1 Timothy 2:8-15 Men and Women in Worship
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1 Timothy 2:8-15 Men and Women in Worship 礼拝における男と女
English follows Japanese
今日の聖句は幾多の誤解を招き、幾度も解釈され、また誤解され、再度解釈され、その学者や牧
師の観点によっては、避けられ、放棄される聖句の一つです。講解説教の目的は聖句の言わんと
することを知り、文脈から元々の聴き手と今日聴いている私たちが意図されたメッセージを正確
に理解することです。聖書を講解する時、聖書の無謬性と権威を信じる信者は多くの同意点を見
出しますが、鍵となる意見の相違が色々な宗派に分けさせ、聖書を神の権威ある御言葉として従
い福音において一致する教会同士においても熱のこもった討論を起こします。この聖句はミニス
トリーにおける女性の役割についての不一致において鍵となる聖句です。私の目標は聖書がなん
と言っているかを正確に示し、意見の相違のあるキリストにおける兄弟姉妹に対して正直に寛大
な心を持って教会としての立場を守ることです。まずテモテへの手紙 2 章 8-15 節を読みましょ
う。8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることで
す。 9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、
髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。 10 むしろ、善い業
で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。 11 婦人は、静かに、全く
従順に学ぶべきです。 12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しませ
ん。むしろ、静かにしているべきです。 13 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエ
バが造られたからです。 14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪
を犯してしまいました。 15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、
子を産むことによって救われます。
祈りましょう。
最初の数節は率直であり、これらの聖句の解釈に関して特に意見の相違はないでしょう。皆さん
に気づいて欲しいのはこの聖句全体は教会が男性も女性も礼拝のために集っていることと関連し
ていることです。これは教会の誰でも参加できる礼拝式に特有なことであり、教会外の生活とは
関連せず、教会の礼拝のための集いに関しています。パオロが教えている礼拝においての最初の
面は男女共礼拝においては慎ましくあることです。8-10 節を見てください。8 だから、わたし
が望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。 9 同じように、婦
人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真
珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。 10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を
敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
私はなぜ聖句全体を男女共に当てはめているのでしょうか。彼ははっきりと一方では男たちに、
そしてもう一方では女たちに向けて言っています。男女に提示している問題点は神にではなく彼
らに関心の焦点が当たってしまうことです。私たちが礼拝に来るとき、中心は私たちであっては
なりません。中心は礼拝音楽のリーダーでも、祈りを捧げるものでも、説教する牧師でもありま
せん。中心は完全にキリストです。. イエス・キリストが全てにおいて中心であるべきであり、
礼拝も派手に華やかに人に注目が集まるようにではなく唯一イエス様に注目が集まるようにする
べきです。聖霊の導きの元にあるパオロは男性に男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも
祈ることですと言っています。
私たち男性は罪深い感情や思いを礼拝に持ち込まないよう警告されています。代わりに神聖な心
を持って礼拝に臨むように言われています。彼は 清い手を上げてどこででも祈ることと言って
います。つまり罪のないままという意味です。私たちは他の人が知らない自分たちの罪を見過ご
そうとします。例えば誰かに対して憤ったり、教会の誰かと喧嘩をしながらそれらを礼拝で手を
あげるような信心ぶった行いの後ろに隠します。イエスはこの点を描写するたとえ話をされまし
た。ルカの福音書 18 章 9-14 節 9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している
人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。
一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11 ファリサイ派の人は立って、心の
中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦
通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12 わたしは週
に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13 ところが、徴税人は遠くに立って、
目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでくださ
い。』 14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の
人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
この高慢な姿勢と礼拝の中での傲慢こそパオロがテモテの手紙一で説いていることです。見せか
けの信心深さではなく、私たちは皆心の奥底では罪深く、何の神聖さもない自分の心の状態を知
