Mary's Magnificat 『賛歌』のマリア

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    I.      はじめ ①ルカの1章46節~55節を読みましょう。祈る

 私たちの人生は時々興味(きょうみ)深い道をたどるものです。私たちは一生懸命に考えて自分の進むべき道を決めます。例えばよい仕事を得るために大学に進学(しんがく)します。ところが、ときとして、自分ではコントロールすることができないことが起きてしまいます。自分がどのように生きるかということや自分の愛する人に影響を与えるような驚くことが起きるのです。時々そのような出来事は現実の話のように思えないことがあります。私は先日雑誌(ざっし)を読んでいました。そこには、バングラデッシュにあるキリスト教の高校で働くあるクリスチャン教師の物語(ものがたり)が掲載(けいさい)されていました。ある日突然(とつぜん)、イスラム教のテロリストたちが学校を襲撃(しゅうげき)し始めたというのです。彼女は祈ることしか出来ませんでした。

 また他の状況でいえば、突然の出来事ではあるけれども幸せな結果をもたらすようなことが起きることもあります。たとえば、私がローナと出会った時のような場合です。ローナは、病院にいる祖父(そふ)に会うために大学から家に戻ってきました。そしてお母さんと一緒に教会にきたのです。日曜学校の学びの終わりの時間にみんなに祈るために2人組(ぐみ)に分かれるように呼びかけました。その時、私はローナとペアになったのです。これが私がローナと出会った初めての瞬間(しゅんかん)だったのです。これは、突然(とつぜん)の出来事ですが、とても喜ばしい出来事です。

 明らかに、ある出来事は、他のものに比べて対応(たいおう)しやすいものです。しかし、大切なことは、人生で起きるすべての出来事に対して私たちがどのように対応(たいおう)するかということなのです。さきほどのバングラデッシュの教師は、銃弾(じゅうだん)が飛び交(か)う中、生徒たちに机(つくえ)の下に隠(かく)れるように指示(しじ)し、「私たちは神様のご意思(いし)の中にいるのです。神様以外により安全な場所はありません」と告げたのです。これこそ震(ふる)えるような状況下(じょうきょうか)にあってなされた正しい応答(おうとう)です。物理的(ぶつりてき)には安全だとは思えなかったでしょうが、霊的な点から見るならば平安だったのです。そしてそのことの方が重要なのです。

 クリスマスをお祝(いわ)いする時、私たちはマリアの突然起きた驚くべき出来事についての物語を読むのです。マリアは自分の身に起きた出来事を自分でコントロールすることはできませんでした。しかし、マリアは他の人に自分がどう思われるかということよりも神様のご意思(いし)の中に自分の身を置くことのほうが大切であると理解していました。神様に対するマリアの応答は、讃美の歌でした。ルカの1章46節~48節を読みましょう。

   II.      神への讃美 46節~48節

A.    マリアの歌の内容

 この箇所はマリアの心からの讃美の歌です。マリアの心は彼女の身に起こる神様のみ業を思い大きく揺(ゆ)り動(うご)かされていたことでしょう。しかし、マリアの応答は神様の召しに対して従順であっただけでなく、心からの讃美をも宣言していたのです。マリアは天使ガブリエルの知らせを聞きました。ガブリエルは、マリアが世界を救う方、インマヌエル、すなわち神われらと共におられます方を身ごもるものとして選ばれたのだと伝えたのです。もし、私がマリアであったなら、できるだけ早くその場から逃げてしまっていたことでしょう。自分が男だからというのではなく、私には荷(に)が重過ぎると思えるからです。ところが、マリアはというと、ひとたび自分が神に選ばれたのだと悟(さと)ると、次のように応答したのです。1章38節「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どうりこの身になりますように。」それからマリアはエリサベツを訪問(ほうもん)します。エリサベツは胎内(たいない)にいる子であるバプテスマのヨハネはマリアの挨拶(あいさつ)の言葉を聞いて踊(おど)ったというのです。また41節には、エリサベツはマリアに挨拶をしたとき聖霊に満たされたと書かれてあります。

