1 Timothy 1:1-3 First Timothy Introduction
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1 Timothy 1:1-3 First Timothy Introduction
今日からテモテの手紙一の書を始めます。エフェソ書からこの書に進みたかった理由は、二つの書のテーマが似てい
るからです。一年を通して教会に焦点を当て教会であることの意味を学んでいきます。エフェソ書は教会の神学、キ
リストの体としての教会の聖書的理解、そしてその理解のうちに生きる生涯の必要性を教会として生きるよう求めて
います。テモテ一はより具体的な教会生活の現実的かつ実践的な事柄に集中しています。教会の指導者の各論につい
て、そして誰がどこで奉仕できるかを語っています。この書簡は若い牧師に向けて書かれており、教会が牧師に何を
求めているかに焦点を当てています。全員が牧師として召しを受けているわけではありませんが、私たちは全員教会
として生きるように召されているのです。ですからこの書は信者全員にとってキリストの体として共に生涯を生きる
ならばとても実践的な本です。今日は、最初の三節を読みましょう。テモテ一 1: 1-3 です。1 わたしたちの救い主
である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロ
から、 2 信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そ
して平和があるように。3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、
ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、
祈りましょう。
パオロはこの書簡を彼の他の書簡もそうであるように彼の教会さえ指導する権威を有する資格を述べることから始め
ます。彼は 1 節で, わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、
と言っています。彼が伝統的な意味での使徒ではなかったことを思い出してください。彼は主の復活の後にイエスと
面と向かって教えを受けたのでした。他の 11 人の弟子たちは 皆個人的にイエスを知り彼によって教えられました。
しかし、使徒行伝の教会の始まりの部分ではパオロがクリスチャンを逮捕するために繰り出し、殺害さえしました。
しかし、ダマスコにさらにクリスチャンを逮捕するために旅した時にパオロは超自然的なイエス・キリストとの出会
いを体験したのです。その体験によって彼はイエス・キリストを彼の罪の犠牲のために遣わされた真のメシアと信じ
救われただけではなく、彼はイエスに個人的に世界中に福音を広めるよう召された使徒とされたのです。彼は異邦人
のための使徒となったのです。ガラテヤの信徒への手紙 1 章 15-16 節で神からの命令又は召命がこのように述べら
れています。15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、
御心のままに、 16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ
血肉に相談するようなことはせず、
パオロのイエス・キリストとの体験は彼の人生の概念と軌道を完全に変えました。そして彼がなぜどうしてそのよう
にイエスのことを呼ぶのかがわかります。彼はイエスが救い主、希望なる神と言っています。唯一イエスが私たちの
救い主であることができる理由は彼が神であり神だったからです。完全に人でありながら私たちが経験する全ての誘
惑に相対しながら彼は一切罪のない聖なる人生を生きることが可能であったわけは彼が神であるからこそ完璧に誘惑
に抵抗し完全なる罪のない聖なる人生を生きることが出来たのです。ヘブライ人への手紙 4 章 15 節は私たちにこう
語ります。 15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点
において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
パオロは誰よりもイエスが死によって贖った彼の罪の代価を理解していました。章が進むとパオロはこう言います。
テモテ一 1 章 15 節
15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値
します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
パオロは彼の罪の重さを理解していました。彼はローマ人への手紙 3 章 23 節の意味を完全に理解していたのです。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、私は私たちの多くが自分たちの罪がどれほど重い
か、そしてその罪のために死なれたイエスにどれだけの恩義を受けているかを過小評価していると確信しています。
神の眼からは私たちの最高の行いも彼の完璧な基準には程遠くただの塵芥のようです。ですから、イザヤ記 64 章 6
節はこう言います。 5 わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたした
ちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った。私たち自身は無価値なの
で、キリストの義と神聖さが必要です。私たちは決して真に神と義なる関係になることはできません。パオロはこの
ことを理解していました。ですから、彼は彼の罪のために死んだ復活された主イエス・キリストとの体験が彼の人生
を変えたのです。たとえ彼のキリスト以前の人生が良かったと思っていたとしても、イエス・キリストのうちに、彼
はその後イエス・キリストを体験してキリストこそ私たちの希望と呼んでいます。
全ての人が何かしらに人生と将来の希望をかけています。パオロも同じでした。フィリピの信徒への手紙 3 章でパオ
ロは彼自身の資格経歴を提示し彼が生まれ育った社会の価値観からは、彼には明るい未来と霊的に恵まれた死後の希