り、真に神を礼拝することです。しかし、イエス・キリストの私たちの身代わりの死によって義
とされ、清い手を挙げて神を真に礼拝できるのです。私たちがどれほど罪深いか、どれほど罪を
犯すかを知ることが私たちを罪の告白に導きます。そして私たちがキリストの体として集まり礼
拝のために心が正しく整えられた時には、すでに他の人への憤りや非情な扱いを告白しており、
神を汚れない心で一致して礼拝することができます。
ヨハネの手紙一 1 章 9 節は実際未信者ではなくイエス・キリストに従う者たちのために書かれて
います。こう書かれています。9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
礼拝に来るとき、私たちは心を整えるために罪の告白と悔い改めの時間を持っているでしょう
か。これはパオロが聖霊の霊感を通して伝えている最初の点です。
彼は、女性に向けてもこの聖句の最初の部分で話しており同様の線に沿っています。最初に 910 節を読むとパオロが男性に伝えたことと同じようには聞こえません。彼は彼女たちの衣服や髪
型、宝飾品について話をしています。鍵となる句は 9 節の慎みと貞淑をもってです。慎み深さは
私たちが通常思い浮かべる体の一部分に興味の眼がいくのを防ぐために十分に体を覆うことが主
要ではありません。慎みは自分たちが目立ってしまう、つまり注目を集めてしまうことがないよ
うな装い、振る舞うことです。これは正しく肌を覆うことではなく、あなたのキリストの様な性
格を知らしめることです。あなたの身につけているブランド品ではなく、あなたの愛を、あなた
のお金ではなくあなたの思いやりを知ってもらうのです。あなたの饒舌や歌唱力でもありませ
ん。フィリピの信徒への手紙 2 章 5-8 節で読む、イエスの示された姿勢です。 5 互いにこのこ
とを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 6 キリストは、神の身分
でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7 かえって自分を無にし
て、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8 へりくだって、死に
至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
次にパオロは礼拝に関する神の教えのより物議を醸す部分について話します。それは男性と女性
がそれぞれ違った役割を持っていることです。11-12 節はこう言います。11 婦人は、静かに、
全く従順に学ぶべきです。 12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しま
せん。むしろ、静かにしているべきです。 パオロがこの聖句で何を言っているのかを確実に理
解するには、礼拝における女性についての他の聖句を見る必要があります。そうすることによっ
て聖書がこの件に関して実際どう教えているかをよりはっきりと見ることができます。結論づけ
る前にいくつかの他の聖句を見てみましょう。最初の聖句はコリントの信徒への手紙一 11 章 5
節です。5 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を
侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。実際この問題
自体を取り上げているわけではありませんが、ここで用いられている女は ESV 訳では妻となって
います。コリント一 11 章 5‒13 節の注釈でギリシャ語の言葉 gunē は妻と訳され、一世紀当時
の文化でベイルをつけることが既婚の女性の印であったと記されています。
つまり頭の覆いをつけるのはこの文化では女性の結婚している身分を示していました。そして、
被らないことはあるまじき行為で、娼婦であることを示すことでさえありました。テモテへの手
紙一に関連してコリント一で私が一番指摘したいことは、女性が一般礼拝で祈りを捧げ、預言す
ることが当然と思われていたことです。加えてもう一つこの聖句で理解しなければいけない事実
があります。新約聖書で預言は説教より下位に付随する、つまり、後の教会の牧師や長老たちの
様に、権威の下で行われる使徒の説教や教えとは別格でした。
パオロがテモテへの手紙一で伝えていることを知る上でテトス 2 章 3-5 節を見ていきましょう。
3 同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大
酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。 4 そうすれば、彼女たち
は若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、 5 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良
で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです。ここで
指摘したいことは教会内で女性が他の成人の女性を教え訓練することが期待されていることで
す。静かにしているべきです、とは明らかに違います。
最後にテモテの手紙一と関連するもう一つの聖句を見たいと思います。使徒行伝 18 章でエフェ
ソの街で教える夫と妻のチームを見ましょう。使徒行伝 18 章 24-26 節 4 さて、アレクサンド
リア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。 25 彼は主
の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗
礼しか知らなかった。 26 このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラと
アキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。
ここでこの聖句はプリスキラがアポロという人により正確に神の御言葉と福音の理解を教えたと
いうことをはっきりと示しました。また、この教えは、プリスキラ、アキラとアポロの 3 人の小
グループという環境で行われました。神の御言葉の権威ある教えや説教の様式で行われたのでは
なく、より日曜学校の様な背景で福音、イエスの死と復活の事実が説明され話し合われました。
それでは今日の聖句に戻りましょう。11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。 12 婦人
