1 Timothy 1:3-11 Dealing with false doctrine
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English follows Japanese
横浜国際バプテスト教会 2019年6月23日 Pastor Ben Howard
第一テモテ1:3-11 虚偽の教理について
第一テモテの最初の2節によりますと、パウロはエペソの牧師としてテモテを派遣し、そのまま宣教の旅に再出発しました。今日の個所によりますと、パウロがテモテをエフェソに残したのは教会で嘘の教理が教えられていたからです。我々は違う場所違う時代に住んでいますが、それでも嘘の教理が教会に入ることはあり得ますし、テモテがとるべき行動と同じく我々も発見した際にはそれを指摘する必要があります。ご一緒に第一テモテ1:3-11を読み、我々がキリストの身体として生きる中で、どのように間違った教えに対処するかを学びましょう。第一テモテ1:3-11 3私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、4果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。5この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。6ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、7律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。8しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。9すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、10不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。11祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。祈りましょう
聖書で明らかにされた真実とは異なる違った教えは、ただ自然消滅して、問題が無かったように教会内での指摘を回避できるものではありません。今日の個所でまず最初に嘘の教理による問題とその深刻さについて書かれています。3-4節には3私がマケドニヤに出発するとき、あなたにお願いしたように、あなたは、エペソにずっととどまっていて、ある人たちが違った教えを説いたり、4果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません。
パウロはどうもテモテをエペソの教会の主任牧師または長老か牧師として残して、一定の人たちが教えている間違った教えと正面から向き合うようにさせました。どのように違った教えかは分かりませんが、「違った教え」という表現が用いられている時点で、これはパウロと使徒が新約聖書として教えていた内容とは異なるという事実だけは分かります。さらには3-4節における警告から、ここで言及されている問題が何であるか一定の想像もできます。パウロはテモテに果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じるように伝えます。
パウロはユダヤ教の神話と伝統に基づいて、一定の人々がどこから来たのかなど、を聖書と旧約聖書と一緒に教えられていることに懸念を閉めrします。テトスへの手紙1:14には同じく違った教えに対して警告をうながしますが、パウロは実際にこれらを「ユダヤ教の空想話」と呼んでいます。テトスへの手紙1:13-14には「13この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、14ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」とあります。今日われわれの教会においてはこのようなユダヤ教にまつわる空想話には影響されないかもしれませんが、教会を攻撃するための違った教えはたくさん存在します。
これら違った教えとは公然と聖書が古代中近東のおとぎ話であり信ぴょう性が無いと言った論調も含め、教会または神学校において教えられる内容にも影響があります。Dr Serene Jones 博士はUnion Theological 神学校の学長ですが、今年イースターの時期に行われたインタビューにてこのように発言しています「信仰の心髄にはミステリーがあります。神様は我々が知り得る領域を超えていて、単純に存在するかどうかでは表現できません。私は全能で絶対の権能者を崇拝しているのではありません。これはあくまでもローマの政治論とギリシャ神話の融合に過ぎません。それはイースターで祝う神様ではありません。イースターの神様は愛にあふれており、この世の中を権力で動かすお方ではなく、ただただ愛と正義と許しをもって我々を招いているのです。」これは正に偽った教師が牧師を教え、聖書が教えている内容を完全に放棄している例です。このような教師、牧師、そして同性愛を容認する境界がこの部類に値すると考えられます。聖書を用いて罪ではないといった正当な解釈学など存在しませんが、それ以上にこの罪を教会内で標準化させる動きがさらに大きい存在です。これは間違った教えてあり、これを容認するのは偽りの教え人であり、今日の箇所の8-10節を真っ向から否定する人たちです。
しかしより多く存在するのはむしろ分かりにくい間違った教えをする者であり、パウロは正に彼らについてテモテに忠告しています。ユダヤ教の神話を教える人は旧約聖書を否定せずも、他の教えを並行して伝える事によって、聖書が唯一神様について明らかにする物ではなくしてしまいます。現在福音を宣べ伝える福音派教会はその葛藤にさらされています。多くの教会は聖書が神様の言葉であり原文こそは間違いの余地もなく、信頼できて全ての権限が聖書にはある事を受け入れています。しかし教会の中には聖書について同じ考えをもちながらも、教える教理では信じているとして神の言葉を信じるとするスタンスを否定しています。道徳に関する社会・政治的な項目が聖書でどのように書かれているか、またはこのような政治的な内容がむしろ説教のメインの内容になってしまったり、現代の予言が聖書と同レベルに信頼を寄せられるなど、聖書ではなく、聖書とは違う内容をメインに教えてしまいます。