望がありました。フィリピ 3 章 4-7 節 4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほ
かに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、
イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派
の一員、 6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 7 しかし、わた
しにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
彼がユダヤ人として生きた社会の全ては彼の出生によるものでした。
生まれが彼をベニヤミン族の特権階級の人にしました。それだけではなく、彼はその社会で最も訓練を受けた宗教学
士で、彼らの文化で最も尊敬された指導者であるファリサイ派として育てられ教育されました。彼は彼らの理想の真
の信者でした。彼は社会のトラブルメーカーであった死から蘇ったと主張しているイエスに従っているクリスチャン
を滅ぼすために繰り出していました。彼は旧約聖書の理解から人一倍神の律法に忠実に従っていました。彼はユダヤ
人としての身分に人間の希望と自信だけでなく使徒行伝 22 章 25-26 節でわかるように、彼のローマ市民権である
と言うことは彼を非ユダヤである異邦人の中においても高い地位に置きます。こう言っています。 25 パウロを鞭で
打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ
者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」 26 これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報
告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」
この時代この地上で生きているどの人よりも希望と確信を持っているこの男パオロは彼の希望はイエス・キリストで
あると言いました。彼はイエス・キリスト以外は彼の人としての業績、出生から来る身分、教育、国籍、やそれ以外
の全てを信頼しませんでした。キリストに従う者、キリストの体である教会として、私たちの希望は救い主イエス・
キリストにあるべきです。私たちの希望は個人的に稼ぐお金や教会として集める献金にあるべきではありません。私
たちの希望を良い家や教育がもたらす保証や私たち教会として、私たちの土地と建物、年齢や出席者数、場所や宗派
に置くこともできません。私たちの希望はキリストであり、将来だけではなく今の希望の源です。主は情緒的な問題
や心理的な問題、結婚問題や親や子との間の難しい関係、十分な収入を得られる仕事などの問題を抱えている者たち
に希望を与えます。教会にとってイエスは福音と救い主を彼らも必要としている理解に抵抗する文化のための希望、
そして他の人たちに福音をシェアする自信と勇気、私たちのために神が開かれたと信じる扉を通って福音を広めるた
めの財源の希望です。
この書簡はパオロの他の数多くの書簡同様彼自身の紹介から始まっていますが、彼の人生がイエス・キリストによっ
て変えられたことに焦点を当てています。他の書簡と異なることは特定の人に向けた個人的な手紙であることです。
パオロは 13 ないし 14 の新約聖書の書を書いていますが、そのうちの 4 書は 3 人の違った人たちに宛てています。
この書、テモテ一と次のテモテ二、テトス、とその後のフィレモンです。まず、誰が書いているかを告げた後、パオ
ロは 2 節で誰に向けて書いているかを告げます。2 信仰によるまことの子テモテへ。彼が書いているこの若い男が
誰なのか、彼の人生の状況を知る必要があります。教会の牧師宛てに書かれているので、テモテへの手紙とテトスは
牧師書簡として知られています。エフェソ書からテモテへの手紙に移ることは理にかなっているのは、テモテがエフ
ェソの教会の長老か主任牧師または牧師長の位置にあったからです。今日の聖句に 3 節を含めましたが、実際深く学
ぶのは来週まで待ちます。私たちのテモテ書とこの書の背景の理解に重要です。3 節でパオロはテモテにこう言いま
す。3 マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさ
い。異なる教えを説いたり、何のことを言っているのかはっきりとはわかりませんが、可能性としてはパオロが聖書
には記述されていないが、教会の歴史には証拠の存在する 4 回目の宣教旅行についての理解に導きます。この記録に
ない 4 回目の宣教旅行の時にパオロはテモテをテモテの教会の牧師として問題解決のために残した可能性がありま
す。
使徒行伝では使徒パオロの三回の宣教旅行が記されています。使徒行伝はパオロがその三回目の宣教旅行を終えてロ
ーマで紀元 58 年から 64 年頃の間に約 2 年間自宅監禁されたと記していますが定かではありません。皇帝ネロが紀
元 68 年に死んだことはわかっています。そして、彼はその以前にローマでパオロを処刑しています。パオロがマケ
ドニアに、テモテがエフェソにいるという詳細は使徒の書とは辻褄が合わず、パオロが自宅監禁から解放され、その
後すぐに処刑されず、もう一つの宣教旅行に出かけ、再逮捕され、ローマに移送され信仰のために殺されたという事
を信じるよう使徒行伝は導いているようです。絶対確実というわけにはいきませんが、聖書からパオロがテモテを牧
師としてエフェソに残した後、マケドニアでテモテへの手紙一を書いた時が紀元 62 年から 65 年ごろなので年代順
には辻褄が合います。この時彼は確実に収監されていませんでしたが、テモテ二が書かれた頃には、自宅監禁ではな
く、ローマの監獄にいました。パオロは彼の二回目の宣教旅行の最中にテモテにあったのです。使徒行伝 16 章 1-3
節こう言います。1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を
父親に持つ、テモテという弟子がいた。 2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。 3
パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父
親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
ここでわかっていることはテモテにはキリストに従うユダヤ人の母親がいたこと、父親はギリシャ人であったと指摘
しています。父親は信者ではなかったようです。彼は今日のトルコにあるリストラの町の出身でした。スクリーン上
の地図をみてください。テモテのキリスト者としての証は非の打ち所がありません。そして、他の人は彼のうちにキ
リストを見ることができました。彼は半分ユダヤ人でしたが、彼は敬虔なユダヤ教徒としては育てられなかったよう
です。鍵となる事柄はユダヤ人の子供であれば乳児の時に割礼を受けることです。テモテは受けていませんでした。
面白いことはパオロがこの時一緒につれ立つ前に彼に割礼を受けさせたことです。
パオロは福音メッセージを通して救いは完全に神の恵みによるものであり働きによるものではないことを強調してい
ます。これはユダヤ人が、神が受け入れられた印としての割礼も含めています。その理解をパオロはガラテヤの信徒
への手紙 5 章 1-2 節でこう言っています。 1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にし
てくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。2 ここで、わたし
パウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方
になります。
パオロは割礼を受けることに真の意義や有益性がないことは理解していましたが、テモテと彼のどの人たちも福音を
語る能力の前に障害を作りたくなかったのです。彼はコリントの教会に語った真理を実践したのです。コリントの信
徒への手紙一 9 章 22-23 節で彼はこう言います。
22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものに
なりました。何とかして何人かでも救うためです。 23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それ
は、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。私たちが福音ために敷く線があるべきです。しかし、全てが
戦場ではありません。個人的には、アメリカの政治でこれを見ることができます。クリスチャンにも2大政党に属す
る人たちがいます。主張することやその主張の仕方がまるで政治的な考えがイエス・キリストの福音信仰と同じくら
いの重要さであるような印象を与えています。それによって、人が福音ではなく私たちから興味を失い福音を語る機
会を失うこともあります。
パオロはテモテの紹介の後に彼の実際の挨拶を 2 節の終わりでしています。父である神とわたしたちの主キリス
ト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。これは私たちがイエス・キリストとの関係により与る
全ての要約です。恵み、憐れみと平和はイエス・キリストを知るもの全員が与えられます。恵みは私たちを救いま
す。エフェソ書 2 章 8-9 節
8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の
賜物です。 9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。救いを自分で得るため
にできることなどありません。私たちは完全なる善になることできません。祈りを十分に捧げることもできません。
神から私たちを断絶させる罪のためにふさわしくなれないのです。しかし、救いは私たちのことではなく、全てが神
の神から神故にあるものです。それが恵みです。
憐れみは日々神が、私たちが息をしている時常に示されるものです。哀歌 3 章 22-23 節 22 主の慈しみは決して絶
えない。主の憐れみは決して尽きない。 23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
私たちは神が私たちを彼の民として、彼の子供達として選ばれ、私たちの弱さの中でも憐れみによって私たちを祝福
することを望まれたことを見る代わりに、自分たちの悪い部分を見たがります。神の憐れみが、彼が私たちの罪に対
する怒りから私たち全員を滅ぼすことから防いでいます。ローマ人への手紙 1 章 18 節 18 不義によって真理の働き
を妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 毎朝起きて息をするということは
神が憐れんでくださったということです。ある日最後の息をする時、私たちは主の最高の憐れみを体験します。永遠
の罰を受けずその代わりに永遠の命と永遠の住処で父なる神との喜びを与えられるのです。
毎日子供達がナイフで襲われ、戦争が今にも起こりそうな状況や第一と第二の経済大国が貿易戦争に陥り、家族が虐
待やネグレクト無視、学校での銃の乱射、多くの自然災害、飢饉、宗教的迫害のこの世界にイエス・キリストは平和
をもたらします。この平和は神と私たちの間に最初にあったものです。 ローマの信徒への手紙 5 章 1 節 1 このよう
に、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を
得ており、
しかし この平和は私たちの周りの世界の状況が平和でなかったとしても守られます。イザヤ記 26 章 3 節 3 堅固な
思いを、あなたは平和に守られる/あなたに信頼するゆえに、平和に。 預言者イザヤを通して神はイエスを知る私
たちを含む者全員である彼の契約の下の民を語られました。イザヤ 54 章 10 節 10 山が移り、丘が揺らぐこともあ
ろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐
れむ主は言われる。
私たちが人生の中で与っているこの平和は私たちが平和の民となれば私たちの周りの人たちにも広めることができま
す。ローマの信徒への手紙 14 章 19 節 はこう言っています。19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求
