唯一の神が与えられた賜物 人間劇つき
はじめ
人間劇:ひとりづつ賜物をいただきました。一人一人の反応はどうですか?
1人目: 恥ずかしくて使わなかったんです。
2人目: 他の賜物がほしかったから、自分の賜物を使わなかったんです。
3人目: 独りよがりにうぬぼれて賜物を使いました。
最後に良い結果になりましたか? 最後の結果は教会の中に分裂になってしまいました。
この事実は、パウロがコリントの教会で直面(ちょくめん)していた状況と同じであると言えます。コリント教会の人々は、神様の目的を成(な)し遂(と)げるために一致することより、周りからどう見られるかということばかりを気にした自分本位(ほんい)な群(む)れとなってしまったのです。パウロは分裂というのは誤(あやま)った行いで、神の教会においては分裂ではなく一致を教えようとしました。
I. 誤用(ごよう)と誤解(ごかい) 1節~3節
1) 歴史
コリント教会というのはパウロがプリスキラとアクラと共にコリントの人々に福音を伝える一方で天幕(てんまく)作りをしながら始めた教会でした。使徒の働き18章にはこの教会のはじまりとパウロが直面したいろいろな難しい問題について記(しる)されています。
コリントの人々は他の都市の人々に対して劣等意識(れっとういしき)を持っていました。コリントの人々は裕福(ゆうふく)で贅沢(ぜいたく)な暮(く)らしを送っていましたが、大変不品行な生活ぶりをしていたのです。アプロディーテーテンプルという寺院(じいん)がコリントにありましたが、そこは売春(ばいしゅん)の中心で1000を越(こ)える売春宿(はいしゅんたく)があったといわれています。不品行が絡(から)んだ富(とみ)はしばしば社会を八方(はっぽう)ふさがりにしてしまいます。アメリカのハリウッドを見れば分かります。これほどまでに品性を欠(か)いた都市はアメリカにはハリウッド以外にありません。コリントの人々も似(に)たような問題を抱(かか)えていたのです。
パウロは教会内のさまざまな分裂について書いています。3章でパウロは誰が教会の真(しん)のリーダーであるのかということをめぐる分裂について論(ろん)じています。真のリーダーはパウロだという者もいれば、アポロだという者もおり、またケパだという者もいました。パウロは、私たちはイエスとイエスの言葉に目を注ぐべきなので人間のリーダーが誰であるかは問題ではないと述べて彼らの考え方を正しました。洗礼を授(さず)けたのがパウロであれアポロであれ、それは重要なことではないのです。洗礼を授(さず)けた者に洗礼(せんれい)を受けた人のアイデンティティーがあるのではなく、キリストに従いキリストに栄光を帰すことのうちにこそ洗礼を受けた者のアイデンティティーがあるのです。パウロは誰が洗礼を授けたかという事から始まった分裂から、キリストのうちにこそ彼らのアイデンティティーがあるのだという一致へと人々を導きました。
パウロはまた同様に他の多くの議論(ぎろん)にも対処(たいしょ)しました。今日の学びではそのうちの一つ、霊的賜物という点を見ていきたいと思います。
2) 霊の賜物に関する事柄(ことがら) 1節~2節
1節でパウロは霊の賜物を理解すべきだと人々に教えることからはじめています。パウロがここで用いている霊の賜物という言葉は、エペソ4章やローマ書12章でも同様に用いられ人々にとって特定(とくてい)の意味をもつ言葉でした。パウロが使った1つ目の言葉は恵みという意味のギリシャ語からきました。これは神から私たちに与えられた恵みをさし、また私たちはこの恵みを受けるに値(あたい)することは何もしていないということを意味していました。霊の賜物は神の選びによって与えられるものなのです。パウロが使った二番目の言葉は文字(もじ)通り霊に関する事という意味のギリシャ語からきました。パウロのこの二つの語の用い方は、実際には同じことを意味することになったのです。一つは神の恵みを強調するのに対して、もう一方(いっぽう)の方(ほう)は聖霊の働きを強調(きょうちょう)するという微妙(びみょう)なニュアンスの違いはあります。しかし私たちに才能(さいのう)や賜物そして私たちの人生の歩みの中で聖霊が明確(めいかく)に働かれていることを考えるとこの二つの言葉は両方ともが聖霊による神の働きを指(さ)しているとわかります。それは神の教会が一致ときよさと成熟(せいじゅく)さの点で成長するためです。これが「霊の賜物」の意味するところです。
