「教会の生き方」-예수
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12 그러므로 너희는 하나님이 택하사 거룩하고 사랑 받는 자처럼 긍휼과 자비와 겸손과 온유와 오래 참음을 옷 입고
13 누가 누구에게 불만이 있거든 서로 용납하여 피차 용서하되 주께서 너희를 용서하신 것 같이 너희도 그리하고
14 이 모든 것 위에 사랑을 더하라 이는 온전하게 매는 띠니라
15 그리스도의 평강이 너희 마음을 주장하게 하라 너희는 평강을 위하여 한 몸으로 부르심을 받았나니 너희는 또한 감사하는 자가 되라
16 그리스도의 말씀이 너희 속에 풍성히 거하여 모든 지혜로 피차 가르치며 권면하고 시와 찬송과 신령한 노래를 부르며 감사하는 마음으로 하나님을 찬양하고
17 또 무엇을 하든지 말에나 일에나 다 주 예수의 이름으로 하고 그를 힘입어 하나님 아버지께 감사하라
1. 序論
1. 序論
8月に“四国伝道”の文書を読ませていただきました。
“善通寺教会の現在そして課題”という主題で長老さんが書かれた内容でした。
私は来日してから関東にいましたので、神戸神学校に入学する前には、西部や四国の教会はほとんど知りませんでした。しかし、善通寺教会は名前だけ、なんとなく頭に残っていましたので、教会からメッセージの依頼があった時、とてもうれしかったです。
どうして私が教会の名前を覚えていたかというと、毎年発行される改革派教会名簿を見たことがあるからです。文書での長老のご指摘の通り、どうして教会の名前がお寺だろうという素朴な疑問が私にはありました。教会名をその地域の名前を付けることが一般的ですが、韓国人から見ると、有名なお寺の駅名はあっても行政の“市”の名前に使わないからです。
“なるほど、日本だよな”当時、私は本当にキリスト教会が少ない日本にいるんだという実感を感じた記憶があります。文書を読んでわかったのですが、敗戦後まもなく、教会が始まった歴史ある教会ですね。調べたところ、善通寺市は、人口約3万人ぐらいで、神社とお寺の数が63か所でキリスト教系は5か所、さぬき市は、人口4万人で150か所の神社、お寺がある反面、教会が一か所もありませんでした。
敗戦後、キリスト教が流行った時期があり、教会とクリスチャンの数が増えたとしても、昔からお寺が根付いているこの地域に教会が開拓され、主のみ言葉が語られ、福音が広がったということを、あらためて思うと言葉には言えない感激があります。
お寺の名前を付けた教会が設立された時、その当時の信仰の先輩たちはどのような心境だったでしょうか。自分の想像ですが、悔しいと思いながらも、それでもここに福音が宣べ伝えられる教会を開拓したい、または、真の真理を知らず生きている地域の家族や親戚、友達、人々に先に救われたものとしてどうしても伝道したい、教会にお寺の名前を付ける痛みを忘れず、昨日よりは今日もっとお祈りしていきたいという気持ちではなかったのでしょうか。
このような所に教会が立てられました。異教徒的な生活をしていた私たちにキリストの十字架の愛が伝えられ、イエス様を信じる新しい身分が与えられたのです。
私たちはこの地上にいるけれども、キリストに結ばれ、私たちの本籍は天にあるのです。
2.本論
2.本論
1)異邦人の地に福音が。
1)異邦人の地に福音が。
パウロが手紙を送ったコロサイの教会も異邦人によって開拓された教会です。
現代で言うと、トルコのところにコロサイという地域に教会が立てられました。
エフェソに3年間、滞在して伝道活動をしていたパウロから福音を聞いて信仰を持つようになったエパフラスは、自分の故郷に帰って、キリストの福音を伝え、コロサイの教会を開拓したと思われます。
エフェソや温泉で有名なヒエラポリスやラオディキヤの町に比べると、小さな町でしたが、貿易のため、多くの商人たちや旅人の出入りが自由な所でした。コロサイには元々住んでいた原住民、移住してきたギリシャ人、特にユダヤ人の移住民が多くいました。
初代教会の時代は、ローマ帝国の支配にありました。