めようではありませんか。
パオロの挨拶は教会で私たちが誰とでも挨拶を交わす方法を教えてくれています。私たちはこの扉を通って入ってく
る人たちみんなが YIBC の信者と会い神の恵み、神の憐れみと神の平和をイエス・キリストを通して与えられること
が理解できるようなるべきです。パオロがキリストの体である教会内の実践的な事柄についてのこのテモテへの手紙
を始めるにあたり、彼はテモテに挨拶し彼の人生であるイエス・キリストとの関係を述べています。キリストが彼を
救い、彼を変え、彼を召し、彼が福音を語ることをたとえローマ政府や宗教指導者たちが彼に何を使って攻撃しよう
とも耐えることができる希望を彼に与えました。イエスがパオロに示した恵みと憐れみが私たちの想像をはるかに超
える迫害にも関わらずアジア中で教会を開拓し忠実に神に仕えたこの男に平和をもたらしたのです。全てが彼のイエ
スとの出会い故です。あなたもイエスに会う時彼はあなたの人生を変えます。そして、私たちがイエスによって真に
変えられる時、私たちの教会も変えられます。私たちの人生と教会はイエス・キリストを救い主として、主として、
主人として栄光を現さなければなりません。もしあなたがまだイエスを知らなければあなたは未だかつて与えられた
最高のギフト、あなたの罪のために十字架の上で死なれた方を通して与えられる救いを見逃しています。今日をあな
たがイエスを受け入れる日としますか。そして、パオロを変えたそしてそれによって世界を変えた神との人生を変え
る関係を体験しますか。祈りましょう。
1 Timothy 1:1-3 First Timothy Introduction
Today we begin the book of First Timothy. I wanted to move to this book from the book of Ephesians,
because the theme of 1 Timothy is similar to that of Ephesians and keeps us focused on the church and
what it means to be the church for the entire year. While Ephesians focused on the theology of the
church, and the Biblical understanding of the church as the body of Christ and the necessity of a life lived
in that understanding as we seek to live as the church, First Timothy focuses us more specifics of the
practical matters of church life. It will talk about specifics of church leadership and who can serve where.
It will focus on what the church needs in a pastor as this is a book written to a young pastor. And while
not all of us are called to be pastors, we are all called to live as the church, and that makes this book very
practical for all believers as we live out this life together in the body of Christ. Letʼs get started as we
read the first three verses today. 1Timothy 1:1-3 says, Paul, an apostle of Christ Jesus by command of
God our Savior and of Christ Jesus our hope, 2 To Timothy, my true child in the faith: Grace, mercy, and
peace from God the Father and Christ Jesus our Lord. 3 As I urged you when I was going to Macedonia,
remain at Ephesus so that you may charge certain persons not to teach any different doctrine…Letʼs
pray.
Paul starts off this letter in the same manner he starts most of his letters by giving his credentials to even
have the authority to lead in the church. He says in verse 1, 1 Paul, an apostle of Christ Jesus by
command of God our Savior and of Christ Jesus our hope… Remember that he was not an apostle in the
traditional sense, that he had been taught face to face by Jesus Christ after his resurrection. The other
11 disciples that were apostles all had personally known and been taught by Jesus, but when we come to
the beginning of the church in the book of Acts, we find Paul going out to arrest and even murder
Christians.