が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべき
です。他の関連する聖句を見ると女性が教える事や、教会の礼拝での発言の禁止は絶対ではない
ことがわかります。女性が預言し、公に祈ることも見ました。また、彼女たちは女性も男性さえ
も教えていました。ここで指摘することは教えや発言の形です。それらはどれも説教ではありま
せん。使徒と初期の教会の牧師や長老が行なっていた神の御言葉の権威の下の宣べ伝えではあり
ませんでした。どれも教会の牧師や長老役割を担うものはありませんでした。間違いなく奉仕、
教え、助け合うことはしていましたが、牧師としてではありませんでした。この聖句を拡大適用
して教会での全ての公の役目から女性の参加を禁止する教会を知っています。しかし、これから
数週間かけて長老と牧師について学んでいく中で多くの証拠はこの見方が聖書的でないことを明
白にするでしょう。女性は牧師や長老として仕えることが禁じられているということがこれらの
時代の文化的な背景などを考慮してもベストの解釈です。つまり教会の権威による方向性、目
的、その他の教会の指導的役割を担う者を導く教えの役割です。これは日本や他の場所における
教会の実際の慣習に反します。しかし、聖書の真理を私たちの文化や情緒的な問題から歪めるこ
とはできません。
この聖句を実践するにあたり二つの罠に陥ることがあります。無視するか言いたい様に解釈を変
えることもできます。平等主義的なスタンスで時代の流れに乗って女性を教会の全ての面と牧会
ミニストリーに組み入れることもできます。二番目の罠は全くの逆で女性の教会での公での奉仕
を一切禁じることです。極端には商売や政府や自治体にも当てはめられます。この両者ともに間
違っています。この聖句もエフェソの信徒への手紙で学んだ結婚での服従は結婚している夫婦間
と教会内で適応され、その他の社会構造では当てはめられません。そして、これらの聖句から説
教と牧会の権威に適用されます。
私には日本にもアメリカにも私と私たちの教会に反対し女性を牧師や長老に任命することを推進
する友人がいます。聖書が唯一の権威であると信じていると言いながら文化的な背景を考慮する
とする人たちの聖書的な言い分はこれ以前の聖句で女性の牧師的役割が見られることです。パオ
ロは次にこの禁止が文化的な理由かを言及します。その論拠を見るとそれが文化的ではないこと
がわかります。なぜ違うのでしょうか。13-15 節を見てください。13 なぜならば、アダムが最
初に造られ、それからエバが造られたからです。 14 しかも、アダムはだまされませんでした
が、女はだまされて、罪を犯してしまいました。 15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続
け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。女性が牧師・長老の職に就くことを
禁じる理由は堕落の前の創造に関連しています。アダムとイブについて訴えることによって、パ
オロは神の結婚の御計画は夫の家長としての僕として仕えるリーダーとエフェソ書 5 章の妻の服
従です。教会で女性が男性の上の権威的地位につくことによって神が定められた構造を害するこ
とになります。
女性を下に置き、男性が独裁者となることが福音の描く絵ではありません。結婚のそれぞれの役
割はキリストの愛を示すことであり、教会内での男女の役割は世に罪が生まれる以前神が結婚に
よって定められたことを教会内の役割分担で映し出すためです。すでに指摘した様に、この禁止
は家庭と教会のことで社会全体に当てはめるものではありません。神が定められたそれぞれの性
別の役割の中で、神の似姿によって創造された人が目的と意味を探し出すのです。ですから、彼
は、アダムは欺かれたのではなく故意に罪を犯したと指摘しているのです。アダムは夫として妻
を守り、彼女に神の律法をしっかりと理解させる責任がありました。アダムはその役割を果たせ
ませんでした。そして、イブはサタンに欺かれました。聖書からアダムはイブのすぐ横にいて起
こった一部始終を見ていました。それでいて、彼は何も言わず自らも果物を食べて罪を犯しまし
た。
パオロは続けて女性は 子を産むことによって救われます。と言いました。それはアダムとイブ
についての陳述に関連しています。いくつかの判断ができます。一つはイエス・キリストが約束
されたメシアとしてイブを通して生まれるという事。よく聞く解釈ですが、あまり説得力は強く
ありません。この聖句が一番生きるのは W.E. Vine 氏が書いた、イブが母親としての責任を受け
入れ彼女が創造された救いの計画の中の役割を果たした事です。これは罪からの永遠の救いでは
なく、神の計画を果たそうとしない社会の圧力に対しながら家族の保存のために耐えた事です。
この家族の構造の存続がこの説明で神の一番の関心であったのです。私たちは聖書的な結婚と家
族内の役割を果たす事で救われるわけではありません。ですから、パオロは女性も男性もそれぞ
れが信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、 それによってのみ真に救われると言って
います。
イエス・キリストの信仰のみが私たちを最初の人であるアダムがこの世に持ってきた罪から救い
ます。ローマの信徒への手紙 5 章 17 節 17 一人の罪によって、その一人を通して死が支配する
ようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイ
エス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。私たちがイエス・キリストの十字架
の上での私たちのための御業を信じることによってのみイエスの義を受け入れることができま
す。エフェソ書 2 章 8-9 節 8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われまし
た。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9 行いによるのではありませ
ん。それは、だれも誇ることがないためなのです。
信仰は神の私たちが信じるための私たちへの賜物です。イエスを救い主として主として全てを受
け入れるためです。私たちが真にイエスに従い、イエスを唯一の罪からの赦しの源と受け入れ、
信仰によって生きる時、私たちは愛に生きているのです。イエスはキリストに従う者の印は神を
