権威に逆らうイエス
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2024年6月16日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書5章8~18節
「権威に逆らうイエス」山下ジョセフ
6月は人権に関する記念日がとても多い月です。一部を紹介しますが、18日は「ヘイトスピーチと闘う国際デー」、19日は「紛争下の性的暴力根絶のための国際デー」、20日は「世界難民の日」、また6月そのものがLBTQIA+のプライド月間ですが28日にはそのきっかけとなったストーンウォール事件が起こった日です。本日6月23日は、日本に暮らす私たちにとっては決して忘れてはならない「沖縄慰霊の日」です。太平洋戦争末期の1945年3月26日、アメリカ軍は沖縄本島西にある慶良間(けらま)諸島に上陸、4月1日には沖縄本島に上陸し、日本軍との激しい戦闘が始まりました。沖縄は日本で唯一地上戦が繰り広げられた場所です。戦闘はすさまじく、日米合わせて合計20万人以上が亡くなり、そのうち約10万人が老人や子どもを含む一般市民、沖縄出身の軍人を合わせると合計約12万人となります。これは当時の沖縄人口の4分の1です。亡くなった人の中には戦闘によって亡くなっただけではなく、餓死や病死、また自決つまり自殺で亡くなった人もおり、自決者の多くは自決を強制されたのです。そして、6月23日、3か月続く凄惨な戦闘の末、日本軍沖縄司令官・牛島満やその部下たちの自決により日本軍の組織的戦闘が終わりました。この日を実質的な沖縄戦の終結日ととらえて、6月23日は二度と悲惨な戦争を繰り返さないという願いを込めて制定されました。
今日のことを踏まえて聖書から学びたいと思います。本日の聖書箇所は祭りのためにエルサレムに来ていたイエスが行った癒しの奇跡が発端として起こった議論です。その奇跡の内容はヨハネによる福音書5章5~9節に書かれています「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。」イエスは、38年という途方もなく長い期間、病で苦しんでいた人を癒しました。この事だけを見るとイエスは素晴らしいことをしたと思うのですが、この癒しの奇跡を行った日を理由にイエスは騒動起こすことになったのです。10節「そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」。ヨハネによる福音書を読む際の注意点ですが、「ユダヤ人」という言葉が何を指すのかということです。新約聖書において「ユダヤ人」とは基本的にユダヤ民族の人々を指していますが、ヨハネにおいては、ユダヤ民族以外の意味が含まれている場合があります。10節の「ユダヤ人」はマタイ、マルコ、ルカによる福音書においては「パリサイ人」や「律法学者」と同じ意味でつかわれており、今回の箇所において「ユダヤ人」は宗教指導者階級の人々を指していると理解してください。
宗教指導者はイエスに癒されて床担いでいる人に対して律法違反だと言いました。律法とは旧約聖書に書かれているユダヤ教の戒律です。中でもとくに有名なのは十戒ではないでしょうか。十戒は聖書の出エジプト記20章と申命記5章に書かれています。十戒にはは「偽証してはならない」「殺してはならない」「盗んではならない」等、信仰関係なく重要とされているものもありますが、10節で言及されている安息日に関しても書かれています。今回は申命記5章14節からお読みします。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」7日目が安息日と書かれていますが、これは現在のカレンダーでは土曜日を指します。ユダヤ教の規定によると安息日にはいかなる労働をしてはならないこととなっていますが、この癒された人が床を担いで歩いている姿が労働に当たるということで宗教指導者たちに止められ、咎められました。しかし申命記5章14節の後半に「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」と書かれているように、安息日は権力者の所有物として扱われ、搾取されている奴隷たちを休ませることがそもそもの目的であることが分かります。