But Paul has a supernatural encounter with the resurrected Jesus Christ while traveling to go arrest more
Christians in Damascus. That is the experience that not only saved him as he now believed in Jesus Christ
was truly the Messiah who had been sent as a sacrifice for his sin, but also made him an Apostle as Jesus
personally called him to take the gospel around the world. He became the apostle to the gentiles. In
15
Galatians 1:15-16, he describes his command or call from God like this… But when he who had set me
16
apart before I was born, and who called me by his grace, was pleased to reveal his Son to me, in
order that I might preach him among the Gentiles, I did not immediately consult with anyone;
Paulʼs experience with Jesus Christ completely changed the entire scope and trajectory of his life. And we
see why in how he refers to Jesus. He says he is God our Savior and our hope. The only reason that Jesus
could be our Savior is that he was and is God. He was able to live a perfectly sinless and holy life because
while fully human experiencing all the temptation we face, he was fully God and therefore perfectly
capable of resisting temptation and living a completely sin free and holy life. Hebrews 4:15 tells us, “For
we do not have a high priest who is unable to sympathize with our weaknesses, but one who in every
respect has been tempted as we are, yet without sin.” Paul more than anyone understood the debt from
his sin that Jesus paid for when he died. As this chapter continues Paul says in 1 Timothy 1:15, “The
saying is trustworthy and deserving of full acceptance, that Christ Jesus came into the world to save
sinners, of whom I am the foremost.” Paul understood the depth of his sin…he understood the full
meaning of Romans 3:23, “For all have sinned and fall short of the glory of God.” Iʼm convinced that most
of us far underestimate how bad our sin is, and just how much we owe to Jesus dying for those sins. In
Godʼs eyes, even the best things we do are so far below his standard of perfection that they appear as
garbage. This is why Isaiah 64:6 says, “We have all become like one who is unclean, and all our righteous
deeds are like a polluted garment. We all fade like a leaf, and our iniquities, like the wind, take us away.”
We need Christʼs righteousness and holiness because our own is worthless. We are incapable of ever truly
being right with God, and that is what Paul understood, and why when he had the experience with the
Risen Lord Jesus Christ who had died for his sins, it changed his life. And no matter how good he thought
his life was before Christ, in Jesus Christ, he experienced Jesus Christ in the second way he refers to
Christ as our Hope.
Everyone is putting their hope for their life and their future in something, and Paul was no different. In
Philippians 3, Paul gives his credentials that according to the society he was born in, and the values he
was raised with would have given him many reasons for hope in a bright future and even spiritual after
life. Philippians 3:4-7 says, 4 though I myself have reason for confidence in the flesh also. If anyone else
thinks he has reason for confidence in the flesh, I have more: 5 circumcised on the eighth day, of the
people of Israel, of the tribe of Benjamin, a Hebrew of Hebrews; as to the law, a Pharisee; 6 as to zeal, a
persecutor of the church; as to righteousness under the law blameless. 7 But whatever gain I had, I
counted as loss for the sake of Christ. Everything about the society he lived in as a Jewish man was based
on his birth, and his birth put him in the privileged class as a man of the tribe of Benjamin. Not only that,
he was raised and educated as a Pharisee, the most highly trained religious scholars of their society and
the most respected leaders in their culture. And he was a true believer in their ideals. He was out to
destroy those Christians who would say they followed that social trouble maker Jesus, and claimed he had
risen from the dead. He also was as faithful as any person could be in following Godʼs law as they
understood it from the Old Testament. Not only could he find human hope and confidence in his status as
a Jew, but we find out in Acts 22:25-26 that his status as a Roman citizen put him in a high status even
among gentiles, non-Jews. It says, “But when they had stretched him out for the whips, Paul said to the
centurion who was standing by, “Is it lawful for you to flog a man who is a Roman citizen and
uncondemned?” 26 When the centurion heard this, he went to the tribune and said to him, “What are you
about to do? For this man is a Roman citizen.”
This man, Paul, who had more hope and confidence humanly speaking that many if not most humans living
on earth at that time said that Jesus Christ was his hope. He didnʼt trust in his human accomplishments,
his birth status, his education, his nationality or anything else, only in Jesus Christ. As the followers of
Christ and the body of Christ, the church, our hope must be found only in Jesus Christ our Savior. We
cannot place our hope in the money we make as individuals or the offerings we collect as a church. We
cannot place our hope in the security that a good house or education brings us as people, nor can we as a
church find hope in our land and buildings, our age and number of attenders or even our location or
denomination. Our hope is Christ, not just hope for the future, but the source of our hope now. He gives
hope for those dealing with emotional and psychological problems, hope for failing marriages and hard
relationships with parents and children, hope for a job that pays the bills…For the church, Jesus is our
hope for a culture that is resistant to the gospel, to understand their need of a Savior, hope and
confidence for the courage to share the gospel with others, hope for the financial resources to spread the
gospel in ways that we believe God is opening doors to us.
