1 Timothy 2:1-7 The Church at Prayer
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1Timothy 2:1-7 Prayer in the Church
English follows Japanese
おはようございます。今朝の礼拝は祈りに注視してきましたが、引き続きパウロが若い牧師テモ
テに向けた励ましの中で正にこの祈りについて与えた祈りです。いつも皆様は何を祈りますか?
我々のほとんどは、我々自身のまたは友人・家族の健康であったり、経済的な事であったり、又
はその他かもしれません。パウロがテモテにかけた言葉で注目しているのは、最優先されるべき
でありながらも無視されがちである内容です。今日の祈りのトピックでもありました、宣教活動
1
についてですー福音を広めることです。第一テモテへの手紙 2:1-7 そこで、まず初めに、この
ことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、
2
祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔に、また、威厳を
3
もって、平安で静かな一生を過ごすためです。 そうすることは、私たちの救い主である神の御前
4
において良いことであり、喜ばれることなのです。 神は、すべての人が救われて、真理を知るよ
5
うになるのを望んでおられます。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、
6
それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身
7
をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 そのあかしのために、私は宣
伝者また使徒に任じられ――私は真実を言っており、うそは言いません。祈りましょう
第一テモテのの第一章ですが、こちらはパウロがなぜそもそもこの手紙を書いたかが記されてい
ますが、それはエフェソの教会で間違った教えをする偽りの教師の対応をテモテが行う必要があ
ることを伝えるためでした。次にパウロは祈りについて話しますが、テモテが行わなくてはいけ
ない事の全ての基礎となる内容です。今日の箇所の冒頭は「まず初めに」とあります。パウロは
この手紙で多くの項目について話してテモテに理解して欲しい事は多々ありますが、その中でも
パウロはまず祈りから始めるのです。YIBC のビジョン・ステートメントが「祈り心をも
ち。。。神の栄光を現す教会として存在する。」と唱っているのには理由があります。
文法上、日本語はステートメントの後半に記されているのは分かっていますが、同じく強調して
いるのは YIBC で行われる全ては祈りを基礎に造られないといけないという事です。第 1 テモテ
において同じく祈りを強調しています。
パウロはこの手紙で様々な教会の課題を取り上げていきます。来週も引き続き第一テモテからの
説教となりますが、教会における女性についてです。さらには牧師または長老、さらには執事の
役割について、そして神に仕える相応しい人の必要性について話します。パウロによるこれら指
示を従うためには知恵と聖霊による導きが必要です。したがってパウロは我々の Ministry 全て
が始るべきところから始めます。祈りです。次に我々が注目するべきことを第 1 節から見受けら
1
れるのは、祈りをどのように定義しているかです。 。。。願い、祈り、とりなし、感謝がささげ
られるようにしなさい。パウロは 4 つの単語を用いて祈りを定義します。一つ一つの単語は、
我々の祈りの習慣に見受けられるべき 4 つの側面を提起しています。新約聖書には祈りを 7 つの
単語で表現していますが、ここにはその内の 4 つが記載されています。まずは願いです。我々に
はニーズがある事が記されています。我々が最も必要としているのは救いですが、しかし救われ
たあとは神様の力によって神が望む人生を生きるのです。我々の祈りは願い事ばかりであっては
いけませんが、同時に神様に何もお願いしてはなならないといった考えは誤っています。神様は
我々のリクエストを聞きたいのです。第一ペテロ 3:12 によると神様は我々に耳を傾けてくださ
ります。主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を
行なう者に立ち向かう。
二つ目の単語は祈りです。新約聖書で祈りを表現するために最も頻繁に利用される単語で、公と
個人の祈りの両方で使われる言葉です。本日の箇所においては礼拝時に行われる公の祈りだと思
われます。祈りという単語自体何かを願うという意味合いをもっていますが、この単語はもっと
全般的な利用です。願いは特定の願いとリクエストであるのに対し、我々はただただ日々の生活
について祈る必要があります。次が 3 つ目の単語になりますが、とりなしです。この言葉の定義
を知った時、わたしには衝撃でした。
手紙が書かれた元の言語では、祈りは会話であるという意味合いをも含めています。神様と自由
に会話できる密接な関係について語っています。自分がこれを見てイメージするのはこうです。
自分の伴侶か親友と過ごす時間があるとします。そしてただただ自由に会話を楽しむのです。深
く難しい内容について話す訳でもありません、ただ一緒に共有する人生についてお互いの考えを
シェアするのです。これは我々の伴侶とする会話としても難しいのですが、神様とになるとさら
に難しさが増します。
我々が神様と過ごすべき時間を押し出すように、我々の周りには常に多くの事が起こっていま
す。我々がちょっとした余裕の時間が与えられると Facebook を見たり、神様と話して聖書を読
み、神様に耳を傾けるよりもスマホに目を傾けているかもしれません。このような神様とのとり
なしと会話を「絶えず祈りなさい」と第一テサロニケで書いたパウロがイメージしていたのかも
しれません。あえて祈りという全般的な言葉を用いたのは公けの祈りに際してではないかと言い
ました。我々が公の祈りを通じてお互いを励ますのは、我々が実際にプライベートな環境で個人
