とはいえ見せる
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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Transcript
2024年6月16日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書4章46~53節
「…とはいえ見せる」山下ジョセフ
前回サマリアを通ってイエス・キリストがガリラヤへ戻られる途中の出来事をお話ししましたが、今回は無事ガリラヤへ戻られたイエスがカナの町で起こした奇跡に関して書かれています。ガリラヤ地方のカナとは、以前イエスが結婚式に参加し水をワインに変える奇跡を起こした町です。カナに来たイエスにある人が音連れてきました。ヨハネによる福音書4章46節「さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。」
カファルナウムとはガリラヤ湖の北の湖畔に位置する町であり、ガリラヤ地方の中心地です。カファルナウムではガリラヤ湖での漁が盛んにおこなわれており、また交通の要所でした。カファルナウムとカナは約33キロ離れていました。徒歩で行く場合丸一日かかる距離だそうです。
カファルナウムにヘロデの役人がいました。聖書には王と書いてありますが、実はこの箇所で言及されているヘロデ・アンティパスという人物はイエス誕生の時の有名人物ヘロデ大王の息子であり、厳密に言うと王ではなくガリラヤの領主でした。この王という言葉は王族と訳すことができ、ヘロデ家は王族なので王の役人と訳されたのではないかと思います。
イエスがカナに滞在中、この役人の息子が病気になってしまいました。47節「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」この役人の息子が病気であるだけではなく、死にかかっている、つまり危篤状態だったのです。その危篤な息子を癒すことのできる人物が今カナにいるという噂を聞きつけ、カファルナウムから33キロあるカナへはるばるやってきました。
その役人が来た理由を察したイエスはこのようなことをいました。48節「イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。」ここでイエスは役人に対してあなた方と言われていますが、これは新約聖書の時代では役人が一人で移動することはありえないことであって、実際には僕たちを連れてきていたからなので特に深い意味はないと思われています。しかし、ここでのイエスの言葉は辛辣なものでした「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」聖書を読んでいる私たちからしたら正論だという意見を持ってしまうかもしれないですが、そもそも役人たちはイエスのことが何者かは知らなかった可能性が高いのです。それこそ、病人を癒す奇跡を起こせるすごい人ぐらいの認識だったのではないでしょうか。世に遣わされた神そのもの、救い主メシアであるなどということも認識していなかったのです。
だからこそイエスの突き放すような言葉に対して役人の言葉なのかと思います。49節「役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。」。役人は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というイエスの言葉を全く聞いていないような返答をしているのです。イエスを救い主として信じるか否かは役人たちの興味に入っていなく、その発想すらありませんでした。だからこそ、イエスの言葉を無視して「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と答えたのでしょう、役人にとっては息子が癒されることが第一であり、信じる・信じないということはどうでもよいことだったのです。
だからこそイエスは信仰の話を辞めて答えたのではないでしょうか。50節「イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」話を聞かない役人に対して「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言ったのです。役人はイエスの言われた言葉を信じ、本当に息子が癒されたのか確認するために帰ります。51~53節「ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。」。イエスの言葉通り、危篤状態であった役人の息子は癒されたのです。それどころかイエスが「あなたの息子は生きる」と言われた時に癒されたのです。イエスによる不思議な業を通して役人たちとその家族は信じたのです。
イエスは48節で言いました「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。しかし、イエスは突き放す言葉を役人たちに行ったのに関わらず、危篤状態の役人の息子を癒しました。なぜでしょうか。役人の信仰に感動したのでしょうか。イエスの言葉遣いにそのような形跡はありません。イエスが人の信仰に感動した場合は、必ずと言っていいほど、そのことをお話しします。なので、役人に信仰があったのではありません。むしろ、役人はイエスのことを腕のいい医者としか見ていなかったのではないかと思います。それは、49節で役人が言った言葉からわかります。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」。これはまるで医者に対して「早く来てください」とせかしているような言葉です。その言葉に対してイエスが言ったのが50節の「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」です。うがった見方をすると、イエスがめんどくさがって癒したのではないかと邪推してしまいます。
しかし、このイエスの言葉に対しての役人の行動こそが答えなのではないかと思います。50節の後半「その人(役人)は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」。この役人はイエスに「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われて、素直に帰ったのです。普通でしたら、「いやいや、あなたの助けを求めるためにはるばるカナまで来たのです。そこで帰りなさいと言われて『はいそうですか』と言えるわけありません。」と反論してもいいものだと思います。しかし、この役人は文句ひとつ言うことなく、信じて帰ったのです。
役人はイエスに出会った後、大したかかわりもなくすぐに帰りました。この人は愛する息子を癒すことができる方がいるという噂を聞いて、カファルナウムから約33キロあるカナへやってきて、イエスと二言だけ話して帰ったのです。イエスは48節で言いました「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」このイエスの突き放すような厳しい言葉を覚えて50節をもう一度読みます。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。この役人はイエスの言葉だけを信じて帰ったのです。この役人は片道丸一日かかる場所に住んでいました。イエスを信じたとはいえ帰りの道中は不安でいっぱいだったのではないかと推測できると思います。なぜなら、役人はイエスの言葉だけを聞いたのであり、息子が癒されているかどうかはまだ分かっていません。いろいろと悩み考えていたのかもしれません。それこそこの役人は、息子の治療のためにいろんなところを走り回っていたことも想像できます。そして息子が危篤状態になったとき、遠くのカナで人を癒す力のある人がいるとのうわさを聞いてはるばる言ったら、大丈夫だから帰りなさいと言われたのです。帰りの道中で不安でいっぱいだったことはすぐに想像できます。
皆さんにも似たような経験はないでしょうか。すごく近しい人が重い病に伏せたりしたとき、ひたすら神に祈っているのに何も答えが出ず、ただ不安ばかりが積もること経験したことないでしょうか。果たして神様はこの祈りを聞いてくださっているのだろうかと不安になったこともあるのではないでしょうか。挙句の果てには神は本当にいるのだろうかと迷ってしまうこともあります。そのことをきっかけに神・イエスを信じることができなくなることもあります。イエスが常に共にいることも忘れてしまうこともあります。そして、この役人のように、イエスが48節で言った「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という正論が耳に入らないときもあります。
イエスは正しいだけではなく、正しいことをする余裕のない人と寄り添う方なのです。私たちに正論が通じないときにも見捨てることなくともに居てくださる方なのです。最も弱っているときに癒しを与える方なのです。それこそ、この役人のように正論を聞く余裕がない時でも働くのです。イエスは言いました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。しかし信じない役人たちを見捨てることなく息子の癒しというしるしと不思議な業をなさったのです。イエスは私たちに何ができるのか求めているのではなく、初めから私たちのことを理解しており愛しているのです。私たちが希望に満たされているときも、絶望に悶えているときも、言葉が耳に入る余裕がない時も、正しい行いをできないときにも共におられる方なのです。私たち一人一人がそのことを忘れずに日々歩むことができますように。