While this letter by Paul starts off as many of his letters do by introducing himself and focusing on Jesus
Christ who has changed his life, it differs from others in that it is a personal letter to a specific person.
Paul wrote 13 or possibly 14 books of the New Testament and 4 of those are personal letters to three
different people, Timothy, in this book and the next, 2 Timothy, Titus and the book after Philemon. So,
now after telling who is writing Paul introduces us in verse 2 to the person he is writing to as he says,
2 To Timothy, my true child in the faith:.. We need to know who this young man is that he is writing to,
and what his life circumstances are. The letters to Timothy and Titus together are known as the pastoral
epistles or letters because they were written to pastors at churches. It is fitting to move to Timothy after
Ephesians because Timothy is an elder or pastor, perhaps the lead pastor or Senior pastor type of
position to the church at Ephesus. We see that in verse 3 that I included in our passage today, but I am
going to wait to really get into until next week, but it is important to our understanding of Timothy and the
3
background of this book. In verse 3 Paul tells Timothy, “ As I urged you when I was going to Macedonia,
remain at Ephesus so that you may charge certain persons not to teach any different doctrine,” We do
not know exactly when this this is talking about, but it does lead us to an understanding that Paul
probably did a 4th missionary journey that the Bible does not record, although church history does show
evidence of it. It was possibly sometime during this unrecorded 4th missionary journey that Paul left
Timothy as a Pastor in Ephesus to deal with problems there.
In Acts, there are three missionary journeys recorded for the Apostle Paul, and the book of Acts ends
with Paul having completed his third missionary journey and under house arrest in the city of Rome for
what Acts tells us lasted two years, which could have been anywhere from AD58 to AD64, although we
are not sure. We know that Emperor Nero died in AD68, and that he executed Paul in Rome before then.
Some details, like Paul being in Macedonia with Timothy in Ephesus do not match with the book of Acts,
and it does seem like Acts leads us to believe that Paul was released from this house arrest, not executed
after it, which would allow for another missionary journey, and re-arrest and being taken to Rome and
killed for his faith. Although we cannot be entirely sure, it seems to make sense chronologically with what
we do know from Scripture that Paul then wrote the book of First Timothy from Macedonia sometime
between AD 62 and 65 AD after having left Timothy as the pastor in Ephesus. He definitely does not
seem to be imprisoned at this time although by the time 2 Timothy is written he is in prison in Rome in a
dungeon, not just house arrest, which leads me to accept a second arrest and trip to Rome that happened
after this letter was written.
Paul met Timothy during his second missionary journey. Acts 16:1-3 tells us, Paul came also to Derbe
and to Lystra. A disciple was there, named Timothy, the son of a Jewish woman who was a believer, but
his father was a Greek. 2 He was well spoken of by the brothers at Lystra and Iconium. 3 Paul wanted
Timothy to accompany him, and he took him and circumcised him because of the Jews who were in those
places, for they all knew that his father was a Greek. What we know from here in Acts is that Timothy had
a Jewish mother who was a follower of Christ, and by pointing out that his father was Greek, we are being
told his father was not a believer. He was from a town called Lystra, which was located in what is the
modern country of Turkey. You can see it on the map on the screen. Timothyʼs testimony as follower of
Christ was above reproach, and others could see Christ in him. Although he was half Jewish, it does not
seem that he had been raised as a religious Jew. One of the key aspects of being Jewish for a boy would
have been being circumcised as a baby, which he was not. It is interesting that Paul before he took
Timothy with him went ahead and had him circumcised.
