牛の突き棒で

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牛の突き棒で

"エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。
彼もまたイスラエルを救った。"
"エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛を追う棒でペリシテ人六百人を打ち殺した。
彼もまた、イスラエルを救った。" (2017)
1) ペリシテ人とは
2) アナテの子、シャムガルとは
3) 牛の突き棒とは
지난주에는 날씨가 많이 더웠습니다. 매일 37,8도인 날씨에 여러분은 건강히 잘 지내셨습니까?
旧約聖書39巻の中で7番目に士師記があります。
士師は聖書では「さばきつかさ」と書かれています(2:16)
この士師を簡単に説明すると
イスラエル人が、主の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えて、
主の怒りがイスラエルに燃え上がり、主がイスラエルを異邦人の手に売り渡された時に、
イスラエル人が主に叫び求めると、主はイスラエル人のために、救うひとりの救助者を起こされました。その人が士師です。(7−9節
士師記にはオテニエルからサムソンまで13名の士師が出ます。
今日は3章1節だけ読みましたが、3章には3人の士師が登場します。
9節にはケナズの子、オテニエル (7-11) 5節
15節にはベニヤミン人ゲラの子、左ききのエフデ (12- 29) 17節
そして、31節の アナテの子、シャムガル(31)です。
今日の本文、31節に出るシャムガルは1節だけ聖書に登場します。
士師の中で一番、短く書かれていますが
この士師、シャムガルを通して私たちは神様の働きをみることができます。
この31節には一つの民族が出てきます。それはペリシテ人です。
(31절에 하나의 민족이 나옵니다. 그것은 블레셋 사람입니다. )
1) では、このペリシテ人は誰ですか?
イスラエル人にとってこのペリシテ人はどんな人々だったでしょうか?
(이스라엘사람들에게 있어서 블레셋사람들은 어떤 사람들입니까? )
ペリシテ人とは南部(なんぶ)パレスチナのヨッパからガザまでの海岸平野(かい がん へい や)で,都市国家を築いた民族のことです。つまり、
イスラエルが出エジプトをする時が紀元前1250年ごろでした。この時にすでにペリシテ人はカナンの地で住んでいました。
(이스라엘이 출애굽을 할 때가 기원전1250년경입니다. 이때 이미 ペリシテ人は가나안 땅에 에 살고 있었습니다.)
エジプトにいるイスラエル人を指導者、モーセは神様の導きによってカナンの地、今日のイスラエルまでの旅程(りょてい)が書かれている出エジプト記に、このペリシテ人が出てきます。
(이스라엘 백성들을 하나님께서 가나안(カナン), 오늘날의 이스라엘의 땅으로 리더 모세를 따라 하나님의 도우심으로 이집트를 떠나 가나안으로 들어가는 내용이 出エジプト記に記されています。)
出エジプト記13章17節です。一緒に読んで見ましょう。
(이 출애굽기의 13장 17절에 ペリシテ人が 어떤 사람들인가를 알 수 있는 장면이 나옵니다. 같이 한번 읽어 보겠습니다.)
さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」
エジプトからカナンに向かうイスラエルの民が近道ではなく遠い道に通ってカナンに入った理由をここで説明しています。
(애굽에서 가나안へ 향하는 이스라엘 백성들이 カナンに 들어가는 가까운 길을 놔두고 먼 길로 돌아가게 된 이유를 이렇게 설명하고 있다.)
彼ら、すなわち、ペリシテ人がその近道に住んでいたからだと神様は言われました。彼らとの戦いで破れるからではなくて、イスラエルの民が戦いを見て、心が変わって、エジプトに帰ろうとする心配があったからです。まだ、戦っていないのに、すでに心の中では負けてしまったからです。それで、神様はカナンの地にいく他の遠い道に導いてくださいました。
(그들 즉, ペリシテ人が 거기에 있기 때문이라고 하나님은 말합니다. 이 전쟁에서 지기 때문에 라는 표현이 아니라 이 전쟁을 보면 마음이 바뀔 것이다라는 것이다. 아직 싸워보지도 않고 이미 마음은 진 상태가 되어버린다는 것이다. 이것을 염려한 하나님이 다른 길로 돌아가는 먼 길로 인도해 주셨다. )
このようにペリシテ人はイスラエルにとっては恐ろしい存在でした。
(このようにペリシテ人は 이스라엘에게 있어서는 두려운 존재(恐ろしい対象)였다. 이것을 알 수 있는 말이 「民が戦いを見て、心が変わり」라고 말하고 있습니다. )
そのような恐ろしい存在であるペリシテ人が今日の本文に出てきます。
(그런 두려운 존재인 ペリシテ人 오늘 읽은 본문에 나옵니다.)
