時は来た

Gospel of John 2024  •  Sermon  •  Submitted   •  Presented
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2024年1月9日
杉並中通教会 降誕節第2主日
ヨハネによる福音書12章20~26
「時は来た」山下ジョセフ
 
 
 ヨハネによる福音書12章12~19節ではイエスのエルサレム入城に関して学びました。エルサレム入城はイエスが十字架にかかる1週間前、ロバに乗って入城しました。これは軍人は立派な馬にまたがって、多くの兵隊と戦争捕虜を連れて首都へ凱旋することに対抗して書いてある箇所です。人間の支配者は力によって上からの支配を行いますが、イエス・キリストは一般の人が運搬に使うロバにまたがり、人と一緒に働き、一緒に生きる方なのです。イエスは上から支配する神ではなく、横にいる神なのです。
 
 イエスがエルサレムに入場した後ある人々がイエスのもとへやってきました。ヨハネによる福音書12章20~21節さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。」イエスのもとにきたのは外国人であるギリシア人のユダヤ教徒だったのです。イエス時代のユダヤ教には人種的ヒエラルキーがあったのです、それはイスラエル民族は異邦人・外国人より上だというものです。例えば神殿の内側にはイスラエル人の庭というイスラエル民族の男性だけが礼拝できる場所があり、一番外側には異邦人の庭という誰でも礼拝をしていい場所があったのです。つまり、エルサレム神殿そのものに差別構造があったのです。実際に、イエスが鞭をもって神殿の庭で商売している人々を追い出した時、その場所は異邦人の庭であって、ユダヤ人の間では異邦人が礼拝できること以上に自分たちの商売の方が重要であるという差別から生まれた行動なのです。
 
 ギリシア人の人々はまず、イエスの弟子のベトサイダ出身のフィリポに話しかけました。なぜならフィリポはギリシア系のギリシア系の名前であり、人口が多いベトサイダ出身であるため、フィリポはギリシア系であったか、またはギリシア語を話すことのできる人物であるからだと推測できます。私たちも異国の地へ行ったとき自分と同じ言語を話せる人と会えると大きな安心を覚えます。同じようにこのギリシア人たちも先ほどロバに乗ってエルサレムへ入城したイエスのことを知りたいのですが、現地の言葉であるアラム語を話すことができず、フィリポに声をかけたのです。この箇所でわかることはイエスがエルサレムへ入城した後、一番初めに話しかけたのは外国人だったってことです。そもそも、イエスの弟子たちを含む多くの人たちの間ではイエスはユダヤ人だけの救い主であると思われていました。そしてローマ帝国の圧政から救う存在だと思っていたのです。しかし、イエスは世界すべての人の救い主としてこの世に来たのです。
 
 ヨハネによる福音書12章22~23節「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。」イエスは、訪ねてきたギリシャの人々と弟子たちに語り始めました「人の子が栄光を受ける時が来た。」イエスが栄光を受ける。これは何を意味するのだろうか。続けて学んでいきたいと思います。
 
24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」麦は、地に落ちて死ぬ、すなわち地中に埋められなければ新しい命が生まれない、イエスはそのようなことを語り始めました。
 
25節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」この箇所はよく誤解されてしまう箇所です。極論を言うと自殺を進めているようにも見えますが、それ以上に「自分自身のことを大切にしなくてもいい。むしろ大切にするな」という誤解を得てしまいます。そして、自分を大切にしなくてもいいようなニュアンスで語り、このような聖書箇所を悪用して信徒を搾取する牧師などもいるのです。むしろここはこの一節だけで解釈することは危険な箇所なのです。
 
26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」」先ほどの「自分の命を憎む人はそれを保って永遠の命に至る」という言葉に続いて「私に使えようとする者は、わたしに従え」と言いました。むしろイエスがここで語っていることは、何を優先すべきかの問題なのです。「自分自身の命を愛するもの」すなわち自分だけを引き上げる、自分のことしか考えていない身勝手さと「自分の命を憎む人」自分以上に他者を大事にし、弱い立場の人を引き上げようとする生き方をする人なのです。つまり、自分の命を愛するか憎むかはイエスのように生きなさいというメッセージなのです。
 
それでは、なぜ今回のイエスは生と死を強調して話したのでしょうか。ヨハネによる福音書12章31~33節「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」イエスが地上から上げられるとき、この表現はイエスが持ち上げられるときという意味であり、十字架にかけられて人の頭より高い位置につるされることを意味しています。すなわちイエスが1週間後に架けられる十字架を意味しているのです。そしてイエスの十字架を通して起こることが書かれています。
 
 イエスの十字架では、世が裁かれ、世界の支配者が追放され、イエスのもとにすべての人が引き寄せられます。人は神によって神に似た存在としてつくられ愛されていますが、自分たち人間の持つ欲望を達成するために神から離れ、強い人間は弱い人間を支配し搾取する世界となってしまいました。しかし、イエスの十字架の死を通してその支配構造がなくなること、すなわち人の罪による社会構造の破壊を語ったのです。そしてすべての人がイエスのもとへ引き寄せられる。つまり、すべての人への救いを語っています。イエスの十字架の死と復活によって私たちすべての人間は救われています。私たちクリスチャンである根拠は、イエスの十字架と復活による救いに気づきその気づきを信仰告白によって公表し、イエスの生き方を実践しようとしていることなのです。その根拠がイエスの十字架による死とイエスの復活なのです。
 
 来週からイースターまでイエスが十字架にかかる前夜について書かれているヨハネによる福音書の13章~19章より学びます。十字架の死へと向かうイエスの言葉と行いを通して十字架の意味を共に学び、教会として共に成長し、より多くの人々にイエスの福音、すなわちすべての人が満たされている平和、神が共にいる希望・神と人、そして人と人の間の真の和解、裁きが正しく行われる正義を、イエスの生き方を目指す私たちの言葉と行いによって伝えることができますように、祈りつつ共に成長できますように。
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