傲慢だと何もできない

Gospel of John 2024  •  Sermon  •  Submitted   •  Presented
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2024年6月2日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書3章31~36節
「傲慢だと何もできない」山下ジョセフ
本日の聖書箇所はバプテスマのヨハネの語っている言葉です。バプテスマのヨハネはヨルダン川の流域で活躍された人物であり、天の国の到来(すなわちイエス・Kリストの到来)を人々に宣べ伝え、悔い改めのバプテスマを授けていた人物であり、イエスにバプテスマを授けた人物です。ヨハネには多くの弟子がおり大変大きな影響力を持っていましたが、傲慢になることなくへりくだって神から与えられた使命を全うした人物です。ヨハネによる福音書1章26~27節のヨハネの言葉からその人柄をうかがい知ることができます「ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」」。ここでヨハネが語っているその人とはイエス・キリストのことであって、ヨハネ自身も自分の役割は神の国、天の国そのものであるイエスの道を整えることであり、自分自身は決して神ではないということを理解し、へりくだって神に従っていたのです。本日の箇所はイエスが南のユダヤ地方にいたころヨハネにあったことが書かれています。
ヨハネによる福音書3章22~24節「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。」23節に書かれているサリムとアイノンの具体的な位置は不明ですが、アイノンという地名は泉のある場所という意味があり、また23節には水が豊かにあったと書いてあるため、サリムとアイノンは泉が多かったヨルダン川流域の中央部あたりにあったと言われています。
24節「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。」と書かれていますが、ヨハネによる福音書ではこの先言及されていませんが、他の三つの福音書であるマタイ・マルコ・ルカによるとヨハネはガリラヤの領主ヘロデの悪行を非難したことによって不当に捕らえられ、後に殺されたことが分かりますが、ヨハネによる福音書にでは24節でさらっと書かれているだけです。
25節「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。」ユダヤ教において、水で人を清める儀式を定期的に行っていました。それこそ病気などが治った後に水で清めることによってはじめてその人は清められた・治ったとみなされたのです。そこで、ユダヤ人たちの中にはヨハネによる悔い改めのバプテスマ、つまり人を水に浸すことは清めの儀式と何が違うのかと疑問を持っていた人もおり、ヨハネの弟子たちに尋ねていたのです。
26~30節「彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」」1章でも言っていたように、ヨハネは神から与えられた自分の役割、つまりイエスの前に遣わされたものであることを全うしていました。29節には介添え人と書かれていますが、これは友人と訳することもできます。つまい、ヨハネによってかけがえのない友人でもあるイエスがバプテスマを受け、宣教を始めたことによって大いに喜んでおり、それはヨハネ自身の働きも後に終わるであろうことを語っていたのです。
そして、ヨハネ自身はその役割を終えたことを語った後に、本日の箇所に入ります。ヨハネによる福音書3章31節「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」前回でもお話ししましたが、イエスこそが天の国、神の国として現れた存在であり、ここでヨハネの語っている上から来られる方です。
32節「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」これはイエスご自身の働きを表しています。イエスはその公生涯の中で、病に苦しむ人を癒し、汚れているとみなされた人に触れ、差別されている人と共に過ごし、抑圧されている人を引き揚げていた人です。イエスの言葉は優しくとも、厳しくともあり、力強さのあるものでした。それこそがイエスの証しだったのです、しかしここにも書かれている通り、イエスの証しを受け入れない人々もいました。特にイエスの弟子が増えて影響力が高くなることに恐れていた人たちに命を狙われるようになるのです。そのことが4章1節と3節に書かれています「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」ユダヤで活動されていたことが注目され命の危険があったからこそ、ガリラヤへ戻られたのです。
33~34節「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」イエスの証しを受け入れる人は、神が真実であることを確認したことになる、イエスを主だと信ずることこそが神を信じることとなるのです。そして信じた私たちは、聖霊が与えられ、聖霊の御力によって歩んでいくことができるようになるのです。