  エリサベツの次の発言(はつげん)は興味深いものです。一緒にルカ1:42~45を読みましょう。み使いによって語られたことを信じたマリアをエリサベツが励ました後すぐにマリアは賛歌を歌い始めます。マリアはためらうことなく歌い始めるのです。マリアはすぐさまエリサベツのもとに行きましたが言葉は必要ありませんでした。エリサベツも胎内(たいない)の子どもが踊ったことで、神様がマリアの身の上に素晴らしいことをなされたのだと悟(さと)りました。マリアもこのことを理解し、讃美の歌が自然とマリアの応答となったのです。この2人の女性の人生そのものが驚くべき出来事でした。ここでこの素晴らしい歌をみてみたいと思います。この歌は『賛歌』と呼ばれています。

B. 讃美の言葉 46節~47節

  マリアの口から出たこれらの讃美の言葉はマリア自身が即座(そくざ)に生み出した言葉ではありません。これらの言葉はサムエル記2章1~10節のハンナの祈りとよく似ています。この2つの祈りを比較(ひかく)すると似通(にかよ)ったテーマと考え方を見ることができます。ハンナは子供を身ごもりたいと強く願う不妊(ふにん)の女でした。ハンナは何年もの間待ち続け、そして神様はハンナに子供を授(さず)けられました。身ごもるということがハンナの応答でした。状況がかなり異(こと)なっているにもかかわらず、マリアがハンナの讃美を自分の讃美の歌を導くものとして選んだということは大変興味深いものがあるとわたしは思うのです。この女性たちは神様の驚くべき恵みを味わったのです。マリアは15歳という若さにもかかわらず、この超自然的(ちょうしぜんてき)な出来事が彼女に訪(おとず)れた時にこの歌を選ぶことができるほど旧約聖書について揺(ゆ)るがない知識を持っていたのです。このような状況が私たちの身の上に起きる時私たちは果(は)たして神様の言葉が湧(わ)き出てくるでしょうか?

  マリアは同じ点を再び強調するために似たような言い方で讃美の歌を始めます。ルカの1章46~47節でマリアはこういうのです。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」たましいとは、人が何かを決心したり、感情が沸(わ)き起こる内なる精神的(せいしんてき)な部分を指します。霊とは人の永遠なる部分を指しています。ここでの使われ方はこの2つの部分の違いを明確(めいかく)にしようというものではありませんが、マリアはマリアの最(もっと)も深い部分が主を褒(ほ)め称(たた)えているということを強調したかったのです。このことは使われている動詞(どうし)からもわかります。「あがめ」というのは、神様をそのふさわしい地位にまで高く掲(かか)げるという内なる視点(してん)からくる言葉です。「よろこぶ」とは、その讃美という捧(ささ)げ物が外へ向かっていることを意味します。その文字通(もじどお)りの意味は、想像(そうぞう)を遥(はる)かに超(こ)えた喜びのしるしとして喜び踊(おど)るということです。この「よろこぶ」という言葉は、歌や踊(おど)りの中で興奮(こうふん)を表す時によく使われます。ですからマリアの内なる人も讃美が沸(わ)き起こり、あふれ出たことが行動としてあらわれたのです。

  マリアは彼女の神に讃美を捧げています。興味深いことにマリアは神様を主と呼んでいます。彼女の内にある子供と関係付けて、神様を救い主とも呼んでいます。これは、マリア自身でさえも救い主が必要であるということを私たちに教えているのです。マリアはこの賛歌を神様に対するふさわしい呼び名すなわち、神様は主であり救い主であるという名前で締(し)めくくっているのです。これは、自分が神の子を宿(やど)したことに対するマリアの応答であり、そしてまたマリアのいとこのエリサベツの信仰深い従順さの真実(しんじつ)の宣言に対するマリアの応答でもあったのでした。マリアは讃美の理由を挙(あ)げながら賛歌(さんか)を続けます。

