不都合な福音
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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2024年8月4日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書7章1~10節
「不都合な福音」山下ジョセフ
ヨハネによる福音書7章~8章までは仮庵祭の時期のエルサレムで起こった出来事について書かれています。仮庵祭はユダヤ教の祭りの一つであり、現在の9月の後半から10月の前半ごろに祝われていた収穫の祭りでした。このお祭りは土曜日から次の土曜日までの8日間続き、祭りの間は「仮庵」すなわちテントのような仮住まいで暮らす必要があり、神殿では最終日まで毎日牛などのいけにえがささげられるものでした。この祭りはそのとして収穫を祝うとともに、仮庵に泊まることによってエジプトが脱出した古代イスラエル民族が40年間定住することなく荒野で放浪したことを覚える祭りでした。
仮庵祭は、当時エジプトの奴隷であったイスラエル民族が解放されたことを祝う過ぎ越しの祭とシナイ山にて神が降臨し律法を授けたことを祝う五旬節とともにユダヤ教三大順礼祭と呼ばれ、当時のユダヤ人はこの時期にはエルサレム神殿へ順礼しなければならなかったのです。イエスもユダヤ人だったのでもちろんエルサレムへ行かなければなりませんでした。しかし、イエスは順礼に行くことに躊躇していたのです。ヨハネによる福音書7章1~2節「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。」イエスの命が狙われることになるきっかけとなった出来事は5章に書かれています。要約しますと、おそらく3~4月ごろの過ぎ越しの祭りの巡礼のために来ていたイエスは働いてはいけない安息日に寝たきりの人を癒したのです。そのことを知り、さらに自分自身こそが神の子だと名乗ったイエスにユダヤ教指導者は怒りを覚えたのです。5章18節「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」その後も5章の最後まで、おそらくお祭りが終わるまでイエスはエルサレムにいたのですが、その時に身の危険を感じる出来事も経験したのでしょう、祭りが終わった後はガリラヤへ戻り、そこで人を癒したり、おなかを空かせた人を満たしたり、人々に語っていたのです。そして、7章1節に「ユダヤを巡ろうと思われなかった」と書かれているように、あえてエルサレムのあるユダヤ地方を避けていたのです。
その時イエスの兄弟たち、ちなみにイエスはマリアの初めの子だったので弟たちがイエスに語り掛けました。3~4節「イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」」ユダヤ人の中心地はエルサレムであって、ガリラヤは地方という扱いを受けていました。イエスの家族は、イエスの行っている業・奇跡のことを知っていました。そのイエスの働きを見て、「ガリラヤでこの奇跡を行うのはもったいない。中心地エルサレムへ行ってこの奇跡行えばいいのに。」とでも思っていたのでしょう。そして、ちょうど祭りの時期でエルサレムへ行くので、奇跡を盛大に行えばとでも思っていたのかもしれません。しかし、5節にはこう書かれています。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」弟や妹たちから見たら上のきょうだいのイエスが神の子であることがにわかには信じづらかった意味もあるかもしれませんが、それ以上にこの言葉は前の祭りの時期にイエスご自身が殺されそうになっていたことを信じることが出来なかったことが書かれています。それこそ、そこまで大ごとになっていないと思っていたかもしれません。イエスの弟や妹はイエスの奇跡を知っていたのですが、イエスの言葉は信じることが出来なかったのです。
6節「そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」イエスはご自身のときがまだ来ていない、と言っていました。ユダヤ教の考えには何事にも時があるという考えがあります。人生には楽な時もあれば大変な時もある、そのような考えがあります。キリスト教も似たような考えがあり、どのような時であっても神は共におられる考え・信仰の形があります。イエスご自身は自分自身こそが神の子どころか神そのものであると全ての人に表す時ではないと確信していたのです。
イエスが表す時ではない、その理由が7節「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」。世の行っている業は悪いとイエスは言ったと書かれていますが、その言葉はイエスがエルサレムを避けるきっかけとなった5章で語っています。ヨハネによる5章41~42節「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。」これは前の祭りのときにユダヤ教指導者へイエスが語った言葉ですが。神への愛がないと語っていました。神への愛は他の人への愛と同じ意味を持っています。神を愛していると口で言いながら、自分より弱い存在を抑圧したり、搾取したりしているのであれば、それは神を愛していないということです。宗教指導者は自分自身が一般人より真実の神を知っているとおごり高ぶっている人も少なくないでしょう。しかし、イエスはその人たちは神を愛していない、つまり神を理解していないと指摘したのです。これらの指摘を面白く思っていない指導者たちがイエスを憎んだのです。そしてイエスを殺そうと画策し始めました。
イエスの十字架による死と復活からわかることは、イエスにとって殺されることは通過点だったのです。イエスは十字架によって殺された三日後、神のみすがたとして復活したのです。イエスご自身は時が来たら殺されて復活することを知っていたのですが、今はまだその時ではないと知っていたのです。だからこそ、イエスはエルサレムの祭りへ行って奇跡などを起こして目立つことを断ったのです。そして言いました8~9節「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」この後すぐ、イエスは自分の言葉と矛盾したことをします。10節「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。」。イエスは言葉通り動いたのではなく、こっそりとエルサレムへ行きました。矛盾した行動をしています。このイエスの行動は不可解ととられ、様々な議論を呼びました。しかし、イエスの真意が聖書に書かれていないため、不明です。しかし、イエスとしては思うことがあったのでしょう。周りに気づかれないようにエルサレムへ行きました。
世の中にはカミングアウトという言葉があります。カミングアウトとは英語の言葉であり、正式には「カミングアウト・オブ・ザ・クローゼット」という言葉であり、直訳すると「押し入れから出てくる」という言葉です。これは同性愛者などのLGBTQIA+の人々を指して使われることが多い言葉であり、人にばれてしまったら社会や周り人々から差別されてしまう、最悪命の危険にあってしまうことを理由に自分のアイデンティティを隠すことです。クローゼットという言葉は、自分自身を無理やり狭い押し入れに押し込むことで自由がなく抑圧された窮屈な状態も意味します。人がカミングアウトしない理由は様々ありますが、大きな理由の一つは自分自身を身の危険から守ることです。そして、人によっては安心できる場所だけで自分のアイデンティティをカミングアウトすることが出来るけど、公の場所では安全ではないと監事カミングアウトできないという現実もあります。
今回の箇所から、殺されて復活する前のイエスご自身も押し入れ・クローゼットに入っている人なのではないかと知ることが出来ます。イエスは神の子であり神そのものです。そして、ガリラヤでは堂々と奇跡を行っていました。しかし、身の危険を感じるため、エルサレムで同じように行うことには抵抗を持っていたことが分かります。「まだ、その時ではない」と。カミングアウトも似たようなものであって、本人が「今こそがその時」と自信をもてるときでなければ、自分自身の隠しているアイデンティティのカミングアウトはできないのです。イエスにとっても、まだその時ではなかったのです。カミングアウトの無理強いは人を追い詰める行為であり、最悪命を奪いかねない行為です。
今回の箇所だけでもイエスは複雑な人であったことが分かります。それこそ、まだ時ではないということで初めはエルサレムへ行くことの拒否をしたのですが、そのあとこっそりとエルサレムへ行ったのです。言葉と行動に矛盾があるのです。イエスも矛盾のある不都合な人だったのです。私たちキリスト教徒はそのような矛盾にあふれた神を、私たちの永遠の希望として信仰しているのです。矛盾がある方だからこそ、私たち罪深い人間を愛し、命を投げ出して救ったとも言えます。そのような不都合な良い知らせ、不都合な福音に希望をもって歩んでいければと祈り願います。