パウロはテモテに対してこれら違った事を教える人を阻止するだけではなく、このような間違った信仰を勉強するために時間を費やすことをやめさせるように指示します。むしろ指示という言葉では収まらず、命令という言葉がふさわしく、彼らに不確実で教会の分断を招かねない疑いと論争だけを引き起こす教えはしないように命令します。違った教えとは重大な問題であり確実に対応しなくてはなりません。
また、聖書を真っ向から反対はしなくとも、聖書における特定の項目に対する一定の解釈であり、それがあまりにも大きく取り上げられる結果、人々が注力するべき福音を守る事から、集中しないようになります。悪さを行おうとしない人が、重要ではない、または間違った教えてに注視しすぎる事によって自らの解釈を展開して、キリストのもと成長して聖書の知識を得ようとしている人を大混乱させたりします。このような人々に対してパウロは警告をしているのだと思います。
パウロはテモテに対してこれら違った教えの概要を説明し、これがどのような問題を引き起こすか伝えた上で、パウロはこれら偽りの教理がどこから発生するのかを説明しますが、それは愛に問題があると説明します。5-6節を見ましょう。5この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。6ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り、
テモテに違った教えをする者に彼らの教える事が真実ではなく聖書に反すると伝える事の目的は、これら間違った教えをするものに愛を示す事であると書いています。間違った教理に立ち向かうテモテに対して、これら間違った教えをする者に対して持つべき歴然とした態度を伝えます。間違った教えをする者に対しては愛をもって向き合わないといけないとしています。そしてその正しい愛をもつためには3つの特定の条件を挙げています。純粋なる心、良心、そして真摯なる信仰です。これら純粋な心、良心、信仰を全て揃えるためには一つしか方法がありません。イエス・キリストを通してだけです。ダビデが祈ったとき詩篇51:10では「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」
彼は神様のみが我々の心と我々の人生を純粋に、そして罪から解放してくださることを理解しているのです。イエス・キリストは我々の罪の代価を十字架で償ってくださり、そのため我々がイエスを受け入れて彼の死によって我々の命と我々の将来を委ねた上で罪から完全に許されるのです。なぜならイエスを信じて受け入れることによって神様は我々を見た時に、完璧で聖なるイエス・キリストが映るのです。すなわち神様は聖なるイエスキリストによって我々を許し、我々に純粋な心を与えてくださるのです。
本当に純粋な心から我々には罪悪感から解放された良心が与えられます。ローマ人への手紙8:1では「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」とあります。神様は我々を罰するのではありません。彼の許しは完璧であり、それを知る事により我々は罪悪感から解放されて生きるのです。罪のしばりとはもはやサタンと我々自身からくるものです。そして我々の人生をイエス・キリストを通した神様との関係に集中する事によって、自らの罪深さのみに考えを寄せるのではなく神様の偉大なる恵みによって許された罪を常に心に留めることが出来ます。そしてこれは自らを身勝手なままに苦しめつける罪悪感ではなく、神様の素晴らしい恵みを単純に信頼することができます。
3つ目で最後に間違った教理に立ち向かうために必要な本当の愛を示すために必要な心の状態とは信仰です。信仰はイエス・キリストを通して神様から与えられたプレゼントです。エペソ2章8では「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」我々が受けている命令に背いて立ち向かわなければいけない相手に愛を示さない事とは何でしょうか?正しい理解の上で神様の前では我々には価値が無いことを理解することです。我々はキリストと正反対の所に位置していたのです。我々は純粋ではなく、我々は罪悪感に苦しめられ、我々の信仰は誤っているか存在していませんでした。神様は福音を通してそれを変えられました。そして福音の真実こそ我々が教え、守るべきことの心髄であり、すべての過ちを正しい道に戻してくれます。
違った教えをする者は、自身の生活の中でこれら3つの事から距離が生じたことによって、パウロが「無益な議論」と呼ぶように聖書の明らかな真実から空想に完全に傾いてしまっているのです。彼らは福音から目が暗み、良くても無益で意味のない詳細について議論するか、悪く言えば完全に間違った教えを展開しました。福音から距離が置かれてしまえば、その分だけ救いを通して神様が示される本当の愛ではなく、議論や不一致が蔓延して教会の一致へと繋がる愛ではなく、自らのプライドと傲慢さに駆り立てられて持論と自身の教えを展開するのです。そのため7節でパウロはこう言うのです:7律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。
傲慢とプライドの姿とは、まさにこの聖書の個所の通りです。教会の一致のために、他人を愛をもって接するのではなく、上から目線で兄弟姉妹を見下し、自分が全てを知っているかのようにふるまい、自身の思い付きと言いざるを得ない発想を神様からの教えであり聖書に示されている福音と同等とするのです。実際問題として彼らは聖書の根本的なポイントをミスっていながらも、まるで聖書を熟知しているかのように話すのです。神を否定して完全に受け入れない人たちを、パウロは同じような表現で書いています。ローマ人への手紙1:22-23「22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」違った教えをする人たちには正にこうなったのです。福音に書かれている神様の愛という強い基盤から離れ、実際は偽りの教えである自らの適当な理解とすり替えているのです。
