否定されたイエス

Gospel of John 2024  •  Sermon  •  Submitted   •  Presented
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2024年9月23日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書8章48~59節
「否定されたイエス」山下ジョセフ
8月4日の礼拝から本日までヨハネによる福音書7章~8章は秋に祝われるユダヤ教の祭りである仮庵祭でイエスの語ったこととイエスの言葉に対しての人々の反応から学びました。仮庵祭のイエスは主に宗教指導者と議論をしたのですが、すべての人が信じたわけではなく、イエスが嘲笑されたり、群衆の間に対立を生じさせたり、イエスを信じた人があっという間に手の平を返したり、むしろ多くの混乱を起こしていたのではないかと思えます。本日はその議論の最後から学びます。
ヨハネによる福音書8章48節「ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、」イエスは宗教指導者たちから「サマリア人で悪霊に取りつかれている」と罵倒されたのです。サマリア人とはユダヤ人が最も差別していた民族です。残念ながら今の時代でも差別心を持っている人は「お前は日本人じゃなくて○○人だ」などという罵倒があるように、差別に満ちた罵倒をイエスにしました。そして、さらに「悪霊に取りつかれている」と二重に罵倒したのです。
49~50節「イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」イエスは言われました。「わたしは父なる神を重んじている。しかし、あなたたちはわたしを重んじない。自分の栄光は求めていない。」文脈からわかるように悪霊に取りつかれているということは神の言葉を軽んじている、神の栄光ではなく自分自身の栄光を求め、人々を惑わす人を指していました。しかし、イエスは言葉と行動によって自分自身こそが真理であり、神そのものであることを示していたのです。そしてイエスの答えに関して何よりもすごいのは、サマリア人呼ばわりされたことを訂正しなかったことです。もしここでイエスがサマリア人であることを否定していたら、イエスご自身がサマリア人を下であると認めることになり、サマリア人であることが恥であるというメッセージを送ってしまうからです。イエスが「サマリア人だ」と罵倒されたとき、否定も肯定もしなかったことによってサマリア人への愛を示したのです。
イエスは続けて言いました51節「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」」神の言葉は永遠に残るものなのです、そしてイエスはその言葉なのです。私たちが神の言葉であるイエスとともにいることによって死ぬことがない希望をもって生きていくことができるのです。
しかし、イエスのこの言葉はさらに物議をかもしてしまいます。52~53節「ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」」宗教指導者たちはイエスの言葉を信じる人は決して死を見ることはないという言葉を聞いた後、過去の偉人たちを並べ全員死んだことを語りました。つまり、イエスの語っていることはでたらめだということをたたったのです。
宗教指導者たちによる「あなたは自分を何者だと思っているのか」に対してイエスは答えました。54~55節「イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。」8章を続けて読んでいるといい加減うんざりしてくるのですが、イエスはまた「自分の栄光を求めてはいない」ことを語っています。正直、議論が進まずぐるぐる回っている状況も見ることができます。しかし、イエスは続けて言いました、「あなたたちはその方、神を知らないが私は知っている。」。イエスは神の国の到来であり、神そのものでした。しかし、宗教指導者たちはイエスが神であることを否定していたのです。
そして言いました。56節「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」」イエスはユダヤ人たちにとって最も偉大な先祖であるアブラハムでさえもイエスが来られることを楽しみに待っていたと語りました。これも宗教指導者たちにとっては我慢のならない発言でした。57節「ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、」ここまでくるともはや意味が分かりません。五十歳にもならないのにアブラハムを見たのか、と言われてもアブラハムはイエスの時代から最低でも1000年ぐらい前の人物です。しかし、イエスが来られたことにアブラハムが喜んだといわれてこれ以上言えなかったのかもしれません。
最後にイエスが言いました。58節「イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」」。「わたしはある」とはギリシャ語でエゴエイミーという言葉なのですが、これは神が自らを呼ぶときに使う言葉です。それだけではなく、7~8章で行われている仮庵祭ではイザヤ書43章あたりを唱和するのですが、イザヤ書43章10~11節には今回の議論で話したものと似たような言葉が書かれています「わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。」わたしこそ主と書かれていますが、イエスの時代に使われていたギリシャ語訳の聖書では「わたしはある」と訳されている言葉なのです。つまり、イエスは自分こそがアブラハム以前から存在する神であると宣言したのです。
さて、イエスのこの言葉に対して人々はどう反応したのでしょうか。「イエスはまさしく主なる神であった」と信じたのでしょうか。そうではありません。ヨハネによる福音書8章59節「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」人々は石を投げつけてイエスを殺そうとしたのです。しかし、イエスは何とか逃げ出すことができたのです。
私たちがイエスの生涯を考えると、きらきらとした輝かしいところに目が付きます。それこそ、イエスが水をワインに変えたり、病人を癒したり、5つのパンと2匹の魚で空腹に苦しむ5000人の人々のお腹を満たしたりなどの奇跡を起こすイエスや、姦通の罪によって殺されそうになった女性をかばったり、差別されていたサマリア人と交流したり、罪びとや取税人といった社会から追いやられていた人たちと食事をしたりする、人を愛するイエスを思い浮かべます。しかし仮庵蔡のイエスはそのような輝かしさはなく、6章の終わりでは弟子たちの多くがイエスのもとから去ってしまうという挫折を経験したイエスが、仮庵蔡では人々の理解を得ることができず、疑われ、見下され、差別され、そして神というイエスのアイデンティティそのものが否定され、殺されそうになったのです。イエスは偉大な方あり神です。しかし、同時に人に認められずに否定され、最終的には自分の愛弟子の一人に裏切られ、捕らわれ、不当裁判にかけられ、十字架にかけられ、人によって殺されてしまう方なのです。そして、十字架での死によって人の罪を全て受け止め、人と神を分けていた壁を破壊したのです。イエスが最も輝いたのは最もみじめに苦しんでいた時だったのです。
世の中には「まぶしすぎる」という表現があります。挫折や傷を負っていたり、人生に余裕のなかったりしている人が、何一つ問題の起こってなさそうなキラキラとしている人を逆に信用できなくなることがあります。もし、イエスの働きがすべて素晴らしい奇跡や、困っている人を助け出すことだけでしたらここまで多くの人が信じることはなかったでしょう。むしろキリスト教なんて存在しなかったでしょう。しかし、イエスは挫折をし、傷を負い、愛する人に裏切られる人なのです。イエスは周りから小さくされて弱っている人の上にいる方ではなく、ともにおられる方なのです。あなたの人生が沼にはまっていたのであればイエスもその沼に飛び込んでいる方であり、人生が地獄であったら、イエスもあなたと一緒にその地獄におられます。上ではなく横にいる神こそがイエスなのです。私たちが最も苦しんでいる時、最も悩んでいる時にイエスがともにおられることが一ミリでもいいので希望になりますように。
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