当時ローマは軍事的な目的で陸路や水路の整備が進み、旅行の安全が保障されていました。ローマの軍人と旅人による異なる偶像、風習、神話、様々は哲学などが混じり合い、混合主義になっていた地域が多くありました。
ですから、小さな町といっても、あらゆる偶像や異教徒の文化が入り込んでいました。特にコロサイがあった地域は、魔術さらに神秘的なものを求めていましたし、ユダヤ教的特徴まで加えられていたのです。
2章を見ると、コロサイに存在している異端の教えなどがたくさん見られます。人間の言い伝えた過ぎない哲学(8)食べ物や飲み物のこと、祭りや新月や安息日のこと(16)天使崇拝(18)世を支配する諸霊(20)厳しい禁欲的な決まりを強調することとか、独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行(くぎょう)を伴う儀式(22)です。
このような所に教会が開拓されたのです。
御子イエスは、神様と私たちを和解させ、暗闇の力から救い出して、イエス様の支配のもとに移してくださいました。道であり、真理であり、命であるイエス様を通して、贖われ、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命をいただいた存在になりました。
万物は御子によって、御子のために造られました。またキリストは、体である教会の頭であります。すなわち、キリストこそ教会の命の源であり、キリストこそ、万物よりも先にある方であり、万物はキリストにあって成り立っています。
仲介者であるキリストは、私たちを十字架の血によって神様と和解し、聖なる者、きずのないものとして立たせてくださいました。
2)コロサイの問題点
2)コロサイの問題点
このような救いの恵みをいただいた信徒たちは、コロサイという複雑な偶像の世にいきていても、信仰、愛と希望をもって実を結びながら成長していました。
ですから、これからはころさいの教会は、聞いた福音を宣べ伝える番であるとパウロは進めています。なぜなら、私たち一人一人は、神様に遣わされた伝道者、教会の奉仕者であるからです。
勿論、クリスチャンになったから、神様の子になったからといって、自分の状況がよくなるとは限りません。むしろ、キリストのために、教会のためにうける苦しみ、試練もあるかもしれません。
しかし、私たちは知っています。愛したくない人を赦して愛することがどれほど難しいことなのか、できないことなのかを。
罪深い私たち、赦される資格もない私たちを御子イエスキリストの死によって救ってくださったその愛を経験したからこそ、今度は福音を世界中に宣べ伝え、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、教えていく使命が教会にあるのです。
しかし、いつのまにかコロサイの教会の中に世の偽りの教えや蔓延していた異端が教会に入り込み、教会の分裂の危機を引き起こしたのです。
人間は環境に影響されやすいです。コロサイの教会の信徒たちはほとんど1世代の異邦人のクリスチャンで、クリスチャンになる前には、あたり前に聞いて行っていた異端的な思想、教え、異教的な風習、伝統などは馴染み深いことだったでしょう。
ですから、神様から離れ、以前の悪い行いによって心の中で神様と敵対していた時代に戻ろうとする習性がのこっていたかもしれません。
その習性は、今まで身に着けていた3章に書いてある地上的なものでした。
すなわち“みだらな行い、汚れた行い、情欲、悪い欲望、貪欲、偶像崇拝、口から出る怒り、憤り、悪意、そしりなど”です。
それで、ちょっとわき見をしただけなのに、真理ではないむなしい偽りのとりこになりやすいのです。
3)パウロの勧め
3)パウロの勧め
パウロは、コロサイの教会の信徒たちとは直接会ったことはないけれども、コロサイの教会の牧会者であり、師匠でした。彼らの信仰のために、愛と関心をもってお祈り続けていました。
2章1節)
