模範を示したから
Gospel of John 2024 • Sermon • Submitted • Presented
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2024年1月12日 杉並中通教会 公現後第1主日
ヨハネによる福音書13章12~17 「模範を示したから」山下ジョセフ
ヨハネによる福音書13章からイエス・キリストが十字架にかかる前夜、ユダヤの暦では一日は日没から始まるのでイエスの十字架までの長い1日が始まります。この一日はイエスと弟子たちの夕食から始まります。ヨハネによる福音書13章1~2節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」以前、イエスにナルドの香油がかけられたときのように、イスカリオテのユダに関して一言書かれています。この日の夕食後、ユダはイエスを裏切りによってイエスの十字架への苦難が始まりますが、夕食の時点でイエスを裏切ることを決心していたようです。
イエスは食事を中断しました。ヨハネによる福音書13章3~5節「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」イエスの時代では足を洗うことは生活では大事な行為でした。イエスの時代の人々は足にサンダルを履いて未舗装の泥道を歩いていました。これはすなわち足が非常に汚くなるということです。そのため、人が家に入るときには足を洗う文化があり、裕福な家の場合奴隷が客人の足を洗っていました。
イエスは弟子たちの足を洗い始めたのですが、弟子のペトロは困惑どころか恥ずかしいと思っていました。6~8節「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」ペトロにとってイエスは、尊敬する師匠でした。イエスの時代では人の足を洗うのは奴隷の仕事でした。ペトロとして自分がメシアだと信じている師匠のイエスが足を洗うことなんか許せないことだったのです。これはペトロがイエスのことをまだ理解していなかったとも見えます。ペトロを含むイエスの弟子たちはイエスが武力によってローマを追い出すメシアだと信じていました。それこそ、イエスが人を癒したり、食事を与えることは民衆の支持を得るために行っていたのであり、多くの民衆の支持を得たら革命を起こす強いリーダーを期待しているのです。そのような強いリーダーが人の足を洗うなんていわゆる底辺の仕事をするなんてみっともないことをしていることに恥を感じていたのです。だからこそ、イエスに対して「私の足を決して洗わないでください」といったのです。
イエスが弟子たちの足を洗った後、食卓に戻りました。ヨハネによる福音書13章12~13節「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。」イエスは弟子たちの気持ちがわかることを語っていました。なぜなら地位的には弟子が先生の足を洗うものであるのに、イエスはその逆を行ったのです。たとえその行為が弟子たちを困惑させることになったとしても。
14~15節「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
次の日、イエスは何一つ悪を行わなかったのに、人を愛するがあまり十字架にかけられて殺されました。捕らえられた後、「私は何も悪いことをしていない」などと自己弁護することなく殺されました。それこそ、イエスは裏切ったユダの行為や、イエスのもとから逃げたほかの弟子たちのことも、自分自身の地位を守るためにイエスを殺そうとした宗教指導者たちの罪など、正論を言って非難することはできたのです。そして、イエスの誰一人非難をせず、むしろ神がイエスを殺す原因になったすべての人が許されるように祈ったのです。
イエスを殺すことになった弟子たちの裏切りや人々の罪を横において十字架を受け入れたのです。なぜならイエスはイエスご自身を殺すことになった人の罪をたたくとことをせずに、恐れによって罪を犯した人々と寄り添うことを選んだからです。たとえそれが孤独でみじめな苦しい十字架であっても、人を愛するがあまり、人を責めることなく甘んじたのです。今回の弟子たちの足を洗う行為も人を愛するがあまり受けた十字架を表す行為だったのです。そして、私たちの神であるイエスは十字架を通して私たち人間に寄り添い、神が愛であるということを示して、何も罪を犯していない神が裏切り者で罪人の私たちと和解するために動いたのです。本来なら罪を犯した私たち人間から和解を求めるべきだったのに、神のほうからから和解を示したのです。
イエスは言いました。14~15節「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」イエスの十字架が神と人との和解を示すように、互いの足を洗う行為が示すのは人と人の和解を示しているのです。例えば自分自身が良かれと行った行為によって誰かを傷つけしまったとき、むしろ相手の方が謝罪すべきって状況が生まれることもあります。特に弱い存在、傷ついた存在って攻撃的になりがちです。しかし、イエスは後に裏切るユダの足も、イエスが捕らえられたときに逃げ出した弟子たちの足も洗ったのです。イエスは知っていたのです、ユダはイエスに謝罪し和解することもなく自殺をすることも。しかし、イエスはユダをも愛し、自らユダに寄り添って足を洗ったのです。ユダ自身はイエスと和解するために行動することができませんでした。しかし、イエスはユダの足を洗うことによってユダをもすでに許していると示したのです。
ヨハネによる福音書13章21節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」」25~27節「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。」イエスはユダが裏切ることを知っていながら、ユダの裏切りの結果殺されることになることを知っていながら、ユダを愛しユダの足を洗ったのです。なぜなら、サタン・悪魔が中に入っている、すなわち精神的に追い詰められて自分で自分のことをコントロールすることもできないユダのために、イエスから動いてユダと和解したのです。
私たちにもそういう時があると思います。原因がさまざまありますが、相手と関係が壊れてしまったことをすべての人が経験していますし、人によっては思い浮かぶ人がいるかもしれません。イエスは身動き取れなくなっていたユダを愛しているから自らユダに寄り添ったのです。私たちの持っている人間関係はどうでしょうか。自分の方が身動き取れる方でしょうか。逆に身動き取れなくなっている方でしょうか。自分が身動き取れる方であるのならばイエスのように相手の行為をちょっとだけ横において、その相手と寄り添い和解ができますように。自分が身動き取れない方だった場合、相手があなたに寄り添って和解ができますように。