しかしこの個所で大事なのは、真実が与えられている人はまず自らのモチベーションを見つめ直して、それが自らのプライドや自分を正当化するのではなく、愛に基づいているか確認することです。何年も後にエペソの教会がヨハネの黙示録2章に書かれていますが、どうやら偽りの教理に立ち向かう事を学びながら、そのようにするモチベーションが無くなったようです。ヨハネの黙示録2:1-6には「1エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。2「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。3あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。6しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」皆様、真実をもって間違いに立ち向かいましょう。そして同時にそのような教えをする者が欠陥する愛をもって教えましょう。
なぜ教会において間違いに面と向かう事がそこまで重要なのでしょうか?これがパウロがここで伝えている最後の部分です。パウロは偽りの教理が教えられる当然なる結末について話しており、早期に対応をして教会内にこれが根付く前に阻止しなくてはなりません。8-11節を見て行きましょう:8しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。9すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、10不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。11祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
すでに申し上げたように、現代の教会では同性愛とLGBTQのライフスタイルを、この世の中と同じく一般化しようとする強い動きがあります。このような動きの根底となる源は、最近展開されている教会内の論争からはるか昔から存在しました。宗教関連のニュースを見ている人であれば、United Methodist Churchの世界総会で今年の初めに行われた決議について知っているかもしれません。彼らは男と女が結婚するという聖書の基準をあえて選択して、僅差で決議が通りました。そもそもなぜこのような決議が必要だった理由は、アメリカとヨーロッパの多くのMethodist教会では、多くがまたはほとんどが教会での同性婚を一般化させようとしています。そしてこれはヨーロッパや北米に留まらず、まだ大きな開かれた動きではありませんが、日本でも動きが始まっています。幸いな事にまだ強いMethodist教会が多く存在しますが、そのようなしっかりした教会はヨーロッパや北米ではなくアジア・アフリカに見受けられます。
しかしヨーロッパや北米の教会はある日突然、聖書の権威ではなく聖書では罪とされている事を信望するようになったのではありません。まず聖書の権威を拒絶して排除する事から始まり、聖書の詳細の部分に疑問を持つ事に留まらず、その歴史背景、著者が誰かなどを使って当時の時代の産物として詳細を受け入れないという論調にさらされました。その結果、聖書は歴史的書物として神様について一部が記録されていながら、聖書そのものが神様が自らを知らせるための御言葉ではなくなっているのです。詩篇によれば完璧な神による完全な真実でありますが、それではなく人間の知識と知恵をより高い優先順位に位置付けているのです。詩篇18:30「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
我々のバプテスト信仰告白とメッセージに書かれている通り聖書を「間違いの余地が無い完全な真実」では無いとした時点で、聖書の権威がどんどん低下される恐れがあり、善悪を判別する位置づけも欠陥ししまいます。パウロは正にこれを危惧しており最後の3節において警告を発しています。違った教えの最終段階は罪の受け入れと常習に繋がるとしています。
引き続きユダヤ教に基づいた違った教えについて言及されています。パウロは7節で彼らが自らを教師で旧約聖書の律法の専門家だと思い込んでいるとあります。パウロは明らかに旧約聖書の律法は良いとしながらも、これが正しく適用される時のみだとしています。しかしこれら違った教えをする者は正しく理解して正しく教えていませんでした。パウロは心から聖書を重要としていましたし、旧約聖書を律法として理解していました。彼はつねに間違った教えとユダヤ化しようと教会を出入りし、ユダヤ人と異邦人にもクリスチャンになるためには旧約聖書の律法を守らないといけないと教えようとする人たちと戦っていました。これはまた別の手紙でガラテヤ人への手紙の中心的に書かれています。
今日の個所においては、旧約聖書の律法の役割とは罪が何かを示すためだとしています。罪のリストを列記して、律法を理解すればこれら項目が神様の律法であり基準に違反すると言っています。特定された罪では父や母を殺す者、嘘をつく者、同性愛者、人身売買をする者。これら人たちは6種類でまとめられる人たちに含まれています:律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、そしてこれらは偽りの教理の結果であると締めくくります。聖書に反する違った教えを信じるのです。
すなわち彼は律法と聖書は正しく解釈されなくてはならず、11節で何が正しいかを定義しています。11祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、こうなのであって、私はその福音をゆだねられたのです。
皆様、福音こそが真実を測る基準です。聖書に描かれている内容と異なる事、人間は罪を犯して不従順であるために神様に栄光を表すことが出来ないという事実、そして唯一創造主神様との関係を修復できるのはイエス・キリストを通してであり、我々の代わりに亡くなられた神の子であり、そしてそのイエスを信じ他には救いの方法が一切無い事を信じる全ての者に、救いと修復が与えられていること。もし誰かがこれと異なる事を教える、これ以外のメッセージを伝えるのであれば、これは間違いであり愛をもって立ち向かい、修正と修復が実現することを切実に希望しなくてはいけません。これは神様の栄光に関わることです。
福音のメッセージは神様が罪びとを救う事によって自らの栄光を表している訳であり、我々自らの栄光のためではなく神の栄光のためでなくてはいけません。そしていつの時代でも聖書を自らの教えと考えにすり替える事があろうとすれば、神様にあるべき栄光を取ってしまった事になります。これがパウロの福音であり、我々の福音です。教会での生活とはそれを生きて、従って、そして教会を滅ぼしかねない違った教えに立ち向かう事です。