コロサイの教会は、エパフラスによって伝えられた福音を通して成長していた教会です。そこに偽りの教師などが入り込み、信徒たちが惑わされ、分裂の危機に置かれてある状況の教会に対して、“あなたたちは、私たちたちのために十字架に掛けられ、死なれ、葬られ、蘇られた主キリスト・イエスを受け入れた人じゃないか、ですからキリストに結ばれて歩みなさい(2;6)”と勧めています。
そして3章12節)
“もうあなたのアイデンティティーは神様に選ばれたもの、聖なるもの、愛されているものであるよ”とパウロは言っています。
むしろ何の資格もない私たちを一方的な神の恵みによって主の民として選び、キリスト・イエスによるあがないによって私たちを義とされ、聖別してくださいました。
これがキリスト者であります。
ですから一方的な恵みによって選ばれ、契約の民とされたが故に、神様に愛されているが故に、信仰が賜物として与えられているが故に、その与えられた信仰によって、以前身に着けていた汚くて古い服を脱ぎ捨てて、キリスト者にふさわしい新しい服を着て、愛の実を結びなさいと勧めているのです。
イエス様を信じると、御霊によって私たちは新しい被造物になります。
新しくなると、私たちがこの世と人を見る観点、考え方、受け入れ方、話し方などが変わります。コロサイの教会の信徒の中には様々な背景や経歴をもった人たちが多かったでしょう。
ギリシャ人もいれば、ユダヤ人もいる、お金持ちもいれば、貧しい人もいる、教育熱心な人がいれば、字も読めない人もいる。
しかし、イエス・キリストは、贖いだけではなく、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊しました。つまり、ご自分において敵対する両方を一人の新しい人に作り上げてくださいました。
これが教会ですね。
教会に集まった人の背景は関係ありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるからです。
私たちはキリストの血によって生かされたことを信じる「一人の新しい人」 共同体、教会であるから、キリストに根を下ろして、信仰をしっかり守って、イエス・キリストという目標だけを仰ぎ見て進むようにと言われました。
そのために、私たちに必要なことを四つあげています。
① キリストの品性をあなたたちの身につけなさい。
① キリストの品性をあなたたちの身につけなさい。
新しい服とは、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容です。そこにゆるしです。
パウロはキリストの品性の服を身に着けたならば、最後は「愛」という結ぶ帯、ベルトでしっかり結ぶようにと言いました。
あわれみの心と慈愛、謙遜と柔和、寛容と赦し、それぞれ素晴らしい品性ですが、そこに愛が加わることで完全な実が結ばれるでしょう。
愛のない憐みの心と親切、愛のない寛容、愛のない赦し、愛のない交わり、愛のない行いは完全ではありません。
すべてを完成させる絆である愛を加えて
愛のあふれる憐みと親切、愛の溢れる謙遜と柔和、愛のあふれる寛容と忍耐と赦し、愛の溢れる集い、愛の溢れる教会を作り上げていき、その愛の香りがこの地域に広がって、実が結ばれ、主によって変われる教会になりますように願います。
② キリストの平和があなたを支配するようにしなさい(15節)
② キリストの平和があなたを支配するようにしなさい(15節)
当時のローマの平和とは、植民地の非ローマ人に対して武力と暴力をもって政治的、軍事的、宗教的に支配することでした。ローマ皇帝による支配こそ、生活の安定と平和をもたらすものであると、偽りの平和を植民地の人たちに信じ込ませようとしたのです。彼らにとって平和という意味はそのような意味でした。
しかし、神様に統治される私たちは、この平和をどのように受け止めるでしょうか。
キリスト者はまったく違う平和を求める共同体です。わたしたちにとって平和は、キリストの十字架の血によって平和が成し遂げられました。
生まれたところも違い、性格もまったく違うキリスト者たちは、一つの体として平和を作り出し、すべての人との平和を追い求めるように、招かれています。
“キリストの平和があなたたちを支配するようにしなさい”というのは、