しかし、コリントの人々はこれらの霊の賜物を教会の一致のためではなく分裂のために用いてしまいました。2節でパウロはキリストを知らなかったころにしていたような振(ふ)る舞(ま)いをして簡単(かんたん)に道を外(はず)れてしまわないようにとコリントの人々に教えました。パウロは口もきけない偶像(ぐうぞう)によって彼らが路頭(ろとう)に迷(まよ)っていたことを思い出させました。詩編115:4~8にあるように、偶像は話もできず歩くことも他のどのようなこともできません。しかし、コリントの人々はこれらの偶像を礼拝することで他の者たち以上により霊的なレベルが高いと思われようとしたのです。使徒パウロは今の時代においても同じ過(あやま)ちに陥(おちい)らないようにと注意を促(うなが)しているのです。コリントの人々は霊の賜物をある霊的な権威(けんい)づけの手段(しゅだん)、つまり確(たし)かな霊的経験に対して立証(りっしょう)を決定づける唯一の道具として用いてしまっていたのです。言い換(か)えれば、ある賜物は他の賜物よりも価値(かち)があると考え、その賜物がその人物の霊的なレベルを示すものであると誤(あやま)って宣言(せんげん)していたのです。パウロはこれは目的でもなければ霊の賜物がもたらすものでもないと彼らに告げたのです。
3) 聖霊の真の働き 3節
パウロは3節で霊の賜物に関して鍵(かぎ)となる真実を教えています。霊の賜物は個人の霊的なレベルを測(はか)るために用いられるべきではありません。どんな霊の賜物であれ、人にその賜物が与えられているとすればそれはその人の内にある聖霊が素晴らしい働きがなされているという現実(げんじつ)を明らかにしているのです。聖霊がそれぞれにあった方法でその人を用いられるのだということがわかると神がどんな賜物であってもご自身(じしん)の霊を通して偉大なことを達成(たっせい)されるのだという驚くべき真理に目が開かれます。パウロは次のように言っています。『神の御霊によって語る者は、だれも「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。』
キリストを救い主として受け入れる前は、コリントの人々は様々な偶像(ぐうぞう)を礼拝していました。その中には多くの神々の名前を用いて呪(のろ)う儀(ぎ)式(しき)も行っていました。ですから教会においても地位(ちい)や力を得るために明らかにこれと同じやり方を用いる者がいました。もし誰かがキリストにおいて兄弟姉妹に呪いをかけるとするならその人は教会には属(ぞく)してはいませんし、またたとえそれがどんな霊的な賜物のように見えても本物とはいえないのです。しかし、もし御霊がその人を通して自(みずか)らを現(あらわ)されておられるかはその実で分かります。その実とは、その人がイエスは主ですと宣言するかどうかということです。パウロは重要なことはその人にどんな特別な賜物が与えられているかにあるのではなく、その人がイエスキリストを救い主であり主であると理解しているということだと教えています。これは霊的なレベルを問うものではなく霊的な命が宿(やど)っているかどうかを問うものなのです。
II. 多くあるけれど1つ 4節~11節
1. 様々な賜物
パウロは賜物について少し触れています。4節~11節では2つの重要な真理を教えています。一つは、賜物が種々(しゅじゅ)あるということ。そしてもう一つは、賜物は様々あるけれども聖霊は一つ、神も一つということです。
クリスチャンになる前の私は自信が持てず、自尊心(じそんしん)を高めるために特に人からの賞賛(しょうさん)を求めていました。イエスを通して神の驚くべき愛を知るようになってすぐ私は神の子どもとされたことの目的と価値(かち)というものを直感的(ちょっかんてき)に理解しました。ある日第一コリント12章を読んでいた時、7節特に11節が私の心に衝撃(しょうげき)を与えました。神は霊の賜物を与えておられますがそれは神の栄光のために用いるためで、しかもそれが教会の中で用いられるべきという文脈(ぶんみゃく)で語られていることが分かったときに私は変えられたのです。私は初めて自分が何者かということは重要なことではなく神の栄光のために私を用いようとされているその神が誰であるのかというほうが重要なのだと分かったのです。私に神が霊的な賜物を与えて下さったのはキリストの体である教会で用いるためだと分かりました。私は神が何かとても特別なものを私に与えて下さったという事実にいまだに驚きます。そのことを考えるとむねが高まってきますし、この心の高まりが決して離れないでほしいと思うのです。しかしながら、焦点(しょうてん)は私にあるのではありません。大切なのはイエスであってイエスがご自身の目的のために私を用いるという願いなのです。神は同様にあなたにも霊の賜物を与えておられるということをお気づきでしょうか?