もし偽りの教理が教会を分断させるのであれば、教会を団結して一致させるのは神の御言葉の真実で罪からの解放というイエス・キリストの死を通して与えられた栄光のメッセージです。明らかな真実であり、キリストの身体により団結される理由、すなわち我々が罪びとであり救い主を必要としている事に、集中しましょう。それが聖餐式または主の晩餐の意味です。このパンと杯を手にする事によって、キリストの血と身体が犠牲になったことを覚え、聖書のメインの真実に集中させて偽りの教えに巻き込まれないようにします。従って今朝我々はこの教会員であるか否かを問わず、イエス・キリストを救い主として信じる全ての人を招き、この聖餐式にご一緒に参加してください。私が祈った後にパンを全員に配った後に共にパンを口にし、杯を全員に配った後に共に杯を口にしましょう。まだキリストを受け入れていないお方はこのパンと杯は手にしないでそのまま次の方に回してください。お子様がいてまだ口にする準備が出来ていない方々にとっては、親にとって聖餐式の重要性を参加させない事によって伝えてあげましょう。共に祈り共に食しましょう。
1 Timothy 1:3-11 Dealing with False doctrine
Paul wrote 1 Timothy as we found out in the first two verses to Timothy after leaving him behind as the pastor in Ephesus. As we will see today, he left him there specifically to deal with false doctrine that had risen in the church. Now, we live in a different time and place, but there are still false teachings that can come into a church, and there is still a need to address false teaching in a church when we see it, just as Timothy was supposed to. Let’s read 1 Timothy 1:3-11 and see how we are to deal with false doctrine as live out our life in the Body of Christ. 1 Timothy 1:3-11, 3 As I urged you when I was going to Macedonia, remain at Ephesus so that you may charge certain persons not to teach any different doctrine, 4 nor to devote themselves to myths and endless genealogies, which promote speculations rather than the stewardship from God that is by faith. 5 The aim of our charge is love that issues from a pure heart and a good conscience and a sincere faith. 6 Certain persons, by swerving from these, have wandered away into vain discussion, 7 desiring to be teachers of the law, without understanding either what they are saying or the things about which they make confident assertions.
8 Now we know that the law is good, if one uses it lawfully, 9 understanding this, that the law is not laid down for the just but for the lawless and disobedient, for the ungodly and sinners, for the unholy and profane, for those who strike their fathers and mothers, for murderers, 10 the sexually immoral, men who practice homosexuality, enslavers, liars, perjurers, and whatever else is contrary to sound doctrine, 11 in accordance with the gospel of the glory of the blessed God with which I have been entrusted. Let’s Pray.
False teaching that goes against the revealed truth of the Bible is not something that we can just hope will go away and not address within the church. Right away we see in these verses the problem of False Doctrine, and how serious an issue it is. Verse 3-4 says, 3 As I urged you when I was going to Macedonia, remain at Ephesus so that you may charge certain persons not to teach any different doctrine, 4 nor to devote themselves to myths and endless genealogies, which promote speculations rather than the stewardship from God that is by faith.
