追い出された人と共に

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2024年10月15日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書9章30~41節
「追い出された人と共に」山下ジョセフ
 
 先週はヨハネによる福音書9章1~12節で生まれながら目の見えない人の目を開けた奇跡を通して学びましたが、今回はその後に起こった騒動から学びたいと思います。
 
 ヨハネによる福音書9章18~22節「それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」ユダヤ教の宗教指導者たちは癒された人の言葉を信じることができなかったため、その両親を呼びました。前回のメッセージの13~17節でもファリサイ派が目を癒された人に尋問をしていましたが、ファリサイ派はこの人物が誰であることか知っており、目の見えなかった人が見えることは信じていました。しかし、宗教指導者たちはこの癒された人が誰なのか知らなかったのでしょう、目が見えるようになったという事実を信じることができず、その両親を読んだのです。しかし、両親は「息子の目が見えるようになった理由はわからない」と言葉を濁したのです。なぜなら、イエスはユダヤ教の宗教指導者たちにとっては邪魔な存在であり、信じた人はすべて「会堂」から、すなわちコミュニティから追い出されることを知っていたからです。23節「両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。」
 
 ヨハネによる福音書9章24節「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」」宗教指導者たちは改めて目の見えるようになった人への尋問をはじめました。宗教指導者たちにとっては社会の秩序を乱す不届き物・罪人であるイエスの奇跡によって目が開かれたということは都合の悪いことだったのです。なので、まるで脅しのように「神の前で正直に答えなさい」と求めたのです。正直、宗教指導者にとっては正しさが大事だったのではなく、イエスのことを否定することが大事だったのです。25節「彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」」しかし、目が見えるようになった人にとっては自分自身がそのイエスという人物によって目が見えるようになったということが大事だったのです。それこそ、イエスが正しい人なのか罪人なのかはそこまで重要ではなかったのです。
 
 尋問は続きます。ヨハネによる福音書9章26~29節「すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」」宗教指導者にとっては「モーセ」すなわちユダヤ教の戒律・律法以外から救いに導かれることが許せるものでありませんでした。この目が見えるようになった人は律法から学ぶ機会はほぼなかったのですが、イエスと出会ったことにより目が開かれ、救われたのです。そして、自分の目を開いたということ以外分からないのですが、宗教指導者たちに堂々と語ったのです。30~33節「彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」」16節でファリサイ人の中で「イエスが神から来たのか、それとも律法を守らない罪人なのか」議論と分断が起こっており、宗教指導者たちは初めから信じていなかったのですが、目を開かれた人ははっきりとイエスは神から来たものであるといったのです。34節「彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した」先週お話ししましたが、イエスの時代では障害をもって生まれた人は先祖の罪によってそのように生まれたという偏見がありました。つまり、生まれながら目が見えない人はまさに罪の中に生まれたと見下されていたのです。しかし、宗教指導者たちは、その見下している対象だった人物から反発され、教えられようとしたことにプライドが傷ついたのでしょう、外へ追い出したのです。
 
 ヨハネによる福音書9章35節「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。」イエスがこの生まれながら目の見えなかった人を癒した直前、宗教指導者たちによって殺されそうになり神殿から逃げ出したのです。そして、そのあとイエスによって目が開かれたこの人は、宗教指導者たちにイエスのことを語ったために追い出されたのです。いわばイエスを信じたがゆえに追い出されてしまったのです。そこでイエスは言いました「あなたは人の子を信じるか」36節「彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」ここで思い出させられるのは、この人はイエスのこねた土を目に塗られ「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と言われた後イエスと別れていたのです。そのため、この人はイエスがどのような見た目をしているのか知らなかったのです。つまり、イエスを見ることなく信じていたのです。その人はイエスが「人の子」つまり神であるということを理解していなかったのに関わらず、イエスに救われたからこそ信じたのです。37節「イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」」目が開かれた人は驚いたと思います。なぜなら、生まれつき見えなかった目を開いた偉大な人が目の前にいるからです。自分の目を開いた方が追い出された先にいるのです。驚き喜びの中でこの人は言いました。38~39節「彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」この生まれながら見えない人が見えるようになる軌跡はまさに、イエスの働きを表すものでした。私たちも同じようにイエスを見ることはできなくても、イエスの働きによって救われ信じることができるのです。
 
しかし、イエスのこの言葉によって納得がいかない人々もいました。40~41節「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」」イエスと一緒にいたファリサイ派の人たちは、自分たちは律法のスペシャリストであり、律法に従っていると自負していたのです。しかし、律法そのものは人を救い主イエス・キリストに導くものであり、そして愛を持たずに律法を運用することは間違いであるのです。律法による正論を振り回して弱い立場の人々を傷つけているファリサイ派は間違いを犯していたのです。
 
 先週と今週学んだヨハネによる福音書9章は生まれつき目の見えなかった人がイエスの奇跡によって目が見えるようになり、それが原因で起こった騒動が書かれている箇所です。この騒動は目の見えるようになった人が追い出されたことによって終わってしまったのです。しかし、驚くことにイエスはその追い出されていた先にいたのです。それどころか、イエスも同じように追い出されていたのです。よくある疑問で「イエス・キリストはどこにいるのか」というものがあります。世の中で苦しんでいる人を見たり、災害によって自分の居場所から追いやられている人を見たり、戦争によって殺されている人を見たとき、平和のないこの世界を見ているとき、「イエス・キリストはどこにいるのか」と思ってしまいます。それだけではなく、自分自身がまさに苦しんでいるとき「イエス・キリストはどこにいるのか」と思ってしまいます。しかし、イエスはそこにいるのです。それどころか、イエスご自身も殺されそうになったところ、逃げ出すように出て、戻れない状況になっていたのです。つまり、私たち一人一人にとって一番つらい場所にいる方なのです。イエスは、上から人を助けに来るヒーローのようなものではなく、一緒に苦しみ、一緒に追いやられ、一緒に死んでくださる方なのです。イエス・キリストは上にいる神なのではなく、私たちと共にいてくださる神なのです。苦しいときにイエスがいてくださること、それこそが救いなのです。その救いにあずかりながら、人々に救われていることを伝え、また奇跡は起こせなくても、イエスのような生き方と働きを行いつつ平和を実現することができますように。
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