的に神様との時間を共用していればの話です。このように公とプライベートが関連しているので
す。Origen という初期教会における偉大な著者、この祈りという言葉は神様の王座に近づく重要
な言葉であると考えていました。へブル人への手紙 4:16 ではこう書かれています。ですから、
私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆
に恵みの御座に近づこうではありませんか。
我々は神様と話す時に恐縮する必要は無く、我々は自身をもって何についても神様に相談して良
いのです。さらには我々はこれを頻繁に神様との会話を行うべきです。
パウロが 4 つ目の単語として使っているのが感謝をささげるです。ギリシャ語の言語は
eucharist の由来でもあります eucharistia です。いわゆる主の晩餐です。教会が聖餐式を守ると
き、これは必ず感謝を捧げる時であるべきです。そして毎回祈りを捧げる時、感謝もこの一部で
あるべきです。我々が過去について神様に感謝を捧げると、神様に対する将来への信仰が増しま
す。これが詩篇 9:10 で教えらている「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたは
あなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」もし祈りが我々について、我々が必要
として欲望することばかりとなったら、我々は祈りの目的を見失っています。感謝をささげると
いう要素を入れる事によって我々は詩篇の著者が詩篇 34:8 に書かれている「主のすばらしさを
味わい、これを見つめよ。」を絶えず味わい続けられるのです。我々は神様が本当にどんなに素
晴らしいかを覚え、思い起こしているのです。
パウロは我々に祈りが何であるかを伝えた上で、誰に向けて祈りと感謝を捧げるべきかを書き記
します。第 1 節はすべての人のためにとあり、また王とすべての高い地位にある人たちのために
と書いています。もしかしたら間違った教えをしている偽りの教師は特定の人たちを対象に誤っ
た教えてを展開していたのかもしれません。確実にとは言えませんが、パウロは我々の祈りが全
てを含むべきだと書いています。さらにイエスはマタイ 5:44 でこのように書いています「しか
し、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
もし祈りが我々の敵を含めるべきなのであれば、だれも神様への祈りから除外される人はいませ
ん。それは我々が絶対に賛同できない政治家も含めてです。面白い事に、全員のために祈りなさ
いと言った後にあえて王と高い地の人のためにいのるようにと書いています。当時の時代は民主
国家の大統領や首相という発想はなかったでしょうが、パウロが 2019 年に書いていたら王や天
皇、大統領や首相、衆院議員、参院議員、大臣、代表者と書いていたかもしれません。我々が批
判を惜しまないリーダーたち、あなたとわたしのように同じ考えをもっている人たちのみではな
く、我々とは反対の意見の人たちをも納得させようとして、同時に仕えている国のために善い事
をしようとしている人たちです。しかし忘れてはいけないのは、パウロは邪悪なネロ皇帝が統治
するローマ帝国の時代に生きており、クリスチャンを娯楽の一環で殺し、自らの利益と権力を貪
欲に追求し、そもそもローマ帝国のためなど考えていませんでした。
皆様の出身の国での政治思考がどうであろうと、あなたは政府のために祈るべきと指示されてい
ます。それは独裁者であれ、民主選挙であなたが真っ向から反対する政策を推す政治家も含めて
です。どんな政府で、どのような形で権力を奪取したかも関係ありません。聖書ではクリスチャ
ンが彼らのために祈らないという選択肢は与えていません。我々のほとんどの出身地では自らの
リーダーを選ぶ権利が与えられていますが、我々はその責任を真剣にそして祈りをもって捉えな
いといけません。さらにはクリスチャンとして我々にはこの世の中が反対する政治家に対して示
す態度を持つ事は許されていません。ローマ人への手紙 13 章では、聖霊なる神様が使徒パウロ
を通して我々が誤った、又は暴君的とも言えるような政権を含めてクリスチャンとしてどうある
べきか言っています。繰り返し申し上げますが、当時の政権はネロ皇帝であり、この手紙の宛先
となっているローマに住む彼らはこのネロの狂気ともいえる弾圧と憎しみの対象となっているの
1
です。ローマ人への手紙 3:1-7 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威は
2
なく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。 したがって、権威に逆らっ
3
ている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 支配
者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れた
4
くないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。 それは、彼があ
なたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れ
なければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪
5
を行なう人には怒りをもって報います。 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心の
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ためにも、従うべきです。 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつも
7
その務めに励んでいる神のしもべなのです。 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。み
つぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、
恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
この個所を詳細に解説はしていきませんが、最悪のリーダーに統治された政権をも含めて従う事
を信者には求められています。そして従うという行為の一環の一つは彼らのために祈るというこ
とです。
パウロは我々に対して祈りは何か、誰のために祈るべきかを書くだけではなく、第 2 節では祈り
2
をどのような内容にするべきか書いています。第 2 節は それは、私たちが敬虔に、また、威厳
をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。とあります。ある意味でパウロは我々が人間で
あるリーダーのために祈るべきことは、戦争と迫害が無い世の中を形成できるようにリーダーが
知恵と知識が与えられるように祈るべきだと書いています。しかしこの個所が兼ねている意味合
いを考えた時、我々はパウロが第二テモテで迫害について書いている事と、今日の第一テモテの
個所で書かれている平安で静かな一生を同時に考えなくてはいけません。第 2 テモテ 1:8 は「で
すから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけま
せん。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。」さらには第
2 テモテ 3:12 では確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を
受けます。と書いてあり、パウロは迫害が当然のようにクリスチャン生活の一部であると書いて
います。従ってどんなにクリスチャンとして平安で静かな一生であっても、それは必ずしも様々
な困難や迫害から解放される訳ではありません。
第 1 テサロニケ 4 章はここで書かれている内容の意味を若干分かりやすくしています。第 1 テサ
10
ロニケ 4:10-12 にはこのように書かれています 実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対し
て、あなたがたはそれを実行しています。しかし、兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どう
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か、さらにますますそうであってください。 また、私たちが命じたように、落ち着いた生活を
12
することを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。 外の人々に対してもりっぱ
にふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。パウロが言っている静かな
一生は我々が未信者の人に対して行う証に直接関連するものであり、彼らが我々を見てクリスチ
ャン・コミュニティが他の会合とどのように違うかを見る事が出来て、より知りたいという気持
ちを駆り立てます。我々の証こそパウロが第 1 テサロニケ 4:12 で「外の人々に対してもりっぱ
にふるまう」と書いているところです。パウロが書いている平安と静かな一生とは我々のリーダ
ーについて祈る事によって、彼らが平和をもたらすと言っているのではありません。キリストの
体と共にある平和であり、我々がキリストの体に連なっていることによりキリストの体の外の者
に見せるキリストらしい振る舞いです。いわゆるヨハネ 13:35 で書かれている事を成就するため
です「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模
範を示したのです。」この平安はお互いへの愛からなっており、これは我々がイエス・キリスト
に属しているため迫害を繰り返すリーダーに対しても、同じ平安と静かな一生を経験できるとい
う宣言なのです。
これこそパウロがこの 4 節で書いている祈りの目的です。我々がもし祈りの中で我々が教会を通
して祈る姿によって人々がイエスを見出し彼を理解した上で受け入れる事を含めていないのであ
れば、我々はイエス・キリストに従い彼を礼拝する人生のそもそもの目的―大宣教令の成就―を
無視しているのです!第 3 節でも明らかなように、これこそが神様の心であり、我々の祈りが合
3
致していないといけません。 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いこと
4
であり、喜ばれることなのです。 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望ん
でおられます。良いことでありとありますが、これは第 1 節に戻る形でつながっており、全ての
ひとと書かれている事は、第 4 節で書かれている神様が救いたい全ての人を意味しています。
5
パウロはこのセクションをなぜ宣教が祈りの目的であるべきかを 5-6 節で伝えます。 神は唯一
6
です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってな
されたあかしなのです。神様は全ての人に真実を知って欲しいのです。なぜなら実際問題として
人間が創造主神様の御前に立つことはイエス・キリスト以外を通してはあり得ないからです。仲
介者とは争いあっている、戦争状態で敵対している当事者の間に入って平和を仲裁する人です。
世界中で人々は自身の生い立ちと育った環境の中ですでに神様を追い求めています。アメリカに
いる多くの人にとってキリストは生い立ちの一部であり、モラルのバロメーターに過ぎず、本当
の福音が欠けていたり、自分を見つめて自身に満足できるための一部に過ぎません。又日本では
仏教徒と神道の曖昧の中であったり、カトリックや正教会の儀式的キリスト教であったり、ナシ
ョナリズムの一環かもしれませんが、大半の人は神様を見つけておらず、実際問題は神様と戦争
状態にあります。ローマ人 5:1 には「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たち
