建て直す
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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2024年7月7日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書2章13~22節
「建て直す」山下ジョセフ
今日は杉並中通教会の献堂記念礼拝です。献堂記念礼拝では、教会の豊かな歴史に思いをはせて、神から教会への多くの恵みを思い出し、私たちの未来へ向けての糧となるときにとしたいと思います。
杉並中通教会とは2つのルーツを持つ教会です。その2つのルーツとは、荻窪中通教会と杉並バプテスト教会です。荻窪中通教会は1936年1月、教会創設者の石井晴美牧師が上荻2丁目で開拓伝道を始め、1941年7月に中通町7番地4号、現在の桃井1丁目9番地6号の土地を購入し、教会堂を建てました。
続けて、杉並バプテスト教会は1890年3月31日、四谷区荒木町、現在の新宿区荒木町にて東京第二浸礼教会として設立し、後に四谷教会と改称しました。しかし、1945年5月25日、空襲によって焼失したため、阿佐ヶ谷3丁目にあった牧師館へ教会が移転しました。後に高円寺南3丁目へ移動した後、杉並区に所在しているのに四谷教会という名前に不都合があるため杉並バプテスト教会として再スタートをしました。その後1987年12月16日大島邦雄牧師が召天し無牧となった後12月20日臨時総会にて杉並バプテスト教会と合併を決議し、1988年7月31日荻窪中通教会と杉並バプテスト教会と合併合意書調印式を経て、杉並バプテスト教会の大沼武牧師を初代牧師として杉並中通教会が設立しました。その後、荻窪中通教会所在地である桃井1丁目9番地6号に杉並バプテスト教会の土地を売却したお金で現在の街道を建て、1990年7月8日に献堂式を執り行いました。多くの教会では創立記念礼拝を執り行うことが多いですが杉並中通教会は二つの教会が合併し、荻窪中通教会の土地で杉並バプテスト教会の財産によって建てられた会堂、つまり二つ教会の合併を象徴するものとして献堂記念礼拝を行っています。
教会の歩み、教会の働きを思いつつ本日の聖書箇所から学びたいと思います。
本日の聖書箇所であるヨハネによる2章13~22節は通称「宮清め」と呼ばれ、イエスが暴力をふるった唯一の場面です。ヨハネによる福音書2章13~15節「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」」イエスは縄を振り回し暴力によって商品である動物たちを追い出し、台を倒し、大暴れしたのです。その迫力は商人たちをびっくりさせたのでしょう、実際に逃げていったようです。
それでは、イエスはなぜ、暴力に訴えたのでしょうか。
新約聖書の時代の神殿には内側から選ばれた人しか入ることが許されていませんでした。一番奥には至聖所があり、ここは選ばれたただ一人の祭司が入ることが許されていました。続けて聖所ですが、こちらは祭司たちだけが入ることが許されています。その一つ外はユダヤ人の男性のみ、更に一段下がった場所にはユダヤ人の女性も入ることが許されている場所があり、ここまでが神殿の中です。神殿の外の敷地は「異邦人の庭」と呼ばれており、その名の通り、誰であってもそこで礼拝を献げることが出来ます。さて、イエスが商売人や動物を追い出した境内はどこだったのでしょうか。そのヒントはマルコによる福音書の11章15~16節に書かれています。このマルコの箇所は本日の箇所と同じ出来事について書かれている箇所です。「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。」先ほど説明しましたが「異邦人の庭」以外は神殿の中にあるため、通り抜けることはできない場所です。しかし、境内を通り抜けることはできます。すなわち、商売人たちは異邦人の庭を使っていたことが分かります。
