絶望の中で見える希望
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2024年12月8日
杉並中通教会 アドベント第2主日礼拝
イザヤ書7章10~17節
「絶望の中で見える希望」山下ジョセフ
紀元前734年ごろ、イスラエル王国とアラム王国の連合軍がユダ王国を攻撃したことによってシリア・エフライム戦争が勃発しました。(紀元前8世紀ごろのパレスチナ地方とアッシリア帝国に関する状況説明は先週のメッセージ参照ください)。この戦争の背景ですが、当時のパレスチナの北には巨大なアッシリア帝国があり、パレスチナ方面へ侵略を進めていました。イスラエル王国とアラム王国はアッシリアに対して明確な反発をしていました。しかし、ユダ王国のアハズ王は立ち位置を明確にしませんでした。そのことに不満を持ったイスラエルとアラムはアハズ王を失脚させ、味方になる新たな王を立てるためにユダ王国を攻撃したのです。イザヤ書7章1~2節にそのことに関して書かれています。「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライム(イスラエル王国の別名)と同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」この時は何とか追い返すことができたのですがイスラエル・アラム連合軍はいまだに包囲していました。その状況にエルサレムの人々は恐れおののいていたのです。その時アハズ王は包囲をどの程度持たせることかできるか確認するために貯水池へ向かいました。その時、神はアハズ王へ預言者イザヤを遣わします。そこで、神はイスラエルとアラムのたくらみは失敗するとアハズに言いました。5~7節「アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。」
続けて神はイザヤを通してアハズ王に言いました。イザヤ書7章11節「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」神はアハズにしるしを求めるように命令しました。これは専用によって恐れおののいているユダ王国の人々を安心させるためでした。しかし、アハズは従わなかったのです12節「しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」」イスラエルとユダには神から与えられた律法があるのですが、申命記6章16節の律法にはこう書かれています。「あなたがたの神、主を試してはならない。」一見すると、ここでアハズは神から与えられた律法を守る立派な人だと錯覚するのですが、そもそも神は人々を安心させるためにしるしを求めるように命令したのです。しかし、アハズには他の手段があったため神の命令を断ったのです。それは何だったのかは列王記下16章7~9節「アハズは、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに使いを送ってこう言った。「私はあなたの僕、あなたの子です。どうか上って来て、私に立ち向かうアラムの王の手とイスラエルの王の手から、私を救い出してください。」またアハズは、主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し、アッシリアの王に贈り物として送った。そこで、アッシリアの王はその願いを聞き入れた。アッシリアの王はダマスコに攻め上ってこれを占領し、その住民を捕虜としてキルに連れ去り、レツィンを殺した。」アハズは神に従うことをせず、大国アッシリアに貢物を送り、アッシリアはアラムの首都ダマスコを侵略することによって、イスラエルとアラムを撤退させたのです。歴史に「もし」を言うことはよくないことですが、もしアハズが神の言われたとおりにしるしを求めたのであれば、イスラエルとアラムは何もできないままに逃げ出し、戦争による被害を減らすことができなのではないでしょうか。しかし、アハズは神の道ではなく暴力による道を選んだのです。
アハズが神に従うことをやめたときにイザヤを通して言いました。イザヤ書7章13~17節「イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライム(イスラエルの別名)がユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」」この預言は、アハズがしるしを求めないことによって人々が安心できないため神自らが示すしるしに関して書かれています。神によるとアハズ王の妻に子どもが生まれ、その子が成長するときにはイスラエルとアラムに襲われることはなくなると語っていました。事実、数年後の紀元前733年にはイスラエル王国もアラム王国もアッシリア帝国によって滅ぼされます。アハズもイザヤも預言が成就されたと思ったのではないかと理解することができます。戦争という絶望的な状況の中で神は人々に希望を見せたのです。しかし、本日の聖書箇所はここだけで終わりません。
実は本日の聖書箇所に含まれているイザヤ書7章14節後半のみ言葉「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」は700年後のイエスの時代にも関係する言葉なのです。
マタイによる福音書1章18~25節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
これは、聖書に書かれているクリスマス物語なのですが、そこには本日の箇所であるイザヤ書7章14節の後半部分が引用されています。イザヤはこの預言を神から預かった時、まさか700年後のことを言っているとは思わなかったと思います。しかし、神はこの希望の言葉をユダ王国だけのものではなく全世界へ向けたものであるとイエス・キリストを通して示したのです。
インマヌエルは「神は我々と共におられる」という意味です。しかし、イザヤ書だけではインマヌエルは「神は私たちの味方」と理解してしまいますし、実際に「私たち」であったユダ王国意外とは神は共にいないことになります。しかし、この預言のインマヌエルをイエス・キリストだと理解すると「神はすべての人と共にいる」と理解することができます。イエス・キリストは絶望にあふれているこの世界に生まれた希望なのです。そのことを示すために、貧しい女性のマリアが未婚の時に身ごもったのです。いつの時代でもそうですが、貧しくて若い女性は性的被害を受ける可能性は決して低くありません、そして男性中心の社会では加害をした男性ではなく被害を受けた女性がなぜかたたかれます。実際に旧約聖書の律法では女性に加害をした男性は女性の父に罰金を払って女性と結婚すればおとがめなしですが、女性の場合いかなる理由であっても結婚前の性交渉は死刑に当たります。それこそヨセフがマリアとひそかに縁を切って路頭に迷わせることが正しい人のすることだと理解されていました。しかし、神はその一歩先を行っていたのです。神に励まされたヨセフは不貞を犯したと周りから後ろ指さされているマリアを妻にしたのです。つまりイエスは貧しい家に父親不明の子だと後ろ指をさされて生まれたのです。イエスは社会の低いところで小さくされた人と共いいたのです。そこにいた人たちは、罪を犯さなければ生活を守れなかった人たち、汚れていると社会から追いやられていた人たち、その日の食事にさえありつけない貧しい人たち、社会的強者から人間扱いされてなかった人たちだったのです。イエスは絶望が支配している人たちと共に生きている方であり、今でも絶望的な世界で生きている人と共に生きておられるのです。私たちクリスチャンはその希望に気づいている群れとしてこの絶望にあふれた世界に希望を伝えることができますように。インマヌエルは「神は私たちだけと共にいる」ではなく「神はすべての人と共にいる」です。
