たとえ世界が敵に回っても

Gospel of John 2024  •  Sermon  •  Submitted   •  Presented
0 ratings
· 15 views
Notes
Transcript
2025年2月9日 杉並中通教会 公現後第5主日
ヨハネによる福音書15章26~16章4節
「たとえ世界が敵に回っても」山下ジョセフ
 
 本日の聖書箇所は、イエスが「ぶどうの木」のたとえ話を語った直後に語ったものです。「ぶどうの木」のたとえ話は、イエスがぶどうの木であり、私たちがイエスとつながっている枝であるという話でした。私たちは一人残らずイエスにつながっていますが、互いに愛し合うという実を結ぶことができない時には神が私たちの手入れをしてくださり、いつの日か私たちが実を結ぶこと忍耐強く手入れをしてくださるという話でした。このたとえ話を語った直後にイエスは言いました。ヨハネによる福音書15章18~19節「「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」直前のぶどうの木のたとえ話のように今回の箇所のテーマである「イエスを信じることは世界に嫌われることである」の意味を誤解するととても危険な箇所なのです。自分の持っている偏見や差別に聖書を利用して正当化している場合、このヨハネによる福音書15章18節から16章4節までの聖書箇所によって強化されてしますのです。なぜならその教会の持っている差別や偏見、例えば人種差別や女性差別や外国人差別を理由に世間から非難されていた場合、この箇所をそのまま引用するのです。そして、引用することによって私たちクリスチャンは正しいから世間から憎まれている、なぜならあなたたちはイエスが世から選び出した人たちだからであるという選民思想から自分の持っている差別や偏見を正当化するのです。しかし、キリスト教には「私たちと世の中は違う」という選民思想の居場所はありません。もし、キリスト教徒がイエス・キリストが人を選ぶような人物だと理解してしまうと、イエスがこの世界にやってきて人と共に生きた意味がなくなるのです。イエスは人と神の間にある壁、また人と人の間にある壁を破壊する方であり、壁を建てに来た方ではないのです。
 
 それでは今回の箇所のテーマである「イエスに従うものは世界に憎まれる。」この言葉はどのような意味があるのでしょうか。つい最近、イエスの道を歩み、イエスのみ言葉を語った方が世界を敵に回した出来事が起こりました。
 
先月の1月20日、アメリカ合衆国ではドナルド・トランプ大統領の就任式がありました。大統領就任式の翌朝は伝統的に礼拝を行います。そして、その礼拝は198年のレーガン大統領の時代から聖公会のワシントン大聖堂にて行っています。もちろん、トランプ大統領もワシントン大聖堂で礼拝をささげました。その礼拝ではワシントン大聖堂のマリアン・エドガー・バディ主教の礼拝メッセージもありました。バディ主教は穏やかな口調語りました。意見の違う者同士・支持する政党の違う者同士の一致を願い、人々が敵を愛し一致することによっていろんな個性を持っている人々が共に生き、すべての人が花開くように繁栄できる、そのような国を目指したいという内容のメッセージを語っていました。そして、メッセージの最後にトランプ大統領に懇願をしたのです。国に暮らしている人々に慈しみ、憐れみを持つようにと懇願したのです。トランプ政権の向かっている方向によって命の危険を感じている同性愛者やトランスジェンダーがいること、日々労働によって社会を支えている滞在許可を持っていない隣人たちがいること、追い出されてしまうかもと恐れている難民や移民がいることを。そして神が私たちにすべての人間の尊厳を尊重し、愛をもって真理を語る勇気と力を与えてくださいますようにと語りました。
 
さて、大統領就任した当日に、大統領の目から見た「外国人犯罪者」の追放、性別は男と女の二つしかないというトランスジェンダーの存在を否定する大統領令に署名しました。その大統領令によって恐れているトランスジェンダーの方や外国人の方がいることをバディ主教に指摘されたトランプ大統領は激怒し、主教のメッセージは「この自称主教は極左のトランプ嫌いであり。えげつない口調で語った」と公式の謝罪を求めました。また、バディ主教はこのメッセージを理由に、特に最後に語った大統領へ暮らしている人々に慈しみと憐れみを持つようと懇願したことを理由にたくさんの人にたたかれ、殺害予告も受けています。キリスト教会も他人事ではなく、「あの人は偽預言者だ」やバディ主教が女性であることを理由に「女性が牧師になると間違った聖書解釈をするから駄目だ」や「政治を宗教に持ち込むな」などと非難している人が少なくありません。ちなみに私もフェイスブックでバディ主教への支持を表明したら、知り合いのクリスチャンの何人かに非難されました。バディ主教はイエスの道を歩んだからこそ、互いに愛し合うことを実践し人々に語ったことによって世界を敵に回したのです。
 