戦わなければいけない相手があまりにも大きくて、戦う前に諦めてしまうそのような相手でした。
(싸워야 할 대상이 너무 커서 싸우기 전에 단지 보는 것 만으로 포기해 버리고 싶은 그런 대상 말입니다.)
私たちも私たちの前に置かれている問題はペリシテ人のように戦うことは、相手にすることは不可能なものだと思い込み「私にはできない」と諦めたことはないでしょうか?
(우리도 우리 앞에 놓여있는 문제 앞에 싸워보지도 않고 나는 안돼, 불가능하다고 포기한 적은 없습니까? )
本文に戻ります。
イスラエルの民が恐れているペリシテ人の前に一人の人が出てきます。
(이런 상황가운데에서 주목해야 할 한 사람을 소개하겠습니다. )
2) アナテの子のシャムガルです。彼は誰ですか?
イスラエル人が恐れているペリシテ人に一人で戦う人が出てきます。10人でも100人でもありません。600人です。そのペリシテ人六百人をシャムガルは打ち殺しました。彼はどんな人だからそれが可能だったでしょうか?
(이스라엘이 두려워하는ペリシテ人 혼자서 싸워 이기는 장면이 나온다. 10명도 100명도 아닙니다. 오늘 읽은 성경에는 몇 명과 싸웠다고 말하고 있습니까? 600명을 혼자서 싸워 이겼다는 것이다. 과연 그는 누구인가?)
① 彼の父の名前はアナテです。 聖書にはシャムガルを紹介する時にアナテの子、シャムガルと言っています。聖書に出る人の名前が全部、カタカナで書かれているので理解するのは難しいと思いますが、名前には特別な意味が含まれている場合が多くあります。
② 例えば
士師記の次の聖書であるサムエル記のサムエルは「神の名」という意味を持っています。
サムエル:神の名 사사기 다음에 나오는 성경이 사무엘 상,하인데 여기에 나오는 사무엘이라는 이름은 하나님의 이름이라는 뜻을 가지고 있다.
そして、イスラエルの預言者であるエリヤという人の名前の意味は「主こそ神である」という意味です。
エリヤ:主こそ神である 이스라엘의 유명한 선지자인 엘리야의 이름이 주님이야 말로 하나님이다 라는 뜻을 가지고 있다.
また、預言者エレミヤの意味は「ヤハウェ(主)は高められる」という意味を持っています。
エレミヤ:「ヤハウェ(主)は基礎づける」あるいは「ヤハウェ(主)は高められる」눈물의 선지자라고 불려지고 있는 예레미야는 하나님이 높아지리라 라는 뜻을 가지고 있다.
私も5人の子供の名前を「하늘,나라,임하라,나우,임하내」にしましたが、これを日本語でいうと
「天国(御国)が来ますように今、ここに」という意味を持っています。この名前で家族が神様を信じる家族であることがわかるようになります。
このように神様に関連がある名前がたくさんあります。では、シャムガルの父であるアナテにはどんな意味があるでしょうか?