Paul had left Timothy at Ephesus apparently as the lead pastor or at least a pastor or elder for the specific purpose of confronting false doctrine that certain people were starting to teach. We don’t know exactly what false doctrine was being taught, but in the word itself for “different doctrine” we know that it is teaching that is different than what was taught by Paul and the other Apostles, which is what we now have in the New Testament. We can also see in the content of the warning in verses 3-4 some of what may have been the issue here. He tells Timothy to charge these people not to teach other doctrine or to devote themselves to myths and endless genealogies.
There is reason to believe that what Paul is speaking of here refers to Jewish myths and traditions about where certain groups of people come from that had started to be shared alongside the actual Bible of the Old Testament books. Titus 1:14 is also warning against incorrect or false teaching and there Paul actually calls them “Jewish myths.” Titus 1:13-14 says, “This testimony is true. Therefore rebuke them sharply, that they may be sound in the faith, not devoting themselves to Jewish myths and the commands of people who turn away from the truth.” While we may not have the problem of Jewish mythology and geneology teaching that twists the meaning of Scripture, there are plenty of false teachings that can attack the church today.
These range from blatantly false errors that would openly say that the Scripture cannot be trusted and is simply a product of its Ancient Near Eastern construction and historic myths. These errors lead to what is taught in many churches and seminaries today. Dr. Serene Jones is the President of Union Theological Seminary. She made the following statement in an interview around Easter this year, “At the heart of faith is mystery. God is beyond our knowing, not a being or an essence or an object. But I don’t worship an all-powerful, all-controlling omnipotent, omniscient being. That is a fabrication of Roman juridical theory and Greek mythology. That’s not the God of Easter. The God of Easter is vulnerable and is connected to the world in profound ways that don’t involve manipulating the world but constantly inviting us into love, justice, mercy.” That is an example of a false teacher who is teaching pastors, but has completely rejected what the Bible teaches. I would say that those teachers, pastors and churches that are promoting homosexuality as acceptable by the Bible fit into this category. There is no legitimate hermeneutic that can make the Bible say it is anything but sin, but there is a big push even by a few who say they believe the Bible to normalize this sin within the church – That is false teaching and those who promote it are false teachers, who blatantly deny verses like even verse 8-10 of this passage today.