残念ながらいつの世でも、差別や搾取や迫害や戦争や虐殺などの人の命を危うくする行為をやめるようにと声を上げると、反発が起こるものなのです。それだけではなく社会から追いやられたマイノリティに対して隣人愛をもって接すると反発が起こるのです。そしてこれはキリスト教会も他人事ではないのです。ヨハネによる福音書16章2節「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」この箇所は厳密にいうとユダヤ教のシナゴーグから追放されると語っている箇所ですが、現在の教会にも当てはめることができます。イスラエルによるパレスチナ人虐殺の支持、女性は男性に使えるべきという差別的思想、聖書を悪用してLGBTQIA+の人々への迫害。これらの人権侵害を2節でイエスが指揮しているように「これこそ聖書的であり、自分は神に奉仕しているのである」という正当化をしているのです。もちろん、私たちが同じことを行ってしまう恐れもあるため、「私たちのやっていることは神への奉仕です」と傲慢にならず、「互いに愛し合うことは何か。あの人に隣人愛を示すには何をすればいいのか」と自問をしながら、自分自身の行いがイエスの道に沿っているのか吟味しながら歩む必要はあります。
 
イエスの道・生き方を目指し、互いに愛し合うことを目指すと必ずと言っていいほど反発は起きますし、迫害が起こるリスクはあります。だからイエスは語ったのです。ヨハネによる福音書16章1節と4節「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」そして、私たちが人を愛するがあまり世界を敵に回してしまったときには、私たちを愛するがあまり私たちを放っておくことのできないお節介な神の側面である聖霊が私たちと一緒にいて私たちを通して神の愛を世界に示すのです。ヨハネによる福音書15章26~27節「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者(聖霊)、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」
 
私が牧師になるとき、どのような人をメインターゲットにしたいか祈り考えていました。教会はもちろんすべての人に開かれていますが、人によって自分自身の思いがある先があります。わかりやすい例としては、幼稚園や学校のある教会ならその幼稚園や学校に通っている子供たちとその家族がメインターゲットになります。
 
私の個人的なメインターゲットは教会によって傷つけられ、教会の外へと追いやられた人達です。残念ながら世の中には「神の御心だから」と信徒を搾取したり、「聖書の御言葉だから」と差別を正当化したりする教会が実際にあります。そのような教会の大きな特徴は父親が家長である家族第一主義であること、女性が男性の上に立つことは許されず、女性の役割は子育てという考え方を持ち、LGBTQIA+すなわち同性愛者やトランジェンダーの人たちは父親を家長とする家族第一主義を破壊する存在として断罪されています。杉並中通教会に集っていると「えっ?そんな教会があるの!?」ってなってしまいますが、むしろ今プロテスタント教会ではそのような教会に勢いがあり、日本にもどんどん輸入されてきています。
 
私自身、生まれも血筋もはみ出し者であり、性的指向やジェンダーもいわゆる普通ではありません。そんな私がイエスに一番救われたのは、イエスが共に食事をしたのが、娼婦や罪人、取税人、混血といった社会や宗教からはみ出し、追いやられていた人たちだったからです。イエスは社会から追いやられていた弱い立場の人たちと率先して生きていた方なのです。しかし、はみ出し、追いやられていた人たちと過ごしていたイエスは、権力者に疎まれ、捕らえられ、殺されました。イエスの道、互いに愛し合うことに基づいた生き方をすると権力者から疎まれ、命の危険が伴うことがあります。それでもイエスは人を愛することを辞めず、弟子たちも人を愛することを辞めず、今の時代まででも多くのクリスチャンが人を愛することを辞めません。私自身も、たとえ人に疎まれても人を愛しぬくことができるようにイエスの道を歩んでいけますように願っています。杉並中通教会も差別や抑圧を辞めたくない権力者から疎まれるほど人を愛せる教会へと成長されますように。人を愛することを辞めなければたとえ世界が敵に回っても神は私たちと共におられます。
Related Media
See more
Related Sermons
See more
Earn an accredited degree from Redemption Seminary with Logos.