしょうか。ある日、いつものように誰もいない時間に井戸へ水を汲みに行ったところ、見知らぬユダヤ人が休んでいました。そのまま無視しようとしたところ、そのユダヤ人から「水を飲ませてください」と声をかけられました。サマリア人の女性はとても驚きました。なぜなら、彼女はユダヤ人の敵とみなされていたサマリア人であり、また、正午に水を汲みに来る訳ありの人物だったからです。驚いた彼女は思わず言ってしまいました。「なぜ、私に水を飲ませてほしいと頼むのですか。」10節をお読みします「イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」」。イエス様はサマリア人の女性の質問に答えず、私に水を頼めば生きた水を与えたであろうと答えました。イエス様はどのような意図をもって、こんなことを言ったのでしょうか。本日の聖書箇所の16から18節にイエス様の意図が見え隠れしています。「イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」」。イエス様はこの女性から「夫はいません」としか聞いていないのに、この女性の人生を知っていたのです。イエス様はこのサマリア人の女性の傷を知っていたのです。つまり、イエス様は初めからこの女性に会いに来ていたのではないでしょうか。イエス様は水を必要としていなかったのです。正直、弟子たちと一緒に買い物へ行ってもよかったのです。しかし、イエス様はそのようなことをせず、誰も井戸に来ないであろう正午という時間に来るこの傷だらけの女性を待っていたのです。そして、過酷な人生に翻弄され絶望していたこの女性に、心が乾ききっているこの女性に真の生きた水を与えたいと待っていたのです。14節「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」。ユダヤ人文化での「平和・平安」は心身ともに満たされている状態のことを指します。すなわち、イエス様から生きた水を与えられたら心身ともに満たされた真の平安を得ることができると語っているのです。
15節「女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」」この女性はイエス様言葉から希望を見出したのです。
このサマリア人の女性は無価値な存在として蔑まれ社会から追いやられ疎外されていました。イエス様はこの女性の人生を知っており、この女性の負った傷を全て知っていたのです。そして、この女性に会うためにサマリア人の町シカルへ行き、井戸で待っていたのです。私たちの人生においても傷はあります。それこそ、誰にも話すことのできないような恥ずかしい傷があることもあります。イエス様は私たちのすべてがご存じです。そして、わざわざこの女性に会うために待っていたように、私たち一人ひとりと会うために待ってくださっているのです。どこにもなじむことができず、孤独に苦しんでいる私たちを満たしてくださる方が私たちのことを待っているのです。これこそが私たちに与えられた神の恵みであり、決して乾くことのない生きた水なのです。
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