疑われるイエス
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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Transcript
2024年9月15日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書8章39~47節
「疑われるイエス」山下ジョセフ
杉並中通教会の今年の主題聖句はヨハネによる福音書8章32節「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」」です。先週は主題聖句直前に起こったイエスと宗教指導者たちの議論から学びましたが、今週は直後の議論から学びたいと思います。
イエスの話を聞いて信じたユダヤ教指導者へイエスがまず言った言葉が31~32節に書かれています「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」イエスのこの言葉を聞いた宗教指導者たちは納得いきませんでした。33節「すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」」ここでイエスの言った「自由」とは捕らわれていることから解放されるという意味で言っていました。しかし、宗教指導者たち社会的には特権階級であり、「あなたたちは自由になる」とまるで捕らわれている奴隷のように扱われることに不快感を覚えました。少し前の30節に信じたと書かれているのに、すでにその信じたことにヒビが生えてきました。34~36節「イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」イエスがここで語った「真理によって自由になる」意味としては、人は罪を犯すことによって全ての人が罪の奴隷になりえることを語っていました。
イエスは続けて言います。37~38節「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」」イエスは、宗教指導者たちが「私たちはアブラハムの子孫です」という言葉に対して「分かっている」と答えました。アブラハムとはユダヤ人たちの祖であり、アブラハム神と契約を結んだことによってユダヤ人を含めるイスラエル民族が神に選ばれた民族であると宗教指導者は信じていました。ユダヤ教の宗教指導者たちにとっては自分たちがアブラハムの子孫であることは誇りであったのです。それに対してイエスは言いました。「あなたたちはわたしを殺そうとしている」イエスは宗教指導者たちにとっては邪魔な存在だったのです。なぜならイエスは病で苦しんでいる人を癒し、貧困によってまともに食事をとることのできない人を満たした結果影響力を高くなっただけではなく、宗教指導者による支配や抑圧や差別による罪をあらわにしていたのです。イエスの言葉と行いによって宗教指導者の権力が揺らいでしまったのです。しかし、イエスご自身がやっていたことは神の愛の実践なのです。愛の実践の結果、宗教指導者たちはイエスを殺そうとしたのです。
39~40節「彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。」ここで議論が全く進んでいないのが分かります。イエスがあそこまで行ったのに宗教指導者たちは壊れたレコードのように「わたしたちの父はアブラハムです」と言いました。そのためイエスは言いました。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をしたはずだ。」。アブラハムの業、言い換えるとアブラハムのような生き方をするであろうと言ったのです。アブラハムの生き方とはどうだったのでしょうか。アブラハムの生き方は創世記15章6節で一言にまとめられています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」アブラハムは神を信じ、神に従った生き方を目指していた人なのです。イエスは宗教指導者たちにあなたは神に従っていない、むしろ神の愛を実践している方であり、それだけではなく神そのものであるイエスを邪魔者扱いし殺そうとしていたのです。つまり、宗教指導者たちは神を殺そうとしていると指摘したのです。
41節「あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、」イエスの言葉に対して宗教指導者たちはまた反論をしました。「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」。ここで違和感がありました。それは宗教指導者たちがイエスに対して敬語であるということです。もとのギリシャ語には敬語の概念がないため、これは翻訳者の思い込みで敬語になりました。個人的には「私たちは姦淫によって生まれたわけじゃない。私たちにはただひとの父がいる。それは神だ。」と言い切っているほうがふさわしい解釈です。また、ここで宗教指導者たちが「私たちは姦淫によって生まれたのではない」と言い切ったのはイエスに対しての「あなたとは違う!」という意味も含まれていたのかもしれません。聖書によるイエスは性的関係を持ったことのない処女であったマリアから生まれたと書かれています。しかし周りの人から見たら、イエスはマリアの不貞・姦淫によって生まれたように見えます。残念ながらネガティブな噂は風のような速さで広がります。宗教指導者たちがイエスのこの噂を知っていてもおかしくありません。そのため当てつけのように誹謗中傷の意図をもって「私たちは姦淫によって生まれたのではない」と言ったことも想像できます。残念ながら誹謗中傷が始まると議論は成り立たなくなります。ヨハネの8章の後半もそのような状態になってしまったとも言えます。
42~43節「イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。」43節に「聞くこと」と書かれていますが、元のギリシャ語では聞いて従うという意味が含まれているため、ここでイエスが強調していることは宗教指導者たちがイエスの言葉を認めることが出来ないことを指摘したのです。宗教指導者たちのふるまいはまさにイエス自体を疑っていたのです。
44~45節「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。」ここからイエスの言葉にはより熱が込められてきたようにも感じます。イエスは宗教指導者たちへ「悪魔である父から出た」というとても辛辣なことを言うのです。悪魔とは「人を惑わす者」という意味があり、人の欲望そのものとも言えます。人は欲望に惑わされたことによって罪を犯し神から離れるのです。そしてその悪魔とも呼ばれる惑わしと欲望によって人は人を殺すこともできてしまうのです。直接的でなくても、自分自身と異質な存在や、都合の悪い人を差別し追いやることによってやられた人が生きづらくなり命を落とすこともあるのです。イエスは自らの権力に胡坐をかいている宗教指導者たちの弱い立場の人を殺しかねない傲慢さを指摘したのです。しかし、イエスの真理によってその罪を自覚したくないため、信じなかったのです。
46節「あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。」イエスはまたここで宗教指導者たちに「なぜわたしを殺そうとするのか」と語りました。イエスそのもの存在を疑い、信じる事さえもしなかったのです。
今回の箇所で特に大きく感じたことは、存在そのものを否定するような言葉がイエスに投げかけられたことです。イエスは神の真理であり、愛であり、神そのものです。そしてイエスの真理を目の当たりにした人は自分の中の罪があらわになります。しかし47節でイエスが言った言葉が現実です。47節「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」」これは厳しい言葉でありますが、事実宗教指導者たちはイエスの真理を見たのに関わらず、それに目をそらし、まるで自分の罪を無視しているようにふるまっているのです。
人間は誰であっても罪を犯すことはあります。しかし、人がいきなり取り返しのつかない罪を犯すことは稀です。最初は相手を出し抜くためのウソをついたりや自分と違う人を小馬鹿にすることなのです。しかし、相手に対しての憎悪や差別心が蓄積していって最悪相手の命を奪うことになりかねないのです。たとえ命を奪わなくても、相手を深く傷つけ、一生消えない傷を残してしまうのです。自分の罪を自覚し、悔い改めることが大事なのです。その罪の歯止めとしてイエスの真理があるのです。
神は誰一人被害者になってほしいと思っていません。それだけではなく誰一人加害者になってほしいとも思っていません。私たちが被害者になることも加害者になることもないように、イエスの真理によって罪に気付かされた時には、その罪から目をそらすことなく、自分のものとし、栗改めることが出来ますように。被害者も加害者もいない世の中を目指すことが出来ますように。被害者も加害者もいない真の意味での平和な世界、これ人に欲望がある限り夢物語かもしれませんが、それを目指すことによって少しずつでもその世界を目指すことが出来ます。真の平和を目指す人が一人でも増えますように。祈りつつ人生を歩んでいきましょう。