の主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。イエス・キリスト
が彼の目的通り平和を仲裁してもたらすのであれば、まず必要な真実とは我々と神様は敵対関係
にあるということです。
この戦争の理由は我々が、全ての人が、罪をおかしたからです。罪とは神様に従わず、神を創造
主として栄光を表さないことです。これは社会的にも文化的にも理解されるものではなく、霊的
にしか理解できないものです。ローマ人への手紙 5 章では、最初の人間であるアダムが罪を犯し
た時点で、それ以降に産まれた全ての人間は最初の人間であるアダムと同様の罪びとであると書
いています。ローマ人 5:12 には「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界には
いり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも
全人類が罪を犯したからです。」この問題となった罪はローマ人への手紙 5 章であるように、死
という必然的な代償を意味しました。この死は肉体の物理的な死と同時に、霊的でかつ永遠の死
であります。
しかしイエス様が罪の代価として、自らを身代金として差し出してくださいました。神様の怒り
を我々では無く、すべて一身に引き受けました。これによって我々の罪の代価は支払われまし
た。罪という身から創造主との関係を元の本来の地位へと修復してくださいました。我々が神に
対する罪に対して責任があり、そしてこの罪の代価としてイエス様が十字架で亡くなられたこと
を認めて、我々のために犠牲になられたことを受け入れて信じ、イエスを救い主として受け入れ
るのであれば、彼は我々と神様の間の仲介者となります。神様はキリストの罪なき聖なるお方が
我々の罪のためにお亡くなりになられたことに基づいて、我々を神の子供としてくださります。
神様はパウロが 7 節で指摘したように、キリストの犠牲に基づいて我々をお許しになり、そのた
め我々はそれを他人とシェアする義務が発生し、そのために我々は宣教を通して福音を宣べ伝え
7
るという目的を祈りに含める必要がある事に話が戻ります。7 節では そのあかしのために、私
は宣伝者また使徒に任じられ――私は真実を言っており、うそは言いません。
皆様、神様はあなたを次の聖徒パウロが当時知られている全世界に教会を始めるようにと呼びか
けてはおりません。しかし、皆様も忠実にこの素晴らしいメッセージを、この良きニュース、福
19
音を伝えるようにと呼びかけています。大宣教令はマタイ 28:19-20 にあります
それゆ
え、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名に
20
よってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るよう
に、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいま
す。」これは当時の聖徒たち、その後の牧師たち、宣教師たちだけに向けられたメッセージでは
ありません。キリストに従う全ての人に向けたメッセージです。そして我々が行う全ての行動と
同じく、まず祈りに力付けれられて始まらなくてはいけません。あなたもわたしも誰一人と救う
ことなどできません、それは聖霊の働きです。しかし我々はすべての人にこの良き知らせを宣べ
5
伝えるようにと呼びかけられています。 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であ
って、それは人としてのキリスト・イエスです。祈りましょう
Good morning. Today our focus has been on prayer, and that focus is also the theme of
what Paul now talks to Timothy about as he continues to encourage this young pastor in
his call. What do you normally pray for? For most of us, we probably focus on our health
or that of others, needs in our lives, maybe finances or something else. Paulʼs words to
Timothy will lead us to focus on a primary, but often overlooked focus in our prayer life ‒
the spread of the gospel, or evangelism, the focus of our corporate prayer today. Letʼs
begin by reading 1 Timothy 2:1-7, First of all, then, I urge that supplications, prayers,
intercessions, and thanksgivings be made for all people, 2 for kings and all who are in
high positions, that we may lead a peaceful and quiet life, godly and dignified in every
way. 3 This is good, and it is pleasing in the sight of God our Savior, 4 who desires all
people to be saved and to come to the knowledge of the truth. 5 For there is one God,
and there is one mediator between God and men, the man Christ Jesus, 6 who gave
himself as a ransom for all, which is the testimony given at the proper time. 7 For this I
