理解されないイエス
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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Transcript
2024年9月8日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書8章21~30節
「理解されないイエス」山下ジョセフ
杉並中通教会の今年度の主題聖句はヨハネによる福音書8章32節「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」です。本日の聖書箇所はこのイエスの言葉まで続く議論について書いてあります。しかし、書いてあることがとても難解であり、読んだだけでは何のことを言っているのか分かりづらい箇所でもあります。本日はそれは少しづつ進めていきたいと思います。
ヨハネによる福音書8章21節「そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」」この箇所ではイエスは後に捕らわれ十字架にかけられて殺されることを語っています。しかし、その場にいた宗教指導者たちはイエスの言葉を理解することが出来なかったのです。22節「ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、」イエスがご自分に起こることを語っていましたが、宗教指導者たちにはイエスがまるで自殺をするのではないかと勘違いをしたのです。これは宗教指導者たちがイエスを捕らえて殺そうとしている事実から思うと、皮肉のように思います。むしろ、宗教指導者の中にはイエスが本当に自殺をするのならばそれこそ都合の良いことだと思った人もいたかもしれません。なぜなら、イエスは宗教指導者たちにとっては目の上のたんこぶみたいな存在であり、イエスの影響力が宗教指導者たちの権力を揺らいでいたのです。
その後宗教指導者たちの発言を聞いていたか聞いていなかったかは分からないですが、イエスは続けて言います23~24節「イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」」イエスは上のものに属していて、この世に属していない、と言われます。これはつまりイエスご自身こそが神であるという意味です。そして「わたしはある」ギリシャ語でエゴエイミーという言葉ですが、これは旧約聖書で神が自らを呼ぶ名前であり、つまり神であるイエスが神であることを信じることしなければ、自分の罪のうちに死ぬことになるとイエスは言っているのです。これは、どのようなことを意味しているのでしょうか。イエスを神と信じない人は死が待っているだけということでしょうか。イエスはここでユダヤ教の宗教指導者たちと話しています。それこそ、自分こそが特権階級であり、神の救いに最も与かることができる存在だと信じ切っていたのです。そして、その特権意識によって自分より弱い存在の人々を抑圧し苦しめていたのです。そのことを意識しつつ続けて読みたいと思います。
ヨハネによる福音書8章25~27節「彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。」イエスはここでイラついているような表現で「初めから話しているではないか」と言っていますが、正に7章から始まっているこの議論の中心の一つはイエスとは何者なのかということであり、イエスが何度も説明しても理解されずにいたのです。イエスは神そのものであり、神によって遣わされたものであり、神の真理を語っているかたなのです。しかし、聞く耳を持たない人にとってはそれは妄想の話であって、夢物語なのです。
ヨハネによる福音書8章28~29節「そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」」「人の子を上げたとき」つまりイエスが十字架にかけられ殺された時に初めて気づくだろうと言いました。十字架による贖いを通して、私たち人間の身勝手な欲望にとってイエスが邪魔だった問う理由で十字架にかけたイエスの死を通して私たち自身の罪があらわになるのです。
イエスはその公生涯において理解されたことはとても少なかったのです。しかし。少なからず信じた人もいました。ヨハネによる福音書8章30節「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」多くの人と書かれていますが、その中のどれくらいの人がイエスの言葉を理解して信じたかは不明です。それこそこの議論の終わりの59節にはこのようなことが書かれています。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」そのため、この多くの人という言葉をにわかには信じることはできません。それこそ、その場では信じただけであって、最終的にはやっぱり信じることが出来ないと確信し、信じられないなら、都合の悪い存在となったイエスを殺そうしたのです。
しかし、信じた人々にイエスは言いました。ヨハネによる福音書8章31~32節「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」」今年のテーマ聖句でもある「真理はあなたたちを自由にする」はイエスのことをまだ完全に信じることが出来ない人々に語ったのです。しかし、やっぱり理解されなかったのです。33節「すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」」アブラハムとはユダヤ民族の祖とされる人物であり、アブラハムが神によって選ばれその子孫であるユダヤ民族も選ばれていると自任している人々です。つまり、神に選ばれた自分たちはそもそも奴隷ではないという意味で言ったのです。事実、宗教指導者たちは特権階級の人々であり奴隷になったことも、奴隷のように抑圧されたこともないのです。また、イエスの時代、奴隷ではない人物を奴隷呼ばわりすることは侮辱ともとれる言葉だったのです。しかし、イエスは知っていたのです。全ての人が捕らわれていることを。そして、直接的に捕らわれていない人はそのことを自覚することが難しいことも。
特権を持っている人が被害者になることは少ないですが、加害者になることが多くなります。それこそ影響力のある人物の失言一つで人を自殺に追い込んでしまうこともあります。それどころか、自分の手を汚さずに人を抑圧し傷つけることが出来ます。「貧困の原因は努力不足」という自己責任論を元にした暴論がありますが、これも特権のある人にとっては都合の良い言葉なのです。なぜなら、自分がここまで成功したのは自分自身の努力のおかげと言い切ることが出来ますし、自分より弱い立場にいて貧困にあえいでいる人に冷たくしてもいいという言い訳にもなります。しかし、イエスは言いました。マタイによる福音書25章45~46節「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」。言葉を変えると「最も弱い人への態度が神への態度である」という意味です。そして、厳しい言葉ですが、弱い人を苦しめる人は永遠の罰を受けるとも言っています。言葉を変えると自分の特権に乗っかって弱い立場の人を苦しめる人はすでに捕らえられているということなのです。そして捕らえられている人はヨハネによる福音書8章24節「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」の言葉通りに自分自身を罪のうちに死ぬことへ導いているのです。
たとえ理解されなくとも、特権者である宗教指導者たちにイエスは語り続けた理由は、宗教指導者たちにも変わってほしいという思いを持っていたからです。たとえそれが理由で殺されることを覚悟して続け、実際に殺されたのです。しかし、理解されませんでした。
真理であるイエスを求め生き続けていると、理解されないこともありますし、それどころか自分自身がイエスのことを理解していなかったことに思い知らされることがあります。しかし、イエスは自分の命を懸けてまで真理を理解してほしいと願い活動していた人物なのです。私たち自身もイエスの真理の中で生き、間違った時には悔い改め、そして自分より弱い人々を苦しめるのではなく引き上げることのできる人物となることが出来ますように。たとえ完全に理解できないときが多くても、イエスを信じて歩んでいけますように。