C.    讃美の理由 48節

  マリアは、当時の社会の中では一目(いちもく)置かれるような存在ではないパレスチナのごく普通(ふつう)の田舎(いなか)娘(むすめ)でした。マリア自身、自分が社会の中でも低い身分にあるとよく理解していました。彼女はまた神の御前にある自分の立場というものも理解していました。ところが、マリアは社会からさげすまされることになろうとも神様に従うことを選んだのです。そして自分の身に起きたことが理解できた時、自分の地位が変わったと告(つ)げました。神様は身分の低い田舎娘を選び、どんな社会をも与え得ない身分をマリアにお与えになったのです。マリアは神様の母であり、世界を救う救い主の母であるのです。マリアの宣言は真実なものですね。その時代の者から今に至(いた)るまでどの世代(せだい)の人々からもマリアを祝福されたものと呼ぶのです。マリアは身ごもったから祝福をうけたのではありません。またマリア自身に本来(ほんらい)備(そな)わっている聖さや価値(かち)のゆえに祝福を受けたというのでもないのです。救い主を身ごもるということによって神様の救いの計画の一助(いちじょ)を担(にな)うために選ばれたということが理由で祝福されたものと呼ばれるのです。

  III.      神様の性質 49節~50節

A.   

 マリアはこの超自然的(ちょうしぜんてき)な出来事を通してあらわされる神様の様々なご性質(せいしつ)を述べることによって賛歌を続けます。49~50節を読みましょう。マリアは神を恐れる処女(しょじょ)を選ばれ聖霊の働きによって子供を授けられた方を力ある神と呼ぶことからはじめています。マリアは男の子を生み、イエスと名(な)づけます。このイエスこそ、救い主であり、インマヌエル(神われらと共におられるという方)なのです。イエスは力強い神、永遠の父、平和の君です。これは神の働きにのみよるものです。このようなことは人にはなしえません。これは唯一の真実で、力にあふれた、聖なる神様の働き以外に成(な)しえないことなのです。マリアは自分の身に起きた超自然的(ちょうしぜんてき)な出来事が理由で讃美したのでもなく、また身分の低い田舎娘を召して大いなる名誉(めいよ)を与えたから讃美したのではありません。神様の力強い働きのみが身分の低い田舎の処女をさえ用い、信じるものすべての救いをもたらす救い主を誕生させることがおできになったからです。

B.    聖さ

  マリアは神様を聖なる方と言いました。まさに神ご自身が聖であるからです。これは重要な箇所です。マリアがその賛歌の中で神様の聖さと同時にイエスの聖さを定着(ていちゃく)させたのです。マリアが罪の中に生まれた者であってもさえ、神様の力が男性を知らないマリアにイエスを身ごもらせることを可能にしたのです。それはイエスを聖く、罪も咎(とが)めもない者とするためです。この真実においてのみ、イエスの死と復活(ふっかつ)が罪に対する完全な犠牲(ぎせい)として全(まった)き影響力をもつのです。Ⅱコリント5章21節を読みましょう。イエスは罪のない状態(じょうたい)で人となられました。

C.    あわれみ

  マリアは最後に神様のあわれみについて述べています。本来あわれみとは、働いて得たり、報(むく)いとして受けるものではありません。特に神様が与えてくださる救いについて語られる時、神様のあわれみと恵みとは常(つね)に一緒に用いられています。マリアが自分が神様に祝福された者ですという時、このような意味合いが含(ふく)まれているのです。また、これらの言葉は次のようにも定義(ていぎ)することができます。あわれみとは私たちが受けなければならない罰(ばつ)をまぬがれさせることであり、また恵みとは受けるに値(あたい)しないにもかかわらず受けることと定義することができるのです。私たちは永遠の裁(さば)きの報(むく)いを受けなければなりませんでした。しかし、神様はあわれみのうちに、イエスに私たちの受ける咎(とが)めを背負(せお)わせ十字架にはりつけになさることを選ばれました。これがあわれみです。神様の恵みは私たちの罪を取り除(のぞ)き神様と共に永遠の命を受け継(つ)ぐ者とすることにあるのです。ですから、神様のあわれみはすべての時代の人々に示されているのです。しかし、それには条件(じょうけん)があります。神様のあわれみは神様を恐れる者に与えられるというのです。旧約聖書では誰かが神を恐れるという時、神の前に聖でありたいという願いをしめすものでした。もちろん完全でまた聖なる神の前に罪人が出て行こうとする時たえず真の恐れがあります。しかしその恐れは、マリアが宣言しているように、マリアの体内にいる子がマリア自身と神を恐れるものすべての者にとっての救い主であると理解する時に取り除かれるのです。恐れが取り除かれると、私たちは聖い生活を慕(した)い求める謙虚(けんきょ)さへと導かれるのです。