was appointed a preacher and an apostle (I am telling the truth, I am not lying), a
teacher of the Gentiles in faith and truth. Letʼs pray.
The first chapter of 1 Timothy focused on why Paul was writing this letter, to help
Timothy understand the need to deal with the false teachers that were trying to
influence the Ephesian church. Now he turns to the subject of prayer as foundational to
everything that Timothy is being asked to do. Notice how he begins - First of all, then...
Now Paul is going to cover a lot more stuff that he wants Timothy to understand and
act on before we get to the end of this short letter, but his starting point is prayer.
There is a reason that we put in our vision statement for YIBC, “We exist to glorify God
by prayerfully equipping followers of Christ…” 「わたしたちは、言語や文化の如何にかかわ
らず、互いに愛をもって仕え合い、一致し、祈り心をもち、聖書をとおしてキリストの弟子を整
えることにより、また、イエス・キリストを信じる者および新しい教会を生みだすことによっ
て、神の栄光を現す教会として存在する。」 I know in the Japanese version that it comes
later, but with the same emphasis that everything else we do here at YIBC must be built
on a foundation of prayer. That is the same emphasis that Paul is placing on prayer here
in the book of 1 Timothy.
As this book continues, Paul will discuss things that are controversial even today, like
our next sermon from 1 Timothy as we discuss his words regarding women in the
church. He will be discussing the roles of Pastors or Elders and Deacons, and the need
for godly people to fill those roles. These types of instructions all require wisdom and
leading from the Holy Spirit to obey. And so, Paul starts where all our ministry should
start- with prayer. We need to look next, though, at what he is telling us about prayer in
how he identifies it here in verse 1…First of all, then, I urge that supplications, prayers,
intercessions, and thanksgivings be made…Paul uses 4 different terms for prayer to
define for us First, what prayer is. Each of these words really give us 4 different
aspects that should be present in our prayer lives. There are 7 different words for
prayer in the New Testament and here we see 4 of them. The first word translated
supplications is very simply requests. It shows that we have a sense of need. Our
greatest need is salvation, but after that, it is Godʼs power to live the life that he has
called us to. Our prayers should never stop at simply asking for God to meet our needs
or our desires, but we also should not think that we cannot ask God for things. God
wants to hear our requests and 1 Peter 3:12 tells us he is listening when it says, “For
the eyes of the Lord are on the righteous, and his ears are open to their prayer. But the
face of the Lord is against those who do evil.”