愛し、隣人を愛することであると言われました。マタイの福音書 22 章 37-38 節 37 イエスは言
われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさ
い。』 38 これが最も重要な第一の掟である。 39 第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』
私たちは神を知る信者の印は神聖さであると言われました。ペテロの手紙一 1 章 16 節 16「あ
なたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
男でも女でも、信者として神聖さを実践するには聖霊による鍛錬が必要です。ですから、パオロ
は自制と言っています。自制は神による制御なのです。ローマ書 12 章 1-2 節 1 こういうわけ
で、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生
けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 2 あなたがたは
この世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心
であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりな
さい。
私たちが信仰生活を生きる時キリストのイメージに倣って、周りの社会や文化の圧力ではなく、
神の子として主の教会としての私たちのための御計画に一致することによって、私たちは真に満
たされ神が意図された様に神の器としての役割を果たすことができます。
神の家族である、キリストの体、彼の教会には女性にも男性にもあなたの賜物を用いる場所があ
ります。あなたが女でも、男でも神があなたを彼の似姿に創造されたことの意義を体験すること
ができます。
神は私たちそれぞれに神の創造の目的を体験し、彼の栄光の目的と御心の前に真に伏し拝み彼を
礼拝することができる様に最高の方法を示してくださり必要な役割と責任を与えてくれました。
あなたはキリストに従う者として、私たちはキリストの体である教会として、神の道に沿って神
の望まれている教会となる様、主の目的に服従しますか。
祈りましょう。
1 Timothy 2:8-15 Men and Women in Worship
Today is one of those passages that can cause a lot of misunderstanding and many
times gets interpreted, misinterpreted, reinterpreted and avoided or discarded
depending on what viewpoint you are taking. The goal of expository preaching should be
to discover what the passage is saying and accurately understand it within the context
and message that is intended to its original hearers and to us today. While I would say
that there are many areas of agreement between all believers who hold to the inerrancy
and authority of Scripture as we exposit Scripture, there are key disagreements that
have led to the formation of denominations and have led to heated discussions even
among churches who agree on the gospel and seek to follow the Scripture as the
authoritative word of God. This passage today is a key passage of disagreement
regarding the role of women in ministry. My goal is to accurately show what the Bible is
saying and defend what our position as a church is, while being honest and gracious
towards those brothers and sisters we disagree with. Letʼs begin by reading 1 Timothy
2:8-15. 8 I desire then that in every place the men should pray, lifting holy hands
without anger or quarreling; 9 likewise also that women should adorn themselves in
respectable apparel, with modesty and self-control, not with braided hair and gold or
pearls or costly attire, 10 but with what is proper for women who profess godliness̶
with good works. 11 Let a woman learn quietly with all submissiveness. 12 I do not
permit a woman to teach or to exercise authority over a man; rather, she is to remain
quiet. 13 For Adam was formed first, then Eve; 14 and Adam was not deceived, but the
woman was deceived and became a transgressor. 15 Yet she will be saved through
childbearing̶if they continue in faith and love and holiness, with self-control. Letʼs pray.