そもそも、なぜ神殿の境内で動物を打っていたのでしょうか。13節に書かれている過越祭とは、大昔、エジプトの奴隷だったイスラエル民族が神の導きによって解放されたことを祝う祭りです。すなわちユダヤ教にとっては一番大事な祭りです。それを祝うため、多くのユダヤ人たちはエルサレムへ集まってきたのです。過越祭で行われることの一つは動物を神へのいけにえとして献げることです。しかし、牧畜を生業としている人でなければ、動物を購入する必要があったのです。そのため商売人たちが集まっていたということなのです。15~16節をもう一度お読みします。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」」商売人たちを追い出した後、イエスは「父の家」すなわち神殿を商売の家をしてはならないと言われました。ヨハネだけを読むと教会でお金儲けをしてはならないと誤解を生んでしまいますが、そういう意味ではありません。むしろ、ヨハネではイエスの発言がだいぶ柔らかく書かれているだけなのです。イエスが言った言葉はマタイ(21:13)、マルコ(11:17)、ルカ(19:46)による福音書にも書かれていますが、この三つの福音書ではより辛辣な言葉が書かれています。マルコによる福音書11章17節をお読みします「そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」」「強盗の巣」これはヨハネには書いてなく、マタイ、マルコ、ルカに書かれている言葉です。つまり、イエスは商売人たちを強盗呼ばわりしたのです。なぜでしょうか。それは、この商売人たちが商売していた場所が「異邦人の庭」だったからです。異邦人が礼拝すること許された唯一の場を奪い取り、そこで自分自身の私利私欲のために商売をしている、なぜなら異邦人を差別し、神殿には存在しないものと扱っていたからです。異邦人の礼拝の場所を奪った強盗行為を許せなかったイエスは激怒し、暴力よって追い出したのです。なぜなら、『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』というように、神の家は全ての人に開けている場所だということを示すためだったのです。
その一部始終を見ていた弟子たちはこう思いました。ヨハネによる福音書2章17節「弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。」。この言葉は詩編69編10節の引用です。10節から13節までお読みします。「あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ/粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。」。この詩は、神の神殿への思いの強さゆえに人々にあざけられ、ネタにされるということが書かれています。弟子はイエス自身の持つ神殿への熱情に驚いてこの詩を思い出したのかもしれません。しかし、イエスはこの行為によってあざけりを受けるどころか、この行動によって社会的弱者から尊敬されるようになったので、宗教権力者たちから目を付けられたのです。マルコによる福音書11章18節「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。」
イエスの弟子たちが詩編を思い出したころ、宗教指導者たちはイエスに迫りこのようなことを言いました。ヨハネによる福音書2章18~20節「ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。」、イエスはこの神殿が壊された後3日で建て直すと言いましたが、これはそのままの意味ではありません。実際に神殿は紀元70年にローマ軍によって破壊されたのですが、いまだに建て直されていません。むしろイエスのこの言葉の真意は21~22節に書かれています。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」イエスは、自分の体のことを神殿とみなしていたのです。ここでの神殿の破壊とはイエスを十字架にかけて殺すことであり、3日で建て直すことは復活を意味していたのです。
イエスが殺された時、神殿の最も奥にある至聖所を覆う幕が真っ二つに裂けました。これはイエスの十字架によって人と神の間にある隔てがなくなったことを意味しています。また、神殿には祭司だけの入場が許された場所、ユダヤ人の男性のみの入場が許された場所、ユダヤ人の女性も入場することが許された場所、そして異邦人は神殿の外だけが許されていました。神殿では人の社会的地位によって人がいることのできる場所が決められていたのです。しかし、イエスによってその人と人のヒエラルキーによって定められていた差別による隔ても破壊されたのです。なぜなら神が人間マリアの子イエス・キリストとして私たち人間の前に現れ、どのような立場の人であっても分け隔てなく交流を持ち、分け隔てなく愛したからです。そしてイエスの示した人に対しての分け隔てなさは私たちにも必要なのです。
私たちの心の中にある人と人を隔てる壁を破壊し、人を分け隔てなく愛し関係を持つことが出来る、そのような教会となれますように共に成長する教会となれますように主イエスに従い、祈りつつ歩んでいきたい思います。
