みんなつながっている
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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2025年2月2日 杉並中通教会 公現後第4主日
ヨハネによる福音書15章1~5節 「みんなつながっている」山下ジョセフ
今回の箇所であるヨハネによる福音書15章にはよく誤解されている言葉があります。それは2節と6節です。15章2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」15章6節「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」この箇所は読み方ひとつ間違えると、イエスを信じていない人は地獄へ落ちると誤解してしまう、そんな危険な箇所でもあります。しかし、この箇所はそのようなことが書いてあるわけではありません。今回の主題ではないので少しだけお話ししますが、そもそも今時のキリスト教の地獄の概念として流行っている燃え盛る永遠の苦しみは聖書のみ言葉には書かれていないものであり、農夫である神は「実を結ばない。神に選ばれていない人」を取り除き、選定した枝のように人を地獄の業火へ投げ入れる存在ではありません。
先週、神の側面である「聖霊」に関してお話ししました、そして聖霊は私たちと共におり、私たちの内にもいる、私たちを放っておかないお節介な神であると学びました。今回の箇所は、私たちを放っておかないお節介な神であることを語った直後の話なのです。今回のブドウの木のたとえ話はつながりを語っている箇所であり、断絶を語る個所ではないのです。
それでは15章2節に書かれている「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」は何を意味しているのでしょうか。それは少し後の15章9~10節に書かれています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」神は初めに私たちを愛していました。だからこそ神の愛にとどまりなさいと語っているのです。そして神のおきてを守ればその愛にとどまれると語っています。そのおきては15章12節に書かれています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」」イエスはヨハネによる福音書13章34節の言葉をもう一度言っているのですが、これはそれだけ重要な言葉だということなのです。イエスのおきてとは互いに愛し合うことであり、そして互いに愛し合うことによって周りの人たちへイエスを表すことができるようになるのです。今回の菓子では「枝から実を結ぶ」という表現がありますが、それは「互いに愛し合うこと」「イエスのような生き方をすること」を指しています。そのことを意識しながら本日の聖書箇所から学びたいと思います。
ヨハネによる福音書15章1~2節「「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。木の世話、特に実のなる木の世話をする際に大事な作業は剪定です。農業協同組合(JA)のよると剪定とは、木の枝の先端を切ることや、不要な枝を根元から切り取って、木の形を整える作業です。選定をすることによって日当たりや風通しを良くして害虫予防になったり、安定して多くの実がなったりします。今回のたとえ話ではイエスがブドウの木であり、神が木の手入れをする人であり、私たち人間は枝です。このたとえ話によると実を結ばない枝(人間)は取り除かれると書かれていますが、これは少し誤解を生む表現です。このたとえ話での神の役割は木の手入れをしている人です。取り除くとそこで終わりと思われがちですが、ブドウの木の枝を取り除くとその切り口から新芽が生えて後にその新芽から果実が実るのです。すなわち実を結ばない枝が取り除かれることは愛し合わない私たちが神に捨てられて地獄の業火に投げ入れられるという意味ではなく、全く実を結ばない私たちがちゃんと実を結ぶように神が忍耐強く私たちの手入れをしているのです。それこそ15章3節のみ言葉「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」すなわちイエスのみ言葉を通して「清く」すなわち手入れをされることによって私たちはよりイエスに似た存在へと実を結べる存在へと成長することができるのです。
ヨハネによる福音書15章4~6節「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」木につながってなくその辺に投げ捨てられている枝は枯れます。そして、それは集められ、火で焼かれます。火というイメージから子のたとえ話では「イエスにつながっていない人は地獄に落ちる」と勘違いされることが少なくないのですが、そのような意味ではありません。これは枝の使い道を意味しています。枯れた枝は火にくべて燃料にするぐらいしかありません。そもそも、このたとえ話では私たちがイエスにつながっていることによって実を結ぶことができることを語っているのです。そして、イエスがこのたとえ話を語った理由は私たちがイエスのような生き方をし、私たちが互いに愛し合うためなのです。
私たちイエスというブドウの木の枝として実を結ぶ存在であると語っています。また、実を結ばない場合は神が忍耐強く手入れをしてくださいます。そして手入れされた私たちが実を結ぶためには、私たちがより深くイエスの生き方に関して考える必要があるかもしれないですし、自分自身の持っている価値観や偏見、差別心をひっくり返す必要があるかもしれません。しかし、イエスにつながり、イエスの生き方を目指せば必ず実を結ぶことができるのです。そのような約束をイエスは語っているのです。それでは、イエスが語っている実と名何なのでしょうか15章7~8節「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」「私たちがイエスにつながっておりイエスの生き方をするならば、私たちの望むものはすべてかなえられる」と誤解しがちな言葉ですが、この箇所はそのような個人的な繁栄を指しているのではありません、そもそもイエスの語る「望むものはかなえられる」が個人的な繁栄を指しているのであればイエスの生き方やみ言葉と完全に矛盾するからです。イエスはブドウの木で私たちは枝なのです。私たちはイエスというブドウの木とつながっている枝ということは、私たちもイエスを通してみんなつながっているのです。そしてイエスという木につながっている私たちが互いに愛し合うという実を結ぶことを求めているのです。
それでは、私たちはどの程度互いに愛し合うべきなのか、そのことは15章13節に書かれています「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」、愛する人のために命を捨てるって言葉に対して私は「車に引かれそうな人をかばう」ことを想像しがちなのですが、人のために自分の命を捨てることはそのような極端な状態だけさしているわけではありません。それこそ、他の人のために動いたり、他の人のために時間を割いたり、他の人のために寄付することも自分の命を捨てることにあたります。なぜなら自分の体力や時間や財産を自分のために使うこともできたのに、あえて他の人へ愛を示すために行ったからです。他の人、特に自分より弱い立場の人のために自分意思の体力や時間や財産を使うことは命を捨てることであり、これ以上大きな愛はないのです。そして、人が人を愛し、すべての人が友のために自分の命を捨てることができるようになれば、平和という大きな実が実るのです。イエスの道とは愛に基づいた平和の道であり和解の道なのです。イエスにつながっているすべての人が実を結ぶことができますように、神が私たち一人一人に手入れをして互いに愛し合うことができますように。そしてすべての人が互いに愛し合うことによって平和が実現できますように。