The first several verses are more straight forward, and I doubt that there would be
much disagreement with what I will say regarding the interpretation of these verses.
What I want us to see is that this whole passage is related to the church gathered
together for worship ‒ both men and women. This is very specific to the public worship
service of the church, and does not seem to be commenting on any area of life outside
of the church and specifically the church gathered for worship. The first aspect of
worship that Paul is teaching is that men and women are to be modest in worship.
8
Look at verses 8-10. I desire then that in every place the men should pray, lifting holy
9
hands without anger or quarreling; likewise also that women should adorn themselves in
respectable apparel, with modesty and self-control, not with braided hair and gold or
10
pearls or costly attire, but with what is proper for women who profess godliness̶with
good works.
Why do I apply the whole verse to men and women? He clearly addresses men in one
regard and women in another. Both of the issues he brings up for men and women focus
on drawing attention to yourself and away from God. When we come together for
worship, the focus is not to be on each other. Itʼs not on any one person leading us in a
song, or in prayer, or even preaching the sermon. The focus is to be completely Christ
centered. Jesus Christ should be the focus of everything so worship is not to be showy
and done in a way that brings glory to any person, but to Jesus.
To men, Paul under the inspiration of the Holy Spirit says that men are to pray without
anger or quarreling. We as men are being warned to not bring our sinful emotions and
feelings into worship, but instead approach worship with a heart of holiness. He says to
pray, lifting up holy hands, thatʼs being without sin. It is so easy for all of us to overlook
sins that we think we can keep people from seeing ‒ like being angry at someone or
having a quarrel with a person in the church, and hide those things behind pious actions
like raising hands in worship. Jesus tells a parable or story that illustrates this very
point. Luke 18:9-14 says, 9 He also told this parable to some who trusted in themselves
that they were righteous, and treated others with contempt: 10 “Two men went up into
the temple to pray, one a Pharisee and the other a tax collector. 11 The Pharisee,
standing by himself, prayed[a] thus: ʻGod, I thank you that I am not like other men,
extortioners, unjust, adulterers, or even like this tax collector. 12 I fast twice a week; I
give tithes of all that I get.ʼ 13 But the tax collector, standing far off, would not even lift
up his eyes to heaven, but beat his breast, saying, ʻGod, be merciful to me, a sinner!ʼ 14
I tell you, this man went down to his house justified, rather than the other. For everyone
who exalts himself will be humbled, but the one who humbles himself will be exalted.”
This attitude of pride and arrogance in worship is exactly what Paul is addressing in 1
Timothy. It is not to put on a false piety, but to worship God in authenticity, knowing the
state of our own souls ‒ that we are all unholy at our core and without Jesus Christ,
there is nothing holy about us. But through Jesus Christ and his death in our place, we
can be made holy, made righteous and truly worship God with holy hands. Seeing just
how unholy we are, how much we sin will lead us to confession, so that when we are
properly prepared for worship, gathered as the body of Christ, we will have confessed
our anger and unloving mistreatment of others so we can worship God in unity with a
pure heart. 1 John 1:9 is a verse actually written to followers of Jesus Christ and not
unbelievers. It says, 9 If we confess our sins, he is faithful and just to forgive us our sins
and to cleanse us from all unrighteousness. When we come into worship, have we
examined ourselves with a time of confession and repentance to prepare our hearts?
That is the first point that Paul is telling through the inspiration of the Holy Spirit.