Paulʼs entire gospel message made the point that salvation was completely by Godʼs grace through faith
without any works. This included the work of circumcision which Jews saw as the mark of their
acceptance by God. To that understanding Paul says in Galatians 5:1-2, “For freedom Christ has set us
free; stand firm therefore, and do not submit again to a yoke of slavery. 2Look: I, Paul, say to you that if
you accept circumcision, Christ will be of no advantage to you.” Paul understood very well that there was
no real significance or advantage to being circumcised, but he wanted to not put a barrier between
Timothy and his ability to be able to share the gospel with any group of people. He was living out the truth
that he shared with the Corinthian church in 1 Corinthians 9:22-23 where he says, “I have become all
things to all people, that by all means I might save some. 23 I do it all for the sake of the gospel, that I
may share with them in its blessings.” There must be lines we draw for the sake of the gospel, but not
everything is a battleground. Personally, I see this with politics in America. There are Christians who
belong to both parties, but we place our political opinions as high as we place our belief in the gospel of
Jesus Christ or at least it appears that way in what we say and how we say it, and we end up turning off
people, not to the gospel, but to us, and therefore the message of the gospel that we are trying to convey
to them.
After introducing the person Paul is writing to, he gives his actual greeting at the end of verse 2… “Grace,
mercy, and peace from God the Father and Christ Jesus our Lord.” This is a summary of everything we
gain from our relationship with Jesus Christ. Grace mercy and peace are what all of us receive who know
Jesus Christ. Grace is what saves us. Ephesians 2:8-9 says For by grace you have been saved through
faith. And this is not your own doing; it is the gift of God, 9 not a result of works, so that no one may
boast. There is nothing that we can do to earn it. We canʼt be good enough. We canʼt say enough
prayers. We donʼt deserve it, because our sin, which separates us from God. But salvation is not about us
itʼs all about and from and due to God. Thatʼs grace.
Mercy is what God shows us every day that we get breath. Lamentations 3:22-23 says, 22 The steadfast
love of the Lord never ceases; his mercies never come to an end; 23 they are new every morning; great is
your faithfulness. We are so willing to see the bad in our lives, instead of seeing that our God has chosen
us as his own people, his own children and chooses to bless us by having compassion on us in our
weakness. His mercy is what prevents his destruction of all of us who deserve nothing but his wrath
against our sin, because we are all sinners. Romans 1:18 says, “For the wrath of God is revealed from
heaven against all ungodliness and unrighteousness of men, who by their unrighteousness suppress the
truth.” Every day that we wake up and breathe means that God has shown mercy to us, and one day when
we do take our final breath, we will experience his greatest mercy as we receive not eternal punishment,
but eternal life and joy at home with God our Father for all of eternity.
And into this world where we have daily news of knife attacks on children, wars on the verge of breaking
out, trade wars that affect the largest countries in the world, families that suffer from abuse and neglect,
school shootings, many natural disasters, famine, and religious persecution, Jesus Christ brings peace.
This is peace that exists first between us and God. Romans 5:1 says, “Therefore, since we have been
justified by faith, we have peace with God through our Lord Jesus Christ.” But then that peace extends
into our lives even when the world around us is not a peaceful place. Isaiah 26:3 says, “You keep him in
perfect peace whose mind is stayed on you, because he trusts in you.” Speaking through the prophet
Isaiah, God says of his covenant people, which includes all of us who know Jesus Christ…in Isaiah 54:10,
“10 For the mountains may depart and the hills be removed, but my steadfast love shall not depart from
you, and my covenant of peace shall not be removed,” says the Lord, who has compassion on you.” This
peace that we have in our lives can then extend to others around us as we become people of peace.
Romans 14:19 tells us, “So then let us pursue what makes for peace and for mutual upbuilding.”
Paulʼs greeting should define the way that we want everyone to be greeted within the church. We want
everyone that comes through these doors or meets someone from YIBC to understand the grace of God,
the mercy of God and the peace of God that can be theirs through Jesus Christ. As Paul begins this letter
to Timothy that deals with the practical aspects of life within the church, the body of Christ, he greets
Timothy with that which defines his life ‒ his relationship with Jesus Christ. It was Christ who saved him,
changed him, called him and gave him hope to be able to endure all that the government and religious
authorities could throw against him for being committed to sharing the gospel. It was Jesus who showed
Paul grace and mercy and brought peace to this man who started churches all across Asia and served
God faithfully in spite of persecution that was far worse than most of us can imagine. It was all because
he met Jesus. When you meet Jesus, he will change your life, and when each of us is truly changed by
Jesus, he will change our church. Our lives and our church must glorify Jesus as our Savior, and our Lord
or Master. If you do not know him today, then you are missing out on the greatest gift that has ever been
offered, salvation through the one who died on the cross in your place for your sin. Will today be the day
that you accept him, and experience the same life changing relationship with God that changed Paul and
through him changed the world. Letʼs pray.