聖書のいろいろな箇所からリストアップされた霊の賜物表をすでにお持ちと思います。この表にはそれぞれに短い説明書きが記されています。ですからここで改(あらた)めて定義づけすることはしません。むしろ、ここでパウロが私たちに教えている霊の賜物の特性に目を向けてみたいと思います。パウロはこれらの賜物の独特(どくとく)でかつ、様々な性質があることをまず示すことによって賜物の多様性を私たちに教えています。パウロはいろいろなタイプの賜物があることを明らかにするために三位(さんみ)一体(いったい)の象徴的(しょうちょうてき)な性質(せいしつ)を用いています。神は本質的に一つでありながら父と子と御霊の3つの人格を備えているのと同様に霊の賜物も唯一の神において一つとさせられているのですが、用いられ方は様々です。明らかにその人の性格や生まれつきの才能とは結びつかないような賜物もあります。しかしその人の性格や才能に結びつくような独特で力強い賜物もあります。
例えば、異言(いげん)の賜物があるからといって言語にたけているとは限りません。その人の言語能力と異言の賜物の間には何の関連もないのです。神はその人に生まれつきの才能とは必ずしも関連しているのではない大変独特な賜物をお与えになることがあるのです。ところが、教えるという賜物のある人がクリスチャンになる前から生まれつき教える才能に恵まれていることもあります。いったんキリストに対する信仰を持つと神はその人の才能を霊の賜物の領域(りょういき)に移(うつ)されるのです。これは教授法(きょうじゅほう)以上のことを意味するのです。聖書の知識(ちしき)を伝える能力すなわち聞いている人が明確(めいかく)に理解できるように教える事ができる能力を含(ふく)んでいます。この意味で、教えるという賜物は異言の賜物と同様に独特で力強く、そしてその人の才能や性格に関係しているのです。
また、私たちは様々な賜物に霊的なレベルづけを行なったコリントの人々と同じような過ちに容易(ようい)におちいりがちだということに注意を払わなければなりません。異言の賜物や知識の賜物、そして預言の賜物はとても劇的(げきてき)なもののように見えます。しかし、神の目から見るなら、特定の賜物が他の賜物に比べて重要であったり、パワフルだったりすることはないのです。私たちの生活の中でそれぞれの賜物が神の霊の恵みあふれる業(わざ)であることを示しているのです。使徒の働き6章1節~4節をみてみましょう。ステパノと他の者たちは聖霊と知恵とに満たされていたので食事の世話をするという務(つと)めに任命(にんめい)されました。神の言葉を宣言するのと同様に奉仕するということにおいても聖霊の働きが必要なのです。
2. すべての人の益となるために与えられている
霊の賜物の次の重要な特性は、それらがすべての人の益のために与えられているという点です。これらの賜物が与えられているのは私たちがキリストにある兄弟姉妹と比較(ひかく)して自分には特別なものが与えられているのだということを主張するためではなく、キリストにある兄弟姉妹を励ますためなのです。神は私に賜物を与えて下さいました。私は自分に与えられた賜物を誰か他の人がキリストにあって成長するのに用いていただくことができるのです。私に賜物が与えられたのは、いかに自分がすごいかを自慢(じまん)したり、なんて私は才能に恵まれているのだろうかとうぬぼれたり、才能にあふれた自分に酔(よ)ったりするためではないのです。二つのことを理解しなければなりません。一つ目は、才能というのは自分がたてあげたものではなく、キリストが聖霊を通して与えてくださったものであるということ。二つ目はその賜物はキリストが褒(ほ)め称(たた)えられるために周りの人のために用いられるべきだとうことです。賜物はキリストの教会の益のために私たちの人生を通して示された聖霊の現(あらわ)れなのです。
3. 同じ霊
さてパウロは賜物をいくつか列挙(れっきょ)していますが、これがすべてではありません。後にローマ書12章とエペソ書4章に加え第1コリント12章28節で他の賜物についても言及(げんきゅう)しています。しかしコリントの人々が誤って用いたものがあります。そこでパウロはその誤った用い方を率直(そっちょく)に論(ろん)じるために特にこれらの賜物について述べています。
