放っておかない

Gospel of John 2024  •  Sermon  •  Submitted   •  Presented
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2024年1月26日 杉並中通教会 公現後第3主日
ヨハネによる福音書14章15~21節 「放っておかない」山下ジョセフ
 
ヨハネによる福音書14章15~16節「「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」16節には文脈からも意味からもとても理解しにくい言葉があります。それは「弁護者」です。弁護者とはその名の通り、罪人の側に立ってその人を弁護する存在ですが、この箇所の文脈を考えると少し浮いている表現なのです。この、弁護者とは17節以降に書かれている「霊」すなわち「聖霊」なのです。「父・子イエス・聖霊」と言われているように聖霊とは神の側面のひとつであり神そのものです。この後イエスが聖霊に関して説明をするのですが、果たして「弁護者」が適切な言葉なのか疑問があります。この弁護者と訳されている用語はギリシャ語では「パラクレートス」と言われ、口語訳では「助け主」と訳されています。辞書によると他には、力強い味方、肩を持ってくれるもの、仲介者、安らぎを与えるもの、励ますもの、などのたくさんの意味があります。正直、日本語でこれだという単語のない用語なのです。このパラクレートスという難解な言葉の意味を考えながら進めていきたいと思います。
 
17節「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエスはまず初めにこのパラクレートス(弁護者)は聖霊であるといいました。キリスト教では三位一体の神といい、その三つの側面は天地創造をした父と呼ばれる神、人と共に生きた神イエス・キリスト、そして聖霊です。これは決して神が3人いるというわけではなく、すべて同じ神です。神が人と会う時にはたくさんの顔を見せてくださいますが、その中でも聖書で名前がある神の側面は父・イエス・聖霊なのです。だからこそヨハネの福音書でも神であることを強調するために「真理の霊」と呼んでいるのです。この霊を見ようとも知ろうともせず、受け入れないのはまさに弟子のユダが裏切るようにそそのかして、イエスを殺そうとしている宗教指導者たちです。また、イエスは弟子たちに言いました「あなたはこの霊を知っている」弟子たちはイエスと共にいるため聖霊を知っているのです。その霊はイエスが殺され、復活してに天に戻られた後も共にいるとイエスは語っています。
 
18節「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」小さな子供は世話をする人がいなければ生きていくことがとても難しいのです。小さな子供には家も食事も衣類も承認も自力で得る力が不足しています。イエスはこの話をした後、捕らえられ十字架にかけられます。すなわち弟子たちからイエスは急にいなくなってしまい、それこそ放っておかれたような状態になってしまいます。師匠のいなくなった弟子たちは、自分たちもイエスのようにとらえられてしまうと恐れ、逃げ出してしまいました。イエスは弟子たちが逃げ出すことを知っているため、安心させるために必ず帰ってくると約束したのです。それはイエスの復活を意味していますし、聖霊がやってくることも意味しています。それこそ、イエスがいない間に希望をもって生き抜くように励ましたのです。
 
19~20節「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」ここでイエスは復活しその40日後に天に帰られることを語っています。イエスの肉体を見えない時が来ることを語っています。しかし、その時でもイエスを生きており、人々の中に働いていることを、イエスの中に神がおり神がイエスの中にいる、同じように私たちにも神がおり、私たちが神の中にいる、共にいることを語っています。神が人の中にいる、それはイエスを実際に見た弟子たちの働きを見た人々がイエスを見ることになることを語っています。そして弟子たちを通してイエスを見た人たちを通してさらに多くの人々がイエスを見ることになるのです。それこそイエスの時代から2000年たった今でもイエスを見た人たちを通して人々がイエスを見ることができるのです。諸先輩のクリスチャンたちを通してイエスを見て、私たちの中に神がいる、私たちも神の中にいることに気づいたのが私たちクリスチャンなのです。今の時代肉体のイエスを見ることができませんが、イエスを見たクリスチャンたちの行いを通してイエス見ることができるのです。しかし、人々がイエスを見ることには条件があります。
 
