挫折したイエス
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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2024年7月28日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書6章60~66節
「挫折したイエス」山下ジョセフ
前回7月21日のメッセージではヨハネによる福音書6章1~15節、通称「五千人の給食」の物語からお話ししました。イエスの後をついてきた空腹に苦しむ5千人の貧しい人々をどのように満たすか困っていた弟子たちはイエスに5つのパンと2匹の魚を持っている少年を見つけイエスのもとへ連れてきました。イエスはその5つのパンと2匹の魚を手に取り感謝の祈りを唱えてから5千人の人々にパンと魚を分け与えました。イエスの分かち合いの奇跡から人と人の間の分かち合いと和解について学びました。
本日の箇所はその次の日に起こった出来事です。イエスが五千人の給食の奇跡を起こした後、喜びのあまり興奮した人々はイエスを自分たちの王にしようと連れて行こうとしましたが、イエスはそれを嫌がり山へ逃げていきました。その夕、イエスの弟子たちは舟に乗りガリラヤ湖の向こう岸へ向かいましたが、その途中イエスが湖の上を歩いて舟に乗り込みました。イエスが船に乗り込んだ後、船は目的地へ着きました。この出来事はヨハネによる福音書では6章16~21節に書かれていますが、ヨハネではだいぶあっさりと書かれているため、今回はあえてこの箇所にフォーカスせずに進めていきたいと思います。
その翌日、イエスによっておなかの満たされた群衆がイエスの居場所を突き止めて追ってきました。ヨハネによる福音書6章24~26節「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」追ってきた群衆に対してイエスの言った言葉は厳しいものでした。イエス曰く、この群衆たちはイエスのしるしつまり奇跡を見たからついてきたのではなく、イエスが分かち合ったパンと魚を食べたからついてきたのです。そのため、イエスは続けて言います。27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」」イエスは「朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。永遠の命に至る食べ物のために働くとは何でしょうか。28~29節「そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」」。イエスを信じる事、そしてイエスの生き方に共感し、イエスと似た者を目指して生きる事、それこそが神の業であり永遠の命に至る食べ物・パンなのです。w他紙たち人間には5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹にすることはできませんが、互いに愛し合い、支え合い、互いに助けが必要な時には互いに助け、食事を共にし、交わり深い関係性を持つことです。
34~40節「そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」」イエスは自分のことを「命のパン」と呼ばれました。イエスを意味する言葉はたくさんあります。「神の言葉」「神の国」「真理」などありますが、今回は「命のパン」です。イエス曰く命のパンを食べた人は決して飢えることなく、乾くことはない、これはそのままの意味ではなく、むしろイエスの生き様と照らし合わせると、イエスを信じる者に当たられた使命の一つは人と人が助け合うことを示しています。飢えていたり渇いていた隣人がいたら満たしてあげ、苦しんでいる人がいたら助け、抑圧者によって苦しんでいる人がいたらやめるように声を上げるのです。そしてイエスと同じ生き方を目指している人、すなわち命のパンを食べる人は永遠の命、すなわち今ここでイエスの希望・平安に満たされて生きることができるのです。つらい時でも苦しい時でもその先、永遠にある希望に満たされるのです。イエスは、5千人の貧しい人々と分かち合ったパンと魚を通して、満たされた人たちがイエスを追うほどの強烈な希望を与えたように、イエスを信じる事、すなわち命のパンを食べる事によって強烈な希望が与えられるのです。
ここまでが本日の聖書箇所まで至る物語です。
