被害者も加害者も
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2024年12月15日
杉並中通教会 アドベント第3主日礼拝
イザヤ書11章1~10節
「食物連鎖を砕く和解」山下ジョセフ
イザヤ書11章1節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち」エッサイの株と書かれていますが、エッサイとは紀元前10世紀ごろのイスラエル王国の王であり、のちの世代には偉大な王だと尊敬される存在であり、のちに北のイスラエル王国と南のユダ王国に分かれた後、北のイスラエル王国は何度もクーデターにあい王家が変わっていましたが、ユダ王国は紀元前6世紀に滅ぼされるまでの400年間という長い期間、ダビデの子孫が王でした。ちなみに今回の箇所の時代はユダ王国のアハズ王の時代と言われていますが、アハズはダビデから12代目の王となります。アハズの時代はユダ王国にとっては戦争の時代であり、北の現在のイラクあたりにある大国アッシリア帝国が現在のパレスチナ地方を侵略しようとしている状況であり、ユダとイスラエルを含む周辺の小国はアッシリアの支配下になるかそれともアッシリアと敵対して戦うか大きく揺れていた時代です。時代背景に関しては12月1日と8日のメッセージでもお話ししています。エッサイに戻りますが、ここではダビデの父エッサイの株と書かれています。この株とは切り株のことであり切り落とされた木の根っこの部分をさしています。なぜ切り株なのか、ユダ王国の権力者が完全に腐敗し、それこそ切り株のように国として死んでしまったことをイザヤが一言で表したのです。このことに関しては預言者イザヤと同じ時代に活躍していた預言者ミカの言葉から知ることができます。ミカ書6章9-12節「主の御声は都に向かって呼ばわる。御名を畏れ敬うことこそ賢明である。聞け、ユダの部族とその集会よ。まだ、わたしは忍ばねばならないのか/神に逆らう者の家、不正に蓄えた富/呪われた、容量の足りない升を。わたしは認めえようか/不正な天秤、偽りの重り石の袋を。都の金持ちは不法で満ち、住民は偽りを語る。彼らの口には欺く舌がある。」途中を少し省略してミカ書7章2-3節「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ/役人も裁判官も報酬を目当てとし/名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。」。このミカ書6章9-7章3節まで書かれているように、ユダ王国の不法行為によって私腹を肥やし、弱い立場の人々の生活を圧迫させ苦しめていたのです。預言者ミカはそのユダ王国の不正に関して具体的に語っていましたがイザヤは不正に満ちたユダ王国を切り落とされて死んだ木のようだと表現したのです。
イザヤ書11章1-2節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。」死んだ木から目が出て若枝に育ち、その上に主の霊すなわち聖霊がとどまります。これはイエス・キリストのことをさしています。まさしくイエスは十字架の死から復活した方であり、死を象徴する株から生えた芽がそのことをさしています。その方イエスは知恵と識別、思慮と勇気を持つ方なのです。しかし、イエスの700年前の時代に生きていたイザヤは、これは誰をさすのかいまいちわかっていなかったと思います。3-5節「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。」ミカ書に書いてあったユダ王国の現状を知ると、全く逆のことを書かれています。ミカによるとこの時代のユダ王国では役人も裁判官も不正を行い、権力者たちは私欲をもって語っていました。しかし、のちに来るこの方は正しい裁きを行い、貧しい人を公平に弁護し、不正を決して許さない方です。
イザヤ書11章6-8節「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」食物連鎖という言葉があります。辞書によると食物連鎖は「自然界における生物が、食う食われるの関係で鎖状につながっていること。」です。6-8節では狼や豹や獅子は羊や山羊や牛を襲い食べる動物です。これは自然の摂理であって当たり前なことなのです。しかし、神はイザヤを通してその自然の摂理の一歩先を語っているのです。強いものが弱いものを食べることなく、共に休んで共に育つ場所なのです。またイエスの世界では狼などの動物はいなくなるのではなく、羊のような弱い動物と共に生きることになるのです。人と人の関係も一緒です。神が世界を作り上げたとき、初めの人間同士の関係は完全に平等だったのです。しかし人が神の道を外した時、すなわち罪を犯したことによって人と人の関係は強者によって弱者を支配する構造になったのです。まず初めに男が女を支配・差別と搾取が始まりました。そして、世界に人が増えていくごとにその支配・差別・搾取の対象は他の人種や民族、心身に障害がある人々、男女とは異なるセクシュアリティのあるクィアな人々や同性愛者などの異性愛者以外の人々など社会的に弱い立場の人々・マイノリティが追いやられていったのです。そして富を持つものはその運用によってより富を集め、持たざる者は日々の生活さえも危なくなっていたのです。この話は決して2700年前のユダ王国の話だけではなく、現在の日本の状況でもあります