私たちの自我、欲望、怒り、貪欲、権力、高慢が自分の思いや心、考えを支配するようにしてはいけません。只キリストの平和、十字架の血によって得られたキリストの平和が私たちの心、思いを支配するようにと、つまりキリストの支配に全的に従うことです。
キリストの平和に支配される共同体、教会はお互いに励まし合い、祈り合い、協力し合い、愛の言葉があふれるでしょう。
真の平和をもたらしてくださるキリストを信頼し、私たちの心と考えとを守ってくださった主に感謝していきましょう。
③ キリストの言葉があなたたちのうちに宿るようにしなさい。(16節)
③ キリストの言葉があなたたちのうちに宿るようにしなさい。(16節)
キリストの平和が私たちを支配するために必要なことがあります。
それは、キリストの言葉です。それも豊かに私たちの内にキリストの言葉が留まり続け、力強く働くことが私たちには必要です。
キリストの豊かな言葉こそ、私たちがこの世を主に選ばれたものとして、聖なる者として、愛されたものとして生きるように道を案内してくださいます。
力あるキリストの言葉が私たちのうちに宿ると、聖霊に満たされます。
礼拝のメッセージを聴くだけではなく、聖霊が心を開いてくださるように、お祈りしつつ聖書を読み、暗唱していくことも大事でしょう。
しかし、年齢とともに耳が遠くなり、目が悪くなり、聖書を持つ力もないと思うかもしれませんが、今よりもっとできない時が必ず来ます。
まったくできない時を備えてキリストのみ言葉がいつも心に生きているように、個人的に、または教会の皆さんとともに輪読会や分かち合い、いろいろな工夫を通して共に励まし合いましょう。
キリストのみ言葉が豊かにあふれると、知恵を尽くしてお互いに教え、お互いに勧め、お互いに成長することができます。
そして、キリストのみ言葉が私たちの内に豊かに満ち溢れているならば、キリストのみ言葉があらゆる賛美として表れます。主からいただいた福音の喜び、救いの喜び、み言葉の喜び、愛の喜びなどが口を閉じてはいられないほど、あらゆる賛美として溢れるからです。
④ すべて主イエスの名によって
④ すべて主イエスの名によって
私たちはキリストの代理人です。
ですから、何を言っても、何をしても、あらゆる面においてすべて主イエスがあらわれるように、行う人です。
“やはりキリスト教の人は違うね” 神様をしらない人でもイエス様の愛を感じられるように、イエス様の名によって日々の生活を過ごしていきたいと思います。
そして、あらゆることに感謝をすること、感謝ができない状況の中でも、主の真実な導きを信頼しつつ、感謝していきたいと思います。
3.結論
3.結論
もう私たちは以前の生活、以前の考えには戻れない人になりました。
キリストの愛、キリストの平和、キリストのみ言葉による生活、交わり、教会での恵みを経験してしまったからです。
勿論、信仰の生活の中、落ち込み、傷つき、誘惑に負け、教会との関係が崩れ、すべて手を離したい時もあるかもしれません。
その時、思い出してください。
主キリスト・イエスを!
私たちは選ばれたもの、聖なるもの、愛されているものであることを!
私たちが一つの体として、神の家族として結ばれていることを!
そして
再びキリストの新しい服を着るようにと、キリストの平和が支配されるようにと、キリストのみ言葉が内に留まるようにと、求め続け願っていきたいと思います。
共同体において、教会においてともに一つの体として主のみ名を通して共に信仰に堅く立って歩むことができますように。
一度握った私たちの手を離さず、何があっても強く握っておられるイエス・キリストに感謝し賛美して歩む教会になるように願います。
祈り
恵み不快主イエスのみ名をほめたたえます。
私たちに一人一人を主の子として招いてくださり、感謝いたします。
主の恵みがなかったら、罪のとりこになっていたわたしたちをイエス・キリストの尊い犠牲により、救われてくださった恵みをどのように返すことができるでしょうか。
今日のみ言葉のように、キリストの福音にしっかりたち、キリストにならい、キリストの平和とみ言葉によって生きることができますようにしてください。