 IV.      神様の主権を有する者としての行い 51~53節

  マリアは力、聖さ、あわれみといった神様の性質を述べたあと、51~53節でヤアウェの驚くべき行いに注意を向けています。ここで再びマリアは神様の完全な力についてふれ、このようなことがお出来になるのは神様だけであるとマリアは述べています。マリアは5種類の人々についてどう神様が扱(あつか)われるかを述べています。第1に「心の思いの高ぶっている者を追(お)い散(ち)らし」ここで神様だけが人の心を見抜(ぬ)かれるということがわかります。心の思いの高ぶる者は追(お)い散(ち)らされるのです。ここの追(お)い散(ち)らされるという動詞は、もみ殻(がら)が風によってふきとばされるのに例えられます。無(む)に等(ひと)しいほどのものと扱(あつか)われるのです。第2に「神様は権力(けんりょく)のあるものを王位(おうい)から引きおろされます。」ということは権力(けんりょく)ある者は今やしもべの身分にあることを意味するのです。彼らはすべての地位と力を失ったのです。第3に「低いものを高く引き上げ」ここで使われている低いという語は48節でマリアが自分自身のことをこの卑(いや)しいはしためといった時の卑(いや)しいという語と語源(ごげん)が同じなのです。自分自身を謙虚(けんきょ)に受け止める人々を神様は高く引き上げてくださいます。第4に「飢(う)えた者を良いもので満ち足(た)らせ」明確には書かれていませんが、飢(う)えた人とは文字通り食べ物に事欠(ことか)く人を指すのでしょう。第5に最後に「富(と)む者を何も持たせないで追い返されました。」富(と)む者にとって終わりの時に自分の手にコインの1つさえもないという、これ以上の屈辱(くつじょく)があるでしょうか。

 この5つの事柄(ことがら)をよく見てみると、社会的な地位が逆転(ぎゃくてん)しているということに気づきます。この箇所で神様が教えようとされているポイントではないのですが、このような箇所を読むとき、公平(こうへい)ということに思いが向けられます。この箇所は神様がそのみ旨(むね)のうちにやもめや孤児(こじ)、身分の低いもの、飢えたもの、また貧(まず)しいものを覚えておられることを私たちに思い起こさせるのです。私たちも神様の心を私たちの心の内にとどめておきたいと思います。私たちの教会がこのような人々を覚え助ける努力をしていることにも感謝します。この間障害者(しょうがいしゃ)の施設(しせつ)で人形劇をすることが出来ましたし、11月の宣教のフォーカスにFHIの方に貧しい子供たちのためのお金をおくることができましたし、今月の宣教のフォーカスにGGMの捧げ物をする予定です。私たちもこういったことをさらに続けていきたいと思います。この世にあって低くされ、貧(まず)しく、必要を覚えている人々に対して神様が持たれているような心をもって交(まじ)わっていきたいと思います。私たちが他の人より優(すぐ)れているというわけではありません。私たちの誰もが神様のあわれみと恵みを必要としています。この世にあって私たちは神様のみ手の中にあることを知っています。神様が出会わしてくださる人々に対して神様の驚くべきあわれみをもたらす者として用いられる者となりたいと思います。

 この箇所で使われている動詞はすべて過去形(かこけい)です。メシアがお生まれになるということは当時の人々にとっては未来の出来事だったということを考えると、神様がかつてそうされたのだという事実に目を向けると同時にこれから後の未来についても神様は同じようなことをされるということが示されていると考えることができます。神様は最初のものが後になり、後のものが最初になるという神の国でのイエスの最後の戒(いまし)めへと私たちを明確に導くのです。最後にマタイ19章28~30節を見ましょう。