次にパウロは11節でこの全節に対する鍵(かぎ)となる文章(ぶんしょう)で終えています。パウロはそれぞれの賜物を与える権限(けんげん)は神の霊であることを私たちに喚起(かんき)させているのです。パウロはそれぞれの賜物は同じ霊から来るのだと言うことで再び強調(きょうちょう)しています。誰がどの賜物を受けるのかということや一人の人が複数の賜物を受けるのかどうかということは神の霊が決めることなのです。どんな賜物が与えられているにせよその賜物をお与えになった神の霊こそが重要であるということです。御心に従って賜物を与えて下さる霊は一つ、御子は一つ、神は一つなのです。ある賜物にまさって別の賜物を用いて何か特別なことをすることはできないのです。同じ霊がキリストの体を建てあげるための賜物をお与えになるのです。神が与えられた賜物が何であれ独(ひと)りよがりにうぬぼれるべきではないのです。というのも自分で努力して得たものではないのですから。私たちは何が重要かを容易(ようい)に誤ってとらえてしまいがちです。自分に与えられた賜物と他の人の賜物を比較(ひかく)してしまうとポイントを逃(のが)してしまいます。神が私たちに賜物をお与えになったのは他の人たちと分かち合うためであり、またそれによってその人たちもまた神に栄光を帰するためです。最後に、私たちの内に分裂があるべきではありません。むしろ三位一体を模範(もはん)として一人一人がバラバラに存在するのではなく一つとされ驚くほどの一致に導かれるべきです。私たちの教会には様々な賜物がありますがそれも一つの御霊がそれぞれにお与えになったものなのです。もし私たちがその賜物を与えて下さった恵み深い神に焦点を合わせるなら、私たちは一つとされ、キリストの教会が成長するのを見ることができるのです。
結論
コリントの教会に宛(あ)てたパウロのメッセージから何が学べたでしょうか?パウロはもし私たちが私たちの生活を通して聖霊の現れを示すのであれば私たちがしっかりと心に留めなければならない4つの重要な事柄(ことがら)を教えています。
1) 一つ目は賜物を用いる場合、教会内の一致は最も重要です。私たちは賜物に優劣(ゆうれつ)はないことを理解しなければなりません。どの賜物も一つの霊によって与えられたものですからすべての賜物が大事なのです。神は私たちが希望する賜物を与えられるのではなく神がその人にふさわしいと思われる賜物を与えられるのです。神は私たちが自分自身を理解している以上に私たちを知っておられます!
2) 二つ目に神は様々な賜物を私たちに与えられました。そしてこれらの賜物はすべての人の益となるために用いられる必要があるのです。あなたがもしキリストをあなたの救い主として受け入れているならこの次の一節は聖霊があなたに1つあるいは複数(ふくすう)の賜物を与えておられるという約束を思い出すことを教えているのだという事を知る必要があるのです。自分自身に次のように尋(たず)ねてみましょう。キリストの教会の成長を助けるために私に与えられた賜物を神様はどのように用いることを望んでおられるのでしょうか。
3) 3番目は与えられた賜物を教会内で用いる機会を祈りをもって求めるべきです。霊の賜物の表はすでにお持ちですね。どんな賜物が皆さんに与えられているのか見つけるのに用いてください。今までにしたことのないような奉仕をしてみることも神様が与えられ、なおかつ自分も楽しんで出来るという賜物を見つけるのに役立つかもしれません。
4) 4番目に私たちは自分が他の人たちよりも重要だと思ってはいけません。また私たちは他の人よりも劣(おと)っていると考えるべきでもありません。私たちは謙虚(けんきょ)に仕えなければなりません。私たちは神の体で、一つの賜物が他に劣るわけではないのです。
キリストに栄光を帰すために神の霊が皆さんを用いる事に身をゆだねることができますか?お互いに一致団結して仕え合っていきましょう。そうすることによって、私たちは私たちを通して輝かれる神の栄光を見るようになります。また、周りの人は、私たちの間に愛があるのを見て私たちが神の弟子であることを知るようになるのです。
祈り
唯一の神様をほめたたえます。毎日の必要を与えて下さって感謝します。教会に励ますことが出来ますようにさまざまな例の賜物を与えてくださることを感謝します。どういうふに互いに仕えるためにその賜物を使えますように導いてください。それに謙虚(けんきょ)で一致が続けられますように守って祝福してください。お願いいたします。ありがとうございます。この祈りをイエス様の御名によって感謝してささげます。アーメン。