この議論が終わった後、思いもよらないことが起こりました。ヨハネによる福音書6章60節「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」」ここまでイエスについてきていた弟子たち多くがイエスの話に納得せずに文句を言いだしたのです。イエスから離れた弟子たちは他の期待をしていたのです。弟子たちの一部は、イエス・キリストが暴力手段を使ってローマ帝国の圧政から救ってくださる方だと信じていたのです。しかし、実際のイエスは違いました、イエスは、貧困で苦しんでいる人、圧政によって生活がままならない人、社会から追いやられていた人を救うため、そして、イエスを信じた人が同じように働き、抑圧・搾取を許さず、互いに愛し合い、助け合うことによって全ての人を自由にし、全ての人に永遠の命があるように働き、イエスを信じた人にもイエスと同じ生き方をするように教えていたのです。いわゆる英雄を求めていた弟子たちはイエスに心底がっかりしたのです。ヨハネによる福音書6章61~64節「イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。」イエスは集まってきた人すべてがイエスの言葉を理解し、生きざまに共感し、信じる人ばかりではないことを知っていました。それこそこの箇所に書かれている「肉」と呼ばれている人の欲望のままにイエスを信じていたのです。しかし、イエスは人の勝手な欲望を満たす存在ではなかったのです。そして言われました。65節「そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」ここの父とは神そのもののことです。そしてイエスも神そのものです。その神の許し、すなわち真理であるイエスのことを、神の国の到来であるイエスのことを、命のパンであるイエスのことを理解し共感し信じることが出来なかったのです。66節「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」
自分の良心と聖書の御言葉に従い、真理・神の国の到来・命のパンであるイエスに似た者を目指す生き方をしていたら、その歩みの途中で残念ながら必ずと言ってもいいほど反発は起こります。反発する人は、人と分かち合いを拒否する人、人を抑圧する人、人を支配したがる人、自分の支配を維持するために人を踏みにじる人、特定の人種やジェンダーや性的指向の人を差別し追いやることを正しいことだと思っている人、そして、そのように社会から追いやられている人への支援を行い、それに効果が出始めると理不尽な非難をする人や実際に妨害を行う人も現れます。例えば新宿の歌舞伎町で女性、特に帰る場所のない未成年の女性を支援する団体があります。なぜ、そのような支援団体が必要かと言いますと、行き場のない若い女性に対して声をかける人は、その女性を買おうとする男性や性産業のあっせん者であり、暴力や性的搾取の被害者になる可能性が非常に高くなります。それらのような、似た経験を若いころにした方が立ち上げた団体です。その団体が有名になるごとに、その団体のデマを流したり、誹謗中傷したり、実際に活動場所へ行って活動の妨害をする人たちが現れてきました。妨害の動機も様々でした。若い女性を搾取する側の人、円状に加わって楽しむ愉快配、そもそも女性が自分の意思をもって自分の意見を言うことを面白く思わない単純な女性差別者だったなど、様々です。それだけではなく、例えば生活保護者への社会の風当たり、外国から命からがら日本へやってきた難民を保護するどころか日本での生きる手段を奪い追い出そうとする政府、LGBTQIA+の人々に対してヘイトスピーチを堂々とする牧師や教会。残念ながら、世の中には助けの必要な人を抑圧し、その人たちに手を差し伸べる人に攻撃的になる人がいます。
イエスご自身も社会によって苦しんでいる、明日食べるものもない人、罪を犯した女性という理由で殺されそうになった人、病や障がいを理由に社会から切り離された人、そういう人たちに手を差し伸べ、癒し、守ったことによって利権者に嫌われ、最終的に殺されます。そして、今回の議論の後にもイエス自身の言葉と生き様に不満を持つ弟子たちの多くがイエスから離れていきました。すなわちイエスご自身も大きな挫折を経験しました。しかし、それでも希望はありました、ヨハネによる福音書6章68~69節「そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」」イエスのもとには12弟子たちを含むごくわずかな人々が残っていましたのです。ペトロは厳密にイエスの話していたことを完全には理解していなかったのですが、残ったのです。同じように私たちも挫折したときには一度冷静になって周りを見る必要があります、意外な人物が残っているかもしれないからです。70~71節「すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」後にイエスを信じることが出来なくなった結果イエスを裏切り、イエス逮捕に加担したイスカリオテのユダまでイエスのもとに残ったのです。そして、12人を含む数少ない弟子たち、それこそ多くは社会からはみ出た人たちであったと思います。そのような人たちを連れてイエスの歩みは続くのです。残念ながら、どのような人であっても挫折するときがあります。それでも、周りを見たら誰かがいるときがあります。私たちが神の真理であるイエスを求め、天の国の到来であるイエスを信じ、命のパンであるイエスを求めた結果、挫折し、人の心ない言葉によって深く傷ついたたときでも、その傷が癒え、周りの人に支えられ、イエス・キリストの希望をもって歩みだすことが出来ますように。挫折の傷が癒えないときでもイエス・キリストがそばにいて支えてくださいますように。どんな苦しい時でも、永遠の希望を失わずに生きていけますように。イエスが希望を持てない人と共におられますように。