(이처럼 하나님과 관련된 이름들도 있는데シャムガルの父であるアナテには 어떤 뜻을 가지고 있을까? )
イスラエルを救う士師の父なのでその名前には神様に関連がある意味を持っているのではないかと考えられます。
(이스라엘을 구원하는 사사이니까 그 이름이 이스라엘을 구원하신 하나님과 관련된 특별한 의미를 가지고 있을까? )
しかし、彼の名前は神様とは全然、関係がない名前でした。かえって、アナテとはカナンの神、「戦いの女神(め がみ)の名」を意味します。
(그런데 놀랍게도 그 이름은 이스라엘의 하나님과 관련된 것이 아니라 전혀 다른 나라의 신과 관련된 이름です。アナテという意味は「戦いの女神の名」を意味する言葉です。)
その名前をカナンの神、偶像の名前にすることは何を意味しますか?
シャムガルの父は異邦人の神に仕えた人だと思われます。だからシャムガルは子供の時から、偶像の神に対していろんな面で影響を受けざるを得なかったと思います。
言い替えれば、彼の家ではイスラエルを救うことができる士師が出てくるはずがない、
人間的な観点からみると不可能だということでした。
(言いかえれば(다시 바꾸어 말하면) 彼の家では이스라엘을 구원할 만한 거룩한 믿음의 사람이 나오는 것이 인간적인 관점에서 보면 불가능하다는 것입니다. )
しかし、そのような家庭から、イスラエルを救う士師が出てきました。
神様はその状況の中でもシャムガルを用いてくださいました。
이런 전혀 하나님에 대한 믿음이 없는 가정에서 어떻게 이스라엘을 구원하는 사사가 나올 수 있을까요?
私たちはこの御言葉を通して、神様はどんなところからでも、神様のために働く人を起こしてくださるということがわかります。
(우리는 이 말씀을 통해서 어떠한 곳에서도 하나님의 역사는 이루어지고 하나님의 사람은 나올 수 있다는 것입니다.)
私たちは自分や家庭の状況を見て私は無理、できないと思うのではなくて、
にもかかわらず、神様を期待することができることを聖書は私たちに教えています。
(우리가 자신의 현재의 상황과 家의 상황을 보고 안되라고 생각하는 것이 아니라 그럼에도 불구하고 역사하시는 하나님을 기대할 수 있도록 성경말씀은 우리에게 말씀하고 있습니다.)
3) 牛の突き棒とは何なのか?
シャムガルが戦いに使ったものは立派な武器(ぶき)ではありませんでした。彼は兵士でもありません。
(シャムガルが 싸움에 사용했던 것은 立派な武器(ぶき)가 아니었습니다. 또한 シャムガルは 군인도 아니었습니다. )
「牛の突き棒」に翻訳されたמלמדという単語から私たちは、彼は戦争のために訓練してきた人ではないということです。シャムガルはただの平凡な農夫だったと思います。
(「牛の突き棒」に翻訳された ‘말마드’ מלמדという表現から 우리가 알 수 있는 것은 그는 처음부터 전쟁을 위해 준비된 자가 아니라는 사실입니다. 어쩌면 그는 평범한 농부(平凡な農夫)였을 것입니다. )
農夫であるシャムガルは「牛の突き棒」をよく使う人だと思います。ところが、ペリシテ人が攻め込んで来て、イスラエルの民を苦しめることを見た時、もしくは自分のところまでペリシテ人は来ました。
他の人々は恐れて逃げているのに、シャムガルはそのようにはしませんでした。
(그는 항상 「牛の突き棒」(말마드)를 사용하는 사람이었을 것입니다.그는 그것을 그 무엇보다도 가장 잘 사용할 줄 아는 사람이었을 것입니다.ところがペリシテ人が쳐들어와 이스라엘 백성을 괴롭히는 것을 シャムガルは보았을 것입니다. 어쩌면 자신의 농사짓는 땅에도 왔을 것입니다. 보통 사람 같으면 두려움으로 도망치기에 바빴을 텐데 シャムガルは 그렇게 하지 않았습니다. )
そのシャムガルを神様は用いてくだいました。シャムガルに神様が共におられ、ペリシテ人600人を撃ち殺すことができました。
(그것은 하나님께서 シャムガル을 사용하신 것입니다. シャムガル는 도망가지 않았습니다. 그 삼갈에게 하나님이 함께 계셨고 블레셋 군사 600명을 물리칠 수가 있었습니다.