私たちが住む現在の日本の状況はどうでしょうか、行き過ぎた資本主義によって資産や財産をたくさん持っている人は富を少し動かすだけで富が増え、逆に資産などを持っていない人は物価の高騰と比べて収入は対して上がらず、また年々増えていく税金によってさらに生活が圧迫されています。そして国は防衛費をさらに増やすため、すなわち戦争をするための財源を確保するために増税を検討しています。しかし、表向きでは国の運営のためにより多くの税金が必要だと言いながら裏金によって私腹を肥やしていたのです。国というマクロな話以外でも、生活がままならない賃金で人を搾取する企業、闇バイトに手を出さざるを得ない貧困男性、性産業で働かざるを得ない貧困女性、年金では生活ができなくなってしまった高齢者、避妊や人工中絶の制限の強さや強制的夫婦同姓などいまだに根強い女性への差別と搾取、制度的・社会的差別を受けている同性愛者などのセクシャルマイノリティの人々、社会的にいまだに邪魔者扱いされ追いやられている障碍者、そして国が追い出そうとしている難民や移民の人々、そして恵まれていない立場の人に対して「自己責任」と切り捨てる。正に私たちの住む日本も力あるもの不正や不法によって弱いものが苦しめられる罪深い社会になっているのです。
イエス・キリストの救いに気づき、イエスに従い、イエスと同じ生き方を目指している私たちはどのようにすればいいのでしょうか。そのヒントこそが本日の箇所に書いてあると思います。イザヤ書11章9節「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。」聖なる山とは神の支配する場所であり、言葉を換えれば神が私たちと共におられる場所で。その神と共におられる場所では誰も危害を受けることなく、滅ぼされることのない場所です。なぜならそこでは神の知識、神の生き方を知ることができるからです。私たちはイエスの救いを知るものとして、弱い立場の人々を差別し搾取している権力者に対しては「その加害行為をやめて悔い改めるように」声を上げ続ける必要もありますし、逆に弱い立場に追いやられ生活もままならない苦しみの中で生きている人々にも神の愛をもって仕え、その方々を引き上げる必要もあります。なぜなら加害者が罪に気付いて悔い改め、被害者が癒され引き上げられることによって本当の意味で誰もが和解できる場所こそが神と共にいる場所だからなのです。不可能にも感じてしまう平和ボケの夢物語にも聞こえますが、私は神の力によって、イエスの十字架によって、聖霊の導きによって、人と人の間の弱肉強食の食物連鎖を砕くことさえ可能だと信じています。神には不可能はないですし、小さな種程度の信仰でも山は動くからです。
私が杉並中通教会の牧師として神と教会員の皆様に立てられたとき、牧師としてこの教会をどのような教会にしたいかを考えていました。杉並中通教会という東京の中心地や繁華街からちょっとだけ離れたこの場所で90年近く宣教している教会で何ができるか祈り考えていました。そこで与えられたのが週報祈祷課題にも毎週書かれている「誰もが安心して礼拝できる教会」です。この祈祷課題の「誰もが」は一人も例外なくもなくすべての人をさしています。社会の中で差別され搾取されている人たち、教会による搾取や差別によって傷つけられた人たち、逆にほかの人に加害や差別や搾取してしまった人たち、どのような立場の誰であっても杉並中通教会なら安心できる、日々の生活は辛いけど杉並中通教会へ来たらそのことを忘れられる、杉並中通教会なら誰にも加害されないし、誰も被害者にならない。そしてありとあらゆる立場のありとあらゆる人が共にイエスの十字架による救いに預かり、みんな一緒に神を礼拝できる。そのような教会を目指したいと願っています。もちろん課題はたくさんあります。それこそ私自身も誰かを無意識に加害したこともあれば、意識的に誰かを加害したこともありますし、いまだにやらかしてしまうことは多々あります。そして、私自身もイエスの道を歩く人となるために成長する必要がありますが、教会の皆様も一緒です。私たち一人ひとりが神によって成長し本当の意味でイエスのみ姿をすべての人に表せることができるように目指していきたいです。
最後にイザヤ書11章10節をお読みします。「その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」私たち一人ひとりが成長し、杉並中通教会がイエスの旗印としてたてられ、ありとあらゆる立場のありとあらゆる人たちが杉並中通教会は安心できる教会だと集まり共に神を賛美できる場所となれますように共に祈りつつ共に成長できればと願います。そして人々の和解によって神の栄光が輝く教会になれますように。
