聞いてついて行く
Notes
Transcript
2024年10月20日 杉並中通教会 主日礼拝
ヨハネによる福音書10章1~6節
「聞いてついていく」山下ジョセフ
イエスの時代の羊の囲いは岩を重ねて作られており、一か所だけ門があります。門はただの隙間であって、扉などはありません。その時どうするかというと、羊飼いの一人が門番として門に座るのです。つまり、門番役が門そのものになるのです。本日の聖書箇所の少し先のヨハネによる福音書10章7~9節ではこう書かれています。「イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」。イエスが言っている「私は羊の門である」という言葉はイエスが羊の囲いの門番であるということを言っています。門番は囲いの入り口で寝ずの番をし、羊が脱走しないように見張り、また、強盗や狼などから羊を守っていたのです。ですので本日の聖書箇所に書かれている門番とはイエス・キリストのことだと理解することもできます。
ヨハネによる福音書10章1節「「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」盗人や強盗は誰を指しているのでしょうか。盗人たちは羊飼いから羊を奪おうとしている人たちであるので、「人々をイエスから引きはがそうとする人」であると理解することができます。囲いを乗り越えて入ってくる人のような表現のため、外からくる外敵のような印象を持ってしまいますが、羊の囲いを教会に例えると全ての人はもともと囲いの外にいたので、もう既に入っている可能性もありますし、それこそ中の羊が強盗に代わる可能性もあります。それはどのような意味かといいますと。私自身、杉並中通教会の牧師として自戒をしていることなのですが、キリスト教会では、人をイエスのもとへ導く羊飼いであるべき牧師が権威によって信徒を精神的・肉体的に虐待し、牧師にとって都合の悪い人々を追いやり、聖書を悪用して差別を正当化していることを目の当たりにすることもあります。それこそ教会からの加害によって苦しめられ教会へ通うことをやめた信徒も知っています。教会に行くことをやめたのはその信徒の信仰が浅かったり、弱かったりするからではありません。むしろ、教会に傷つけられ、もはやその教会じゃ礼拝できないと思って離れるのです。私たちは常に自問しなければなりません「自分自身が盗人や強盗になっていないか」
ヨハネによる福音書10章2~3節「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」先ほど羊の囲いの門番はイエスであるという話をしましたが、この箇所の門から入ってくる羊飼いもイエスのことなのです。一見するとややこしく感じますが、門番も羊飼いでありますし、イエスは私たちを守る門番であると同時に私たちを導いてくださる羊飼いなのです。
羊飼いイエスは私たちの声を聞き分け、名前で呼んでくださる。イエスは私たち一人残らず個人的に知っている方なのです。私たちの長所も短所も、何が好きなのか苦手なのかそれこそ神の一本一本まで知っている方なのです。私たちが傷つき絶望している時には支えてくださる方のです。イエス・キリストは私たち一人一人と個人的な関係持ってくださる救い主なのです。
ヨハネによる福音書10章4~6節「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」イエスはなぜこのような言葉を使ったのでしょうか、まるでこの言葉はイエスの声を聞いてついていく人がイエスの羊であって、ついていかない人は羊ではないと思えてしまいます。決して、イエスの子羊である私たちと外にいるあの人たちのような分断を産んでいる言葉ではないのです。そもそも羊飼いの話は、直前のヨハネによる福音書9章40~41節のファリサイ人の話への返答として始まりました。「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」」自分たちこそが神の御心が分かると慢心していたファリサイ派に対して「そういうわけではない」と、むしろ最も弱い立場の人たちに対して神の御心が合わられることを語っています。それこそ、物事の正しさに捕らわれていたファリサイ人は逆に見えなくなってしまったと語っている流れからなのです。改めて4~5節を読みます「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」この箇所はむしろ正論を振り回しても人はついてこないことであり、イエスご自身はそのように正論を振り回す方ではないということなのです。イエスは私たち一人ひとりに求めているのは関係性であり、イエスとの関係性を通して希望を持てることも救いなのです。
イエスは私たちを名前で呼んで導いてくださる羊飼いであり、同時に私たちを守ってくださる門番です。それだけではなく、個人的な関係を持ち私たちに希望を与えてくださる方なのです。なぜここまでするのでしょうか。少し進んでヨハネによる福音書10章14~15節「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」イエスと人との関係は父なる神とイエスとの関係とそっくりであるとイエスは言っています。その関係生徒は何か。14節の最後でイエスは羊のために命を捨てると言っています。これが何を意味するのかヨハネによる福音書15章13節に書かれています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」。つまりイエスは羊たち、つまり私たち一人一人をこれ以上ないほど愛してくださっているのです。命の捨てるほどの愛とは、無条件の愛を意味しています。つまり私たちがイエスに何かをしたから愛されるのではなく、神であるイエスはまず初めに私たちを愛しているのです。そしてこのイエスの愛は一部の選ばれた人だけへのものではありません。ヨハネによる福音書10章16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」イエスが初めから愛し求めているのは囲いの中にいる羊だけではありません。事情があって囲いから出てしまった羊、強盗によって囲いから奪われてしまった羊、囲いの中の羊から都合の悪い存在として追い出されてしまった羊、どのような状況で、どのような傷を負っている羊であっても私たちの神イエスは初めから愛しており、深い関係性を持ちたいと願っているのです。それどころか、羊を奪った強盗たちも囲いの外の羊たちなのです。加害行為をした強盗だった羊もその行いを悔い改めて、イエスのもとへ帰ること求めているのです。そして、元加害者だった悔い改めた人も、虐げられた元被害者だった人もともに一つの群れになるのです。アフリカ系アメリカ人公民権運動のリーダーだったマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の有名な演説「I Have a Dream(私には夢がある)」にはこのような一文がありました。「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」今回の聖書箇所で言う強盗だった奴隷所有者と奴隷から自由になった後も社会から追いやられ不当な扱いを受けていた人々が和解をし、ともに同じテーブルで食事を楽しむことができる、どのような過去を持っていたとしても同じ群れとなり互いに支えあうことができる。一日二日でできることではないですし、永遠のような時間がかかるかもしれないですがイエスによって真の和解ができるのです。私たちが生きている時に忘れないでいただきたいには、神であるイエスはまず初めにわたしたちを愛してくださったことです。私たちに対して無条件な愛を一方的に持っているのです。「愛されている」そのことを支えに生きていくことができますように、その愛によって人と人の分断が修復され和解に導かれますように、祈りつつ歩んでいきましょう。