하나님은 그를 통해 イスラエルを 구원하시기로 작정하시고 행하신 것입니다.)
シャムガルの手にあるものは武器(ぶき)ではありませんでした。
彼の手にあるものは「牛の突き棒」だけでした。
しかし、神様は彼の手にあるものを用いてくださいました。
神様は私たちが持っているもの、それを神様の働きのために用いてくださいます。
(神様は우리가 늘 사용하는 그것 우리가 가지고 있는 그것을 하나님은 전혀 다른 각도로 사용하시는 것을 볼 수가 있습니다.)
出エジプト記で神様はモーセに言われます。出エジプト記 4章2節
"主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」"
モーセはその杖を持ってイスラエルの民をエジプトからカナンの地へ導きます。
(모세는 그 지팡이를 가지고 이스라엘을 エジプトから구원하는 자가 됩니다.)
今日も主は私たちに言われます。「あなたの手にあるそれは何か?」小さいもののように見えても神様がそれを大いに用いてくださいます。
(우리들이 가지고 있는 것은 무엇입니까? 우리가 가지고 있는 것을 볼 때에 それは하나님을 위해서 사용될 수 없다고 생각할지 모르지만 그것을 하나님은 들어서 사용해 주십니다. )
大事なことは、私たちができないと諦めないことです。神様は私たちが持っているそれを使って神様の栄光を現してくださいます。
(우리가 할 수 없다고 포기하고 있을 때 하나님은 아니다 네가 가지고 있는 그것으로 너는 할 수 있다는 것입니다. 다른 무엇을 쥐어주는 것이 아니라 지금 가지고 있는 그것으로 하나님께서 놀랍게 사용해 주신다는 것입니다. 우리는 무엇을 가지고 있습니까? 그 가지고 있는 그 것을 통하여 하나님의 기뻐하시는 일에 사용될 수 있다는 것입니다.)
私たちは考えます。できれば神様に用いられるためには、もっとたくさんの聖書の知識が必要である。もっとたくさんの準備が必要である。その後に神様に用いられるのではないかと。今ではないと、
(우리는 생각할 수 있습니다. 기왕이면 하나님께 쓰임 받기 위해서 더 많은 성경 지식이 필요하다. 더 많은 준비가 필요하다. 충분히 준비가 다 된 후에 라야 쓰임 받을 수 있다고 생각합니다. 또는 예수님을 믿을 때에도 예수님에 대해서 더 많이 알고 내 생활을 다 바뀐 후에 라야 가능하다고 생각할 수 있습니다.)
しかし、
私たちが弱いからこそ、神様は私たちの力になってくださいます。
ダビデはこのように歌います「詩編18編1節」
「主、わが力。私は、あなたを慕います。」 主は私たちの力になってくださいます。私たちを通して神様のみわざを成し遂げてくださいます。だから私たちは全て、神様が成されたと告白することができます。神様はこのようになることを期待し、喜んでおられます。
(그러면 누구의 힘으로 행하게 되는 것일까요? 그것은 자기 힘으로 행하게 되는 것입니다. 그러나 우리가 도저히 나의 힘으로는 불가능하다고 느끼는 그 때에 하나님께서 우리를 통해 일을 이루어 주실 때 이 일을 이루신 분은 하나님이라는 고백을 할 수가 있게 되는 것입니다. 또한 그렇게 되기를 하나님은 기뻐하십니다.)
(그래서 지금이 아주 중요합니다. 제 4番目の娘名前がナウです。これは英語で日本語の意味は「今」です。 이름 대로 모든 것을 지금 하지 않으면 안되는 성격입니다.)
週報に書かれている三つのポイントです。
1)「ペリシテ人とは」外的な問題です。戦うこともできずに、恐れていること。今まで経験していないので心配して進めないことを意味します。
1) ペリシテ人은 외적인 문제입니다. 싸워보지도 않고 두려워하거나 지금까지 경험해 보지 않은 것이라고 겁내하는 것입니다.
2)「アナテの子のシャムガルとは」内的な問題です。こんな私に何ができるのかと思うことです。「神様!私はできません。他の人を用いてください。」ということです。
しかし、神様には外的なことも内的なことも問題にはなりません!