But there are other false teachers that are far less obvious, and those are the ones that I think Paul is concerned about Timothy addressing. Those teaching Jewish myths would not have denied the Old Testament, but put other teachings alongside it that would undermine it as the sole source of direct revelation from God. That is where the battle in evangelical churches who are committed to the gospel is at. Many churches would say they completely accept the Bible as the Word of God without error in the original manuscripts and completely trustworthy and authoritative. But some of those churches that we would completely agree with on those issues, are intentionally teaching doctrine, teachings, that undermine their stated belief in God’s Word. Whether it is talking about political issues apart from how certain moral issues are addressed in Scripture to the point that that becomes their primary message, or if it is teaching that modern day prophets and prophecy are to be trusted to the same level as Scripture and those prophecies begin to be the focus of teaching rather than Scripture.
Paul tells Timothy to charge these people to stop not only teaching these things but even devoting time to studying these beliefs. Charge here is really not a strong enough word, he is telling him to COMMAND these people to stop focusing on these speculative, divisive teachings that had no basis in Scripture and just caused doubt and arguing. False teaching is a serious problem that demands forceful and serious concern.
There are many teachings like this that may not be against the Bible, but are minor interpretations sometimes of specific things in the Bible, but are way overblown and can cause people to lose focus on what God has called us to focus on – the stewardship God has given us – which is the gospel. Well-meaning people can be divisive as they introduce their own interpretations or focusing far too heavily on minor points or outright false teaching that can mislead or greatly confuse those growing in Christ and in their knowledge of the Bible. This is who I think Paul is warning against.
After giving Timothy a description of this false teaching, and pointing out the problems that it causes, Paul then explains what is at the root of false doctrine, and we find out that it is a love problem. Look at verses 5-6. 5 The aim of our charge is love that issues from a pure heart and a good conscience and a sincere faith. 6 Certain persons, by swerving from these, have wandered away into vain discussion. In telling Timothy that he is to charge these false teachers or in other words instruct them that what they are saying is untrue and unbiblical, he tells him that the goal of this charge is to show love to those teaching false doctrine. He tells Timothy, as the one confronting the false doctrine, the attitude he needs to have in this confrontation and teaching of these false teachers. He says that all confrontation needs to based on love for those who are teaching incorrect doctrine. He says that three specific conditions in our life will lead to having the right kind of love. These are a pure heart, a good conscience and sincere faith. There is only one way to have a truly pure heart, a clear conscience and sincere faith. It is through Jesus Christ. When David prayed in Psalm 51:10, “Create in me a clean heart, O God, and renew a right spirit within me.” He understood that only God can make our hearts, our lives truly pure and sin free. Jesus Christ paid for our sin on the cross, so when we accept him, when we trust him with our life and our future as the only one who could take our punishment by his death, then we can be totally forgiven for our sin, because God looks at us and sees the perfection the holiness of Jesus Christ as the one who already was punished for us. This means that God will forgive us based on Christ’s holiness and gives us a clean or pure heart.
With a truly pure heart comes a clear conscience free of guilt. Romans 8:1 says, “There is therefore now no condemnation for those who are in Christ Jesus.” God is not condemning us. His forgiveness is absolute, and knowing that allows us to live without guilt. Whatever guilt we experience is from Satan and ourselves, but having our lives focused on our relationship to God through Jesus Christ, keeps us always mindful of not just our sinfulness, but God’s great grace that forgives our sin, and takes away our guilt that we selfishly beat ourselves up with instead of simply trusting in God’s wonderful grace. The final heart condition that will help us be truly loving in how we confront false doctrine is faith. Faith is also a gift from God through Jesus Christ. Ephesians 2:8 says, “For by grace you have been saved through faith. And this is not your own doing; it is the gift of God…” What will keep us loving in those who need to be confronted and commanded to stop teaching error? Its having the right picture of our unworthiness before God. The fact that we were in error without Christ. We were not pure, we were guilty and our faith was in the wrong things or non-existent. God changed us through the gospel, and the truth of the gospel, the core of what we are supposed to teach and hold to, can put those in error back on the right path.