21節「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」」イエスのおきてを守る人を通してイエスは表されます。つまり、イエスのおきてを守っている人を通して人々はイエスを見ることができるのです。それではイエスのおきてとは何でしょうか。本日の招詞でもあるヨハネによる福音書13章34~35節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」」私たちが互いに愛し合えばイエスの弟子であることをみんなが知るようになる。私たちが互いに愛し合うことによって周りの人々はイエスを見ることができるのです。教会とは様々な人が集う場所です。生まれも、育ちも、生きていた文化も、性格も、国籍も、人種も、年齢も、性別・ジェンダーも、性的指向も何もかもが違います。それこそ自分に内在する偏見・差別心などの罪によって、自分自身と考え方が違ったり、いわゆる普通じゃなかったりする人を排除しようとしてしまうことがあります。しかし、それはイエスの道を生きることと矛盾しているのです。しかし、人間同士の関係ではもやっとしてしまうこともあったり、不満を持つこともあったり、誰かの何気ない一言で傷ついてしまうことがあります。私が杉並中通教会の牧師として招聘された身としては、教会に集う皆さんすべてと信頼関係を構築し、間違った行為や人を傷つける何気ないひと言を注意でき、逆に私が間違っていたり、何気ないひと言で誰かを傷つけたりしてしまったりした時には注意される関係を願っていますし、また教会に集う人同士の関係に問題が起こった場合には間に入ってたとえ時間がかかっても和解へと導くことができるような働きをできたらと願っています。そのためにはもちろん私自身もより神に似た存在へと成長する必要があります。しかし、みんなで教会に集い共に成長をし、互いに愛し合い、祈りあうことのできる教会になることを目指したいと思います。そして、来た人がどのような人であっても否定されず、無条件に愛されることによって、イエスを見ることができるそのような教会を目指したいです。
 
さて、私たちが互いに愛し合うことによって人々はイエスを見ることができる、イエスを見ることによって自分自身の中に神・聖霊いることをに気づき、自分自身が神の中にいるということに気づくことできることを共に学びました。それでは、それと「弁護者」ギリシャ語では「パラクレートス」とどのような関係があるのでしょうか。パラクレートスとは弁護者や助け主、仲介者、安らぎを与えるものなどとを意味する言葉であり、神の一面である聖霊に対して使われた言葉なのです。そして、イエスはその文脈で「互いに愛し合いなさい」というおきてを守るように命令しています。人と人の関係は難しいものです。それこそ人が傷つけられたときの和解ほど難しいものはありません。そして和解がなければ愛し合うことはできないのです。その和解を行うために私たちの中にいる聖霊が代わりに働くからこそ聖霊は弁護者と呼ばれるのです。その弁護者は私たちを無条件に愛しており、私たち以外のすべての人も無条件に愛してくださる方なのです、そして弁護者に勇気を与えられた私たちが和解へと導かれるのです。これは決して無理に相手と和解しなさいと言っているわけではありません。例えば、いじめの最悪な解決方法は被害者と加害者を無理やり和解させることです。その行為は被害者をより傷つけるものです。明らかな被害者と加害者がいる場合は、被害者に何かをさせるのではなく被害者をケアする必要があります。そして、被害のことを知っている人たちは被害者を守る必要があります。しかし、残念ながら世の中では加害者の肩を持ちがちです。それこそ「加害者はもう反省しているから」などと無理やり和解させようともします。なぜなら弱い被害者を黙らせて我慢させる方が楽だからです。しかし、和解とはそのような軽いものではありません。真の和解とは加害者の方が加害によるトゲを一生背負う覚悟をもって、自分の行いを悔い改めて、被害者の傷が癒されるように、癒されるのであれば和解できなくてもよいと、むしろ自分が楽になるために和解を求めることは自分勝手な行為だと謙虚になり、そして被害者の癒しを求めて祈るのです。悔い改めてイエスの道を歩めば、神の御心のままに和解は必ず実現します。聖霊は和解へと私たちを導いてくださいます。
 
聖霊とは私たちの弁護者であり、助け主であり、仲介者であり、安らぎを与えるものであり、励ますものなのです。人を愛することができない私たちの変わって話してくださる弁護者であり、私たちに動く勇気をあたえてくれるように助け励まし、傷ついた時には私たちに安らぎを与えて癒し、私たちを真の和解へと導いてくださる仲介者なのです。ひと言でいうと、「私たちを放っておかないお節介な神」じゃないでしょうか。イエスが十字架にかかる前夜、弟子たちを放っておかないお節介な神の一面があることを語ったのです。私たちもそのお節介な神に気づき、互いに愛し合うことによって、誰一人放っておかない、すべての人を無条件に愛してくださるお節介な神がいるということ伝えることができますように。私たちの中にある聖霊を通して神の愛を示す福音を行うことができますように。
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