The second word is the most general word that is translated prayer. It is the most
common one in the New Testament, and can be used for both public and private prayer.
In this context, it is most likely being considered public prayer offered in corporate
worship. It also carries the idea of asking for something, but is far more general.
Supplications is specific needs and requests, but we also need to simply pray to God
about our everyday lives. Which leads to the third word for prayer here ‒ intercession. I
was convicted by this word when I understood the definition of it.
In the original language it carries the idea that prayer is a conversation. It speaks of
close communion with God that we freely carry on conversations with. I think of maybe
spending time with your spouse or a good friend, and you spend the time just
talking…not necessarily about anything deep, but just sharing your thoughts and details
of your life together. This is hard enough to do sometimes with our spouses the way we
are supposed to, but with God, I find it even more difficult. So, many things can crowd
out the time we should be spending with God, and need to spend with God. When we do
get downtime, perhaps the Facebook app on our phone gets more attention than simply
talking to God or reading the Bible to listen to what he has to say. This form of
intercession and conversation with God is likely what 1 Thessalonians 5:17 has in mind,
when Paul says there, “pray without ceasing.” Remember that I say the word, prayers,
which is just the generic word for prayer was likely in context referring to public prayer.
You and I can only build others up with our public prayer if we really spend time with
God in private. That is how these two are related. Origen, one of the greatest early
church scholars believed that this word was strongly related to being able to boldly
access Godʼs throne. This is what Hebrews 4:16 says, “16 Let us then with confidence
draw near to the throne of grace, that we may receive mercy and find grace to help in
time of need.” We do not need to be timid about talking to God, but we can have
confidence to approach God about anything, and we should be doing it regularly and
often to spend time talking with our God.
There is a fourth word that Paul uses for prayers here, and that is thanksgivings. The
Greek word we translate as thanksgiving is the word eucharistia, where we get the word
eucharist from. In more liturgical churches this is what you would call communion or the
Lordʼs Supper. When the church celebrates Communion, this should always be a time of
giving thanks, and anytime we pray thanksgiving should be a part of our prayer. When
we thank God for what God has done for us in the past, it will increase our faith in God
for the future. This is what Psalm 9:10 teaches when it says, “And those who know your
name put their trust in you, for you, O Lord, have not forsaken those who seek you.” If
prayer becomes all about us and our needs and desires then we have missed the point
of prayer. By including this aspect of thanksgiving, we never cease to do what the
Psalmist says in Psalm 34:8, “Oh, taste and see that the Lord is good!” We are
remembering and reminding ourselves of how good our God really is.
After telling us what prayer is, Paul then discusses who we should be offering
these prayers and thanksgiving for. Verse 1 ends for all people, then verse two tells us
2 for kings and all who are in high positions… The false teachers may have been limiting
their concern to specific groups that they targeted with their false teaching. I canʼt say
that with certainty, but itʼs clear that Paul is telling us that our prayers should include
everyone. Jesus goes so far to say in Matthew 5:44, “But I say to you, Love your
enemies and pray for those who persecute you.” If prayer is supposed to include even
our enemies then no one should be excluded from our prayers to God on their behalf,
even those we may strongly disagree with, like politicians! Isnʼt it interesting that after
saying pray for all people, Paul specifically says, prayer for kings and those in high
powerful government positions. The world of that time knew nothing of Presidents and
prime ministers, but if Paul was writing this in 2019, he would probably say to pray for
Kings, Emporers, Presidents and Prime Ministers, Congressman, Senators, Ministers
and Representatives. Those people we love to complain about, who are trying to please
people who think like you do or like I may, but are also trying to please people who
disagree with us, and occasionally may be actually trying to do things for the good of
the country they serve. But remember, he is living in the time of the Roman empire
under a vile and immoral emperor named Nero, who killed Christians for sport and cared
nothing about the good of the Roman Empire as long as he maintained his power and
ability to feed his immoral appetites.