   V.      神様のあわれみ 54節~55節

  賛歌は54節~55節で締(し)めくくられています。この箇所では、特に神の僕(しもべ)イスラエルを通してどの時代にあっても神様のあわれみがあったということが詳(くわ)しく語られています。神様がアブラハムと交(か)わした契約のゆえに、神様の約束とあわれみはすべての時代のすべての人々に至(いた)ったのです。アブラハムと交(か)わした神様の契約とアブラハムの子孫(しそん)が神の民とされるという約束を振(ふ)り返ってみましょう。さらに振り返るということは神様の約束された希望に目を向けなければなりません。この希望は過去(かこ)のものではなく未来についての希望です。その約束というのはメシアの訪(おとず)れによってのみ完全に実現(じつげん)されるのです。もし、キリストが来られなければ、だれも神の民あるいは神の息子や娘となることはできません。なぜなら、私たちは誰一人(だれひとり)神と関(かか)わりがないからです。人となられた神を通してでなければ私たちの身代(が)わりとなる完全な犠牲(ぎせい)とはならないのです。

 マリアは神様の一人子がお生まれになり、その方がインマヌエル、神われらと共にいます方であるという、まさしくこの約束を与えられたのです。キリストこそ過去(かこ)と現在と未来の神です。まことに神のあわれみは私たちにしめされているのです。

 VI.      結論

  天使ガブリエルがマリアのもとに来て処女(しょじょ)であるにもかかわらず子を産むであろうと告げられた時、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉どおりこの身になりますように。」 とマリアは応答しました。私たちならどう応(こた)えるでしょうか。時々、神様のみ言葉を読みますが、それは私について述べているのではないと考えることがあります。そのように読むことができないので、マリアが応えたように「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 とは言わないのです。しかし、私たちもマリアのように応答すべきです。バングラデッシュの教師も生徒(せいと)を勇気付(ゆうきづ)けました。神様のみ心以外に安全な場所などないのです。マリアは神様がマリアに用意されたものをただ単(たん)に受け取るだけでなく、喜びを持って受け取るほど十分に神様を理解していました。しかし残りの聖書の箇所を読むとマリアとヨセフについて多くの陰口(かげぐち)がなされたことに気づきます。マリアは動物の飼(か)い葉桶(ばおけ)に幼子(おさなご)キリストを寝かさなければなりませんでしたし、後にはエジプトへ逃げなければなりませんでした。神様が望んでおられた通りにマリアとヨセフが正しいことを行ったということ以外には興奮(こうふん)すべきことはなんらありませんでした。しかし、これがマリヤとヨセフにとっての喜びと讃美の歌を歌う理由だったのです。

 神様の言葉は正しく、私たちを自分たちがいるべき場所へ導いてくださいます。その場所というのは、楽しみに満ちた場(ば)であることもありますが、時として困難(こんなん)な場であったり、むしろ危険(きけん)な場であったりさえするのです。しかしそれ以上に安全な場というものはないのです。マリアがしたように私たちも歌を歌うことができるのです。なぜなら、私たちは讃美されるにふさわしい唯一の神に仕えているからです。神様は私たちの低い身分を取り除き、神様の名前を下さるのです。私たちはクリスチャンと呼ばれます。神の子と呼ばれる以上の地位はありません。神様はあわれみと恵みを与えてくださいます。私たちは周りのすべての人に讃美の歌を歌って、こう宣言するのです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威(けんい)が彼の肩(かた)にある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱(とな)えられる。」 これこそがクリスマスのメッセージなのです。

 今朝のこの共に礼拝する時間を閉じるにあたって、聴(き)いてもらいたい曲(きょく)があります。この曲(きょく)は、マリアの賛歌を音楽にのせたものです。英語で歌われますが、歌詞がスクリーンに映されますので歌われている内容を理解してもらえると思います。音楽を聴いてもらっている間、ローナに手話で讃美してもらいます。手話による讃美はとても美しく、さらに深くマリアの心情(しんじょう)を理解できると思います。この讃美がみなさんにとってもクリスマスの恵みを讃美するものとなりますように願っています。

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