It is by moving away from those three things in their own lives that caused those who were teaching falsehood to move away from the clear truth of scripture to speculation and what Paul calls “vain discussions.” They had lost sight of the gospel and started to focus on insignificant details at best or outright wrong teaching at worst. The further away you get from the gospel, the further away you get from genuine love that God shows in salvation and get sidetracked into arguments and disagreements that instead of leading to love that displays itself in unity in the church, leads to pride and arrogance on the part of those pushing their own agenda and teaching. That’s why in verse 7, Paul continues, 7 desiring to be teachers of the law, without understanding either what they are saying or the things about which they make confident assertions.
This is what arrogance and pride looks like. It is the person who instead of treating others with love that leads to unity, they treat others with an air of superiority, a know-it-all attitude, that raises their pet beliefs and teaching to the same level as the gospel, which is the primary teaching of all of Scripture. They have in reality missed the point of the Bible, but talk like they are the only ones who understand the Bible. This is the same way that Paul describes the ungodly who completely reject God in Romans 1:22-23, “22 Claiming to be wise, they became fools, 23 and exchanged the glory of the immortal God for images resembling mortal man and birds and animals and creeping things.” This is what has happened with false teachers, they have left the solid foundation of God’s love found in the gospel and replaced it with their own petty understandings which in reality are false teachings.
But it is important to note in this section that those who have the truth are first instructed to check their own motivations and see that they are based on love and not on a selfish prideful desire to be right. When we see the church at Ephesus addressed in Revelation Chapter 2 many years later, it seems that they definitely learned to confront false doctrine, but lost the right motivation in doing so. Revelation 2:1-6 says, “To the angel of the church in Ephesus write: ‘The words of him who holds the seven stars in his right hand, who walks among the seven golden lampstands. “‘I know your works, your toil and your patient endurance, and how you cannot bear with those who are evil, but have tested those who call themselves apostles and are not, and found them to be false. 3 I know you are enduring patiently and bearing up for my name's sake, and you have not grown weary. 4 But I have this against you, that you have abandoned the love you had at first. 5 Remember therefore from where you have fallen; repent, and do the works you did at first. If not, I will come to you and remove your lampstand from its place, unless you repent. 6 Yet this you have: you hate the works of the Nicolaitans, which I also hate.” Let’s confront error with truth, but also with the love that is lacking in those who are teaching the error.
And why is it so important to confront error in the church? This is the last part of what Paul is addressing here. He tells us what the result of false doctrine is, which tells us why it is important to confront and stop it before it takes hold in the church. Look at verse 8-11 8 Now we know that the law is good, if one uses it lawfully, 9 understanding this, that the law is not laid down for the just but for the lawless and disobedient, for the ungodly and sinners, for the unholy and profane, for those who strike their fathers and mothers, for murderers, 10 the sexually immoral, men who practice homosexuality, enslavers, liars, perjurers, and whatever else is contrary to sound doctrine, 11 in accordance with the gospel of the glory of the blessed God with which I have been entrusted.
Remember I mentioned earlier the push in many modern churches and denominations to normalize homosexuality and other LGBTQ lifestyles. The foundation of that effort began long before the denominational and church fights that make the news now. If you follow religious news at all, you may have heard about the vote at the worldwide United Methodist Church conference earlier this year. They voted to uphold the Biblical standard of marriage between a man and a woman, but only by a small minority of those voting. The only reason that they even needed that vote was because in US and European Methodist churches, many if not most were and are trying to normalize and perform same sex weddings. And believe me it is a push in every mainline denomination not only in Europe and North America, but even here in Japan although it may not be as open here. Thankfully there are still strong Methodist and other mainline churches, however most of those exist outside of Europe and North American and in places like Asia and Africa.