35~36節「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」」御子を信じること、つまりイエスの証しを受け入れる人は永遠の命を得る、しかし証しを受け入れず、御子に従わないものは命に与かることがなく、神の怒りがその上にとどまる。これはどのような意味なのでしょうか。ここでの永遠の命は私たちの死後の世界を意味するのではありません。神の国はイエスご本人のことであるように、イエスの証しを受け入れ、聖霊が与えられたことによって私たちはイエスを見ることができるようになり、イエスと似た者、つまり神に似た者となれるように導かれるようになるのです。神に似た形、イエスに似た形は、私たちそれぞれに違いがあります、神によって作られた個性を生かして、行動によってイエスの愛を人々に示し、真の平和を実現するために働くこと、すなわちイエスのようになることこそが私たちに与えられる永遠の命なのです。その根拠がヨハネによる福音書17章3節に書かれています「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」イエス・キリストを知り、イエスのようになることこそが永遠の命なのです。
それでは、36節後半「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」とはどういうことなのでしょうか、イエスに従わない人は神の怒りがその上にとどまる。神の怒りという言葉によって短絡的にイエスを信じなければ地獄に落ちると思ってしまいます。しかしそのような意味ではなく、受け入れないことはイエスを知らないことになり、そしてイエスと反対の生き方をするからこそ神の怒りがとどまるではないでしょうか。
今から18年前2006年の流行語大賞に「勝ち組・負け組」という言葉がノミネートされました。「勝ち組・負け組」という言葉は資本主義による格差社会が可視化されたころからはやり始めた言葉であり、正に格差社会を象徴する言葉なのです。社会においては人が「勝ち組」であることを求められていますし、親としては子どもが勝ち組になるよう教育することこそが正しい教育だとも思われていました。勝ち組とは学歴があり、よい収入を得て、健康で五体満足な配偶者と子供のいる余裕な生活ができる人のことです。負け組はその逆であり、学歴は低く、低収入な人や、独身であるだけでも負け組と呼ばれることがあります。今となっては「負け組・勝ち組」という言葉はほぼ死語と化していますが、この人生の“勝ち負け”の概念はいまだに根強く残っています。裕福で、幸せな家族を持っているキラキラした人がもてはやされ。そうでない負け組とみなされた人は、努力不足や怠け者とさげすまれることもあります。しかし、実はこの「勝ち組・負け組」の格差の外側にいる人たちもいます。私は、高校時代ある大人から言われたことがあります。それは私が友人からいい人と呼ばれたことに対して、嘲笑するように「いい人なんて呼ばれて喜んでるの。いい人なんて他の人いいように使われて、絶対に成功しない。」と言われました。その大人は裕福な経営者であり、事実世の中はその言葉通りであり、当時子供であった私に大人の世界の厳しさを教えているつもりだったのかもしれません。事実、世の中ではいい人ほど傷つけられ、周りに踏み潰されるのです。
しかし、イエスの証しを受け入れることによって得られる永遠の命とは決して成功のため、勝ち組になるためにあるわけではありません。残念ながらキリスト教会にも成功者になるため、という教えを伝えている教会も世の中にあります。神の御言葉に従い、勤勉に生きれば、仕事で成功をし、幸せな家庭を持てるという教えです。これは逆に言うと、裕福にならず、結婚をしていない人は、信仰の少ない罪人であるということです。これはイエスの教えから完全に離れているものです。もしイエスの証しと永遠の命がそのような繁栄を表しているものでしたら、イエスは決して殺されることはありませんでした。
イエスの生き方は逆なのです。負け組として蔑まれている人、社会から追いやられている人たち、差別や抑圧によって苦しんでいる人たち、存在されていないとされている人たち。今の時代でいえば、身体や知能、精神に障がいを持っている人、外国人であったり、日本生まれであっても外国の血を引いている人、LGBTQIA+すなわち同性愛者やトランスジェンダーなどの性的マイノリティの人たち、その他にも社会の成功者・勝ち組の基準に達せない人達を苦しみ、悲しみ、孤独から解放するために来られたのです。決して、私たちを成功者・勝ち組にするために来たのではありません。そしてイエスが私たちに求められているのは自分で何とかしなければならい、自己責任だという傲慢な思いを捨てて、イエスを受け入れることです。イエスを受け入れたからと人生はばら色になるとは限りませんし、イエスを受け入れたら裕福な成功者になるとは限りません。しかし、私たちには神が何とかしてくださるという根拠、希望が与えられ、共にイエスを救い主として信じる人のコミュニティである教会で共に喜び、悲しみ、励まし、共に成長ができる居場所が与えられます。ある人はこれを傷のなめ合いと嘲笑するかもしれません。しかし、神であるイエスは私たち人間を愛するがあまり、罵倒され、傷つけられ、十字架にかけられたのです。そして、神の愛が永遠であることを示す為に三日目に復活されたのです。その希望に寄り添って生きていけますように。
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