Folks, no matter what you believe politically in whatever country you are from, you are
commanded to pray for your government officials. Yes, even those who may be literal
dictators or even democratically elected politicians whose policies you despise. It doesnʼt
matter the form of government or how that person came to power, the Bible does not
give Christians the option of not praying for them. Most of us in here currently live in or
come from a country that provides us the right choose our leaders to one degree or
another, and we should take that responsibility seriously and prayerfully. But as
Christians, we donʼt get the right to treat those we disagree in the same way anyone
else in the world would. When we look at Romans 13, we see God the Holy Spirit
speaking through the Apostle Paul and telling us his view of how Christians respond to a
government that is wrong or even tyrannical. Remember, the emperor of that time is
Nero, and the people being written to are most directly in his path of hatred and really
insanity since they live in Rome. Romans 13:1-7 says, “Let every person be subject to
the governing authorities. For there is no authority except from God, and those that
exist have been instituted by God. 2 Therefore whoever resists the authorities resists
what God has appointed, and those who resist will incur judgment. 3 For rulers are not a
terror to good conduct, but to bad. Would you have no fear of the one who is in
authority? Then do what is good, and you will receive his approval, 4 for he is God's
servant for your good. But if you do wrong, be afraid, for he does not bear the sword in
vain. For he is the servant of God, an avenger who carries out God's wrath on the
wrongdoer. 5 Therefore one must be in subjection, not only to avoid God's wrath but
also for the sake of conscience. 6 For because of this you also pay taxes, for the
authorities are ministers of God, attending to this very thing. 7 Pay to all what is owed
to them: taxes to whom taxes are owed, revenue to whom revenue is owed, respect to
whom respect is owed, honor to whom honor is owed. We are not going to go into a full
exposition of that passage, but it is clear that submission to government, even those
with bad leadership, is the expectation for a believer. And part of that submission to is
to pray for them.
Paul not only tells us about what prayer is, and who we are to pray for, but he continues
in verse 2 to tell us what the content of our prayers should be. Verse 2 continues, that
we may lead a peaceful and quiet life, godly and dignified in every way. In one sense
Paul is saying that we pray that our human leaders have the wisdom and knowledge
needed to lead in such a way that there is peace and freedom from war and
persecution. But, when we consider what meaning is intended here by this verse, we
have to weigh what Paul says regarding persecution in 2 Timothy when trying to
determine what peaceful and quiet life he is talking about. 2 Timothy 1:8 says,
“Therefore do not be ashamed of the testimony about our Lord, nor of me his prisoner,
but share in suffering for the gospel by the power of God.” And 2 Timothy 3:12 says
“12 Indeed, all who desire to live a godly life in Christ Jesus will be persecuted.” Paul
expected persecution to be a normal part of the Christian life, so whatever this quiet life
is, it is not necessarily one that is free from conflict and persecution.
1 Thessalonians 4 sheds light on what he means here. 1 Thessalonians 4:10-12 says,
“10 for that (loving one another) indeed is what you are doing to all the brothers
throughout Macedonia. But we urge you, brothers, to do this more and more, 11 and to
aspire to live quietly, and to mind your own affairs, and to work with your hands, as we
instructed you, 12 so that you may walk properly before outsiders and be dependent on
no one.” The quiet life that Paul talks about here in 1 Thessalonians 4 is tied to our
testimony before non-believers that will lead them to wonder what makes a Christian
community different from others and create a desire to know more. Our testimony is
what Paul is talking about when he says in 1 Thessalonians 4:12, “that you may walk
properly before outsiders.” Paulʼs concern with praying for a peaceful and quiet life is
not primarily a prayer for leaders to provide that security, but for this peace be present
within the body of Christ, that shows our godliness, our Christlike behavior towards
each other to those outside of the body of Christ. In other words, fulfill the command of
Jesus in John 13:35, “By this all people will know that you are my disciples, if you have
love for one another.” This peace comes from unity driven by love for each other, which
then clearly declares even to leaders and others who would persecute us that we belong
to Jesus Christ and that they can experience the same peace in their lives.