2) アナテの子のシャムガル은 내적인 문제입니다. 이런 내가 무엇을 할 수 있느냐는 것입니다. 하나님 저는 할 수 없습니다. 「다른 사람을 사용해 주소서」と 말하는 것입니다. 하지만 하나님이 외적인 문제도 내적인 문제도 하나님께는 문제가 되지 않습니다.
3)「牛の突き棒とは」今、持っているものを神様は用いてくださるということです。それがどんなものかは問題になりません。私たちが従順に従う時、神様はそれを用いてくださいます。神様の御国のために用いてくださいます。
3) シャムガルが牛を追う棒을 가지고 있었고 그것을 사용하셨던 것처럼 네가 가지고 있는 그것을 사용하겠다고 神様は말씀하십니다. 우리가 겸손히 순종을 할 때 하나님은 그것을 들어서 하나님 나라를 위해서 사용하십니다.
神様を信じること、従うことは、この世の価値観とは違うからです。
コリント人への手紙 第一1章27節
"しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。"
そうです。神様は「この世の弱い者を選びました。私を選びました。」
私は弱い者でした。今もそうです。
私は、高校時代には教室の前に出て、みんなの前で話すことは恥ずかしくて、できませんでした。
自身もなく、人生の目的がただ、いい大学に入って、いい会社に入社して暮らすことが全部である人生でした。
私が韓国を離れて、海外へ行って生活をすることは考えられませんでした。
しかし、主イエスに出会ってから人生が変わりました。
大学生の時にCCCに出会い、イエス様と共に生きる喜びある人生の生き方を知りました。弟子訓練も受けなした。
それで、人生の希望が見えてきました。夢を持つようになりました。
私のような弱いものも神様が用いてくださるという喜びがありました。
私は22年前に、宣教団体に入り、日本(東京と大阪)そして中国で宣教活動をすることができました。
中国人や日本人の前で賛美をし、証やメッセージをしました。
これら全ては私が主、イエスを信じる信仰があるから可能なことでした。
私の身に起こったことを振り返ると、全てが神様の恵みでした。
自分の力でできたのは一つもありませんでした。
今日の御言葉の最後に部分にはこのように終わります。彼もまた、イスラエルを救った。
(오늘의 말씀의 31절 끝부분이 이렇게 글을 마무리 하는 것을 볼 수가 있습니다. 彼もまた、イスラエルを救った。)
神様はそのシャムガルを覚えてくださって、聖書にも記録してくださいました。同じように神様は私たちの従順を覚えてくださいます。
사사기의 편집자는 삼갈을 잊지 말라며, “그도 역시 이스라엘을 구원하였다.”고 말합니다. 하나님은 기억해 주시고 성경에 기록을 해 주신 것입니다. 우리의 조그만 순종과 섬김을 하나님은 기억해 주시고 우리에게 말씀해 주실 것입니다.
適用をする時間
「牛の突き棒とは」私が持っているものは何か?皆さんが持っているものはなんですか?この私の小さいものを神様、用いてくださいと祈りませんか?
분당우리교회の이찬수先生のメッセージの中にこのような内容がありました。
神様がなぜ、このようなことを要求するのか我々は、その深い御心を知ることはできません。しかし、私たちが神様を信頼するのであれば、その道が幸せな道、喜びの道なので要求することだと信じます。
(-이찬수 목사님- 분당우리교회 - 하나님이 왜 이리 고리따분한 것을 요구하냐면우리는 하나님의 깊은 뜻을 모릅니다. 그런데 우리가 하나님을 신뢰한다면 그 길이 행복이기 때문에 요구하는 것이라고 믿습니다.)
착하고 충성된 종아
[マタイの福音書25章21節]のみ言葉で今日のメッセージを終わりたいと思います。
"その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』"
5タラントを預かったものも、2タラントを預かったものも主人は同じくほめています。
わずかな物に忠実(ちゅうじつ)でありたいと願います。神様の喜びを共に喜ぶものなりたいと願います。
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