ヨハネによる福音書5章11~12節「しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。」私自身この宗教指導者たちの言葉に対して引っかかるところがあります。果たして宗教指導者たちはこの癒された人が何者であるか知らないのではないかということです。しかし、宗教指導者たちがこの人のことを知らないのはありえないことだったのです。5章2~3節「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」ベトザタと呼ばれる池はエルサレム神殿のすぐ北にあり、北から神殿に入る場合は必ず通らなければならない羊の門のすぐそばにあったのです。すなわち、宗教指導者たちは病に伏せていた人たちに全く関心を持っていなかったことがあらわになっています。
14~16節「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。」宗教指導者たちは、病に伏せていた人を癒したのがイエスだといるとともにイエスを迫害し始めました。なぜなら宗教指導者たちから見たイエスは十戒を破る不届き者だったからです。イエスの時代の正論からすると宗教指導者たちが正しく、イエスは間違っていることをしており、周りからもそう見えていたでしょう。
17節「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」当時のユダヤ教徒の聖書理解では、安息日であっても世界の秩序を守るために神は働いていたと信じられていました。神の子であり神そのものであるイエスは、十戒に書かれている安息日の規定を破ってまで病に苦しんでいる人を癒しました。逆に宗教指導者たちは病に苦しんでいる人が癒されたことに全く興味はなく、安息日の規定を破ったことに憤りを覚え、律法を守らない人を迫害していたのです。先ほどもお話ししましたが、安息日規定は権力者のためにあるのではなく、権力者によって働かされていた人や家畜を休ませるために合ったのです。古代の時代、奴隷は休みなく働かされることが当たり前だったので、時代を考えるとだいぶ先進的な律法だと理解できます。しかし、宗教指導者たちは、安息日の律法に関して恣意的な解釈をし、人を解放するのではなくしばりつけて支配するために運用していたのです。イエスは、神の権限をもって恣意的に解釈されていた安息日規定に異を唱えたのです。その結果が18節に書かれています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」イエスの言葉によって宗教指導者たちは怒りを覚えることが多く、イエスを殺そうと画策し、最終的にはイエスを十字架にかけて殺しました。なぜなら、イエスは権力者たちの権威を傷つけたからです。宗教指導者たちは周りを支配するために、御言葉を恣意的に利用し、弱く苦しんでいるものを引き揚げたり、支援したりすることなく、自分たちの作り上げた正論によって踏みにじり、追いやっていたのです。しかし、イエスが神の権威をもって、作り上げられた正論を否定し、人を愛し、踏みにじられたり、追いやられていたりした人たちを救っていたのです。宗教指導者たちからみたらイエスは、自分たちの作り上げた、弱いものを踏みつけることによってできていた秩序を乱していたのです。イエスは堂々と権威に逆らっていたのです
先ほどお話ししましたが、本日は太平洋戦争の被害者をしのび、平和を実現することを誓う「沖縄慰霊の日」です。しかし、悲しいことに沖縄の戦争は未だに終わっていないとも言われています。なぜなら現在の沖縄はアメリカ合衆国にとっても日本国にとっても軍事植民地と化しているからです。在日米軍基地は日本全国にありますが、その7割は沖縄に押し付けられています。それだけではなく、沖縄では自衛隊基地も増えています。これは何を意味するか。それは、太平洋戦争で日本を守るために沖縄を盾にして住民を犠牲にしたという事実があるように、将来万が一“有事”なんかが起こった際にはまた同じく沖縄を盾にして住民を犠牲にする気であることは明白です。お国のためには必要な犠牲だったなどという奇妙な美談にしかねません。実際に、私自身も沖縄旅行中に丸一日辺野古へ行って基地反対活動の座り込みに参加させていただいたのですが、周りには「沖縄を二度と戦場にしない」という強い意志をもって声を上げている人ばかりいました。しかし、世の中にはこの活動を嘲笑や冷やかす人もいれば、国の方針に逆らうなんて、国の秩序を乱していると非難をする人もいます。
私たちが忘れてはならないことは、イエス・キリストは人を愛するがあまり、人の権威に逆らい、人の作り上げた秩序を乱す方だということです。長いものに巻かれろということわざがありますが、果たして支配に従ったり、支配によって苦しめられたり、追いやられたりする人たちに対してみて見ぬふりをすることがイエスに似た者としての行動なのでしょうか。キリスト教は愛の宗教です。もし、愛を軽んじてしまったら、教会に集まることも神に礼拝したり祈ったりすることも無意味です。イエスのように人を愛するがあまり、権威に逆らう人となれますように。