But those churches did not go from accepting the authority of the Bible to accepting what the Bible calls sin overnight. It started with rejecting the authority of the Bible, and then gradually progressed to not just questioning the details of the Bible – its history, who authored various books, which details could be rejected as simply the product of their era. They eventually would turn the Bible into at best a record containing some of God’s revelation to us, but not actual revelation with God speaking through these words. They put man’s wisdom and intelligence above the Word of God, which is described in Psalms as coming from a perfect God which makes it complete truth. Psalm 18:30 says, “This God—his way is perfect; the word of the Lord proves true; he is a shield for all those who take refuge in him.” Once you allow for the Bible to not be “truth without any mixture of error” as our Baptist Faith and Message explains it, it becomes easier and easier for the Scripture to lose the authority to determine what is right and wrong. This is exactly the warning that Paul is making in these last three verses. He demonstrates that the final path of false teaching leads to acceptance and practice of sin.
We continue to see the Jewish roots of whatever specific error was being taught. He said in verse 7 that these people believed they were teachers and experts in the Old Testament law. Paul now makes it clear that the Old Testament law is good, but only when properly understood and applied. These would be teachers were not understanding and teaching it properly. Paul cared deeply about the Scriptures, which would have been understood as the Old Testament and specifically the law. He was constantly fighting the false teachings of the Judaizers who came into churches and tried to convince Jews and Gentiles that in order to truly be a Christian, they had to follow the Old Testament law. This was the main focus of his letter to the Galatian church that we know as Galatians.
In this case, he is summarizing that the proper use of the Old Testament law is to clearly show what is sin is. He lists some of those sins that understanding the law makes clear are a violation of God’s law – his standards. Specific sins like, disrespecting parents, murder, lying, homosexuality, and slave trading or possibly kidnapping. All of these are included in the 6 different ways he describes people who commit these sins, lawless and disobedient, …ungodly and sinners, … unholy and profane… And he ends by saying that all of those sins were the result of false doctrine. Believing a false teaching that goes against the Bible.
In other words, he is saying that the law, the Scripture must be interpreted properly, and then defines what is proper in verse 11 by saying, “11 in accordance with the gospel of the glory of the blessed God with which I have been entrusted.” Folks, the gospel is the measure of truth. Anything that would take away or present a different picture than the one the Bible paints – that humans are sinners who have failed to obey and glorify God, that the only way to restore the relationship with God our creator is through Jesus Christ, God’s Son who died in our place, that salvation and restoration is available to all who will believe and accept that Jesus died in their place, trusting nothing else for their salvation. If anyone teaches anything that changes or displaces that message with something else, it is error and must be confronted in love with the hope of correction and restoration. This is an issue of God’s glory. The gospel message is central to God glorifying himself by saving sinners, and we must be about God’s glory and not our own. And any time we start to replace the Scripture with our own beliefs and teachings, we have taken the glory rightfully belonging to God. This was Paul’s gospel and this is our gospel. Life in the church means that we live it, we obey it, and we protect it by confronting any teaching that would diminish it.
If false doctrine divides a church, what unites us is the truth of God’s Word, and its glorious message of freedom from sin through the death of Jesus Christ. Let’s focus on the clear truth that unites all of us within the body of Christ that we are sinners in need of a Savior. That is what the Lord’s supper or Communion is all about. As we take this bread and this cup, this memorial to the sacrificial blood and body of Christ keep’s us focused on the main truth in all of Scripture and keeps us from getting sidetracked to false teaching. So, this morning I invite all of you who know Jesus Christ as your savior whether you are a member or not to share in this Communion with us. After I pray the Deacons will pass out the bread and we will eat together and then the cup and we will drink together. If you have not yet accepted Christ, please let the trays pass by you, and if you have children who are not ready, it is a good opportunity for parents to teach the important of the Lord’s Supper by not letting them participate. Let’s pray as we share this meal together.