This is really the goal of our prayers as Paul reminds us in these last 4 verses. If we are
neglecting to pray that people see Jesus in us and in our church and come to
understand and accept him, then we are forgetting the goal of a life that is lived as a
worshipper and follower of Jesus Christ ‒ to fulfill the great commission! This is Godʼs
heart that we should be in agreement with in our prayers as we see in verse 3, 3 This is
good, and it is pleasing in the sight of God our Savior, 4 who desires all people to be
saved and to come to the knowledge of the truth. The words, This is good, relate back
to verse 1…that prayers…be made for all people. The same “all people” in verse 1 that
we are supposed to be praying for is the same “all people” in verse 4 that God wants to
save!
Paul then ends this section by showing why this should be the goal of our prayers.
Verse 5-6 says, 5 For there is one God, and there is one mediator between God and
men, the man Christ Jesus, 6 who gave himself as a ransom for all, which is the
testimony given at the proper time. God wants all people to come to the truth, because
the truth is that there is no other way for any human being to come to their creator God
apart from Jesus Christ. A mediator is one who comes between two warring parties in
order to make peace. All around the world people are seeking God according to their
own culture and background. And while for many in America, it is through a sort of
cultural Christianity or moral therapeutic deism as it has been called, that many times
lacks the true gospel or through some atheistic notion of seeking for ultimate
satisfaction through looking deep in yourself. Or here in Japan through a cultural belief
whether strong or weak in the forms of Buddhist and Shinto beliefs, or in other parts of
the world through even the trappings of liturgical Christianity found in Roman
Catholicism or some form of national Orthodox church or patriotic nationalism, the
majority of people are actually not finding God, and unknown to them, they are actually
at war with God. Romans 5:1 says, “Therefore, since we have been justified by faith, we
have peace with God through our Lord Jesus Christ.” If Jesus Christ brings peace, which
is the goal of a mediator, then the truth must be that there is a war between us and
God.
That war is because all of us have sinned, and sin is defined as our failure to obey God
and glorify him as our creator. It is not socially and culturally understood, but spiritually.
Romans 5 goes on to explain that once the first human, Adam, sinned, that after that all
of us were born sinners and have sinned and broken Godʼs commands just as the first
human, Adam. Romans 5:12 says, “Therefore, just as sin came into the world through
one man, and death through sin, and so death spread to all men because all sinned̶"
That sin demanded the penalty or punishment of death as we see here in Romans 5.
This is both spiritual and eternal death as well as physical death that we all experience.
But Jesus became our ransom, in other words, he took the punishment for our sins, by
God pouring out his wrath on God the Son, Jesus Christ, instead of us. This paid for our
sins, and bought us back- ransomed us- from sin and restored us to our rightful place in
relationship with our creator. When we recognize that we are guilty of our sin against
God, and that Jesus died on the cross to pay for our sin, and accept his sacrifice by
believing that he died for us and accepting him as our Lord and Savior, then he becomes
the mediator between us and God. God accepts us as his children based on Christʼs
sinless holiness and as the one who already paid for our sins.
God forgives us, based on Christʼs sacrifice and then just as Paul points out in verse 7,
gives us the task of sharing him with others, which leads us right back to why we should
have the goal of evangelism in our prayers. Verse 7 says, 7 For this I was appointed a
preacher and an apostle (I am telling the truth, I am not lying), a teacher of the Gentiles
in faith and truth. Folks, God has not called you as another Apostle Paul, to start
churches throughout the entire known world of the time. But, he has called you to be
faithful in sharing this great message, this good news, the gospel. The great commission
is found in Matthew 28:19-20, 9 Go therefore and make disciples of all nations,
baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit, 20
teaching them to observe all that I have commanded you. And behold, I am with you
always, to the end of the age.” This was not just for Apostles then or pastors and
missionaries now. It is for every follower of Christ. And as with everything we do, it must
start and be empowered by prayer. You and I do not save anyone, that is the work of
the Holy Spirit. But, we are called to proclaim to everyone the good news that “there is
one God, and there is one mediator between God and men, the man Christ Jesus.” Letʼs
pray.