But, he also addresses women in this first part of the passage, and it is along similar
lines. At first when you read verses 9-10, it may not seem to be saying the same thing
as he says to the men at all. He is addressing their clothing and hairstyles and jewelry,
but the key is the phrase in verse 9, “with modesty and self-control.” Modesty is not
primarily how we typically think about it…covering up enough of our bodies to prevent
unwanted looks at certain parts. Modesty is not making a spectacle of ourselves, in
other words, not making me the center of attention with how we dress or conduct
ourselves. This is not about covering up the right part of skin, but letting yourself be
known for your Christlike character and not your name brand clothes, for your love, not
your money, for your compassion, not your speaking or singing ability. It is having the
attitude that Jesus showed that we read about in Philippians 2:5-8 “Have this mind
among yourselves, which is yours in Christ Jesus, 6 who, though he was in the form of
God, did not count equality with God a thing to be grasped, 7 but emptied himself, by
taking the form of a servant, being born in the likeness of men. 8 And being found in
human form, he humbled himself by becoming obedient to the point of death, even death
on a cross.”
Next Paul discusses the more controversial part of Godʼs teaching here regarding
worship. It is that Men and women have different roles in worship. Verse 11-12 says,
11
12
Let a woman learn quietly with all submissiveness. I do not permit a woman to teach
or to exercise authority over a man; rather, she is to remain quiet. In order to really
understand exactly what Paul is saying in these verses, I think we need to look at some
other scriptures that also deal with women in worship, so we can get a fuller picture of
what the Bible is really teaching on this. So, I want to look at several other passages
before we draw any conclusions about these verses. The first verse I want to look at is
1 Corinthians 11:5, which says, 5 but every wife who prays or prophesies with her head
uncovered dishonors her head, since it is the same as if her head were shaven. Iʼm not
really addressing this issue here, but I want to point out the word wife, at least in my
English Standard Version translation has a little (a) beside it leading to a translation note
that says, “1 Corinthians 11:5 In verses 5‒13, the Greek word gunē is translated wife in
verses that deal with wearing a veil, a sign of being married in first-century culture.” In
other words, just to quickly make clear that wearing the headcovering is specifically
related to what women in that culture wore to indicate their marriage status and
therefore not wearing one was scandalous and even could indicate a sign to be a
prostitute. The main point I want to note in 1 Corinthians as it relates to our passage in
1 Timothy, though, is this ‒ the women were expected to be praying and prophesying in
the public worship service. There is one additional fact we need to understand regarding
this passage. Prophecy as understood in the New Testament was subordinate to
preaching and not done in an authoritative manner like the preaching and teaching of
the apostles, which came to be the same preaching and teaching done by those who
were pastors and elders in the churches.
The second passage I want us to look at as we determine what Paul is talking about in 1
Timothy is Titus 2:3-5, “3 Older women likewise are to be reverent in behavior, not
slanderers or slaves to much wine. They are to teach what is good, 4 and so train the
young women to love their husbands and children, 5 to be self-controlled, pure, working
at home, kind, and submissive to their own husbands, that the word of God may not be
reviled. What I want to point out here is that within the church you see the expectation
of women teaching and training other adult women. Thatʼs not exactly silence Iʼm sure.
There is one final passage I want to look at related to 1 Timothy. In Acts 18, we see a
husband and wife team in Ephesus teaching. Acts 18:24-26 says, 24 Now a Jew named
Apollos, a native of Alexandria, came to Ephesus. He was an eloquent man, competent in
the Scriptures. 25 He had been instructed in the way of the Lord. And being fervent in
spirit, he spoke and taught accurately the things concerning Jesus, though he knew only
the baptism of John. 26 He began to speak boldly in the synagogue, but when Priscilla
and Aquila heard him, they took him aside and explained to him the way of God more
accurately. What we need to see here is that this passage clearly shows Priscilla
teaching this man Apollos a more accurate understanding of the Word of God, and the
Gospel. I want to also note that this teaching was done in more of a small group context,
it was Priscilla, Aquila and Apollos. It is not done in the manner of authoritative teaching
or preaching of Godʼs Word, but more of a Sunday School setting where known facts of
the gospel and Jesus death and resurrection were explained and discussed.
Now letʼs get back to the verses at hand. Let a woman learn quietly with all
12
submissiveness. I do not permit a woman to teach or to exercise authority over a man;
rather, she is to remain quiet. From looking at these other passages, we can see that
this prohibition on women teaching or apparently speaking in any sort of way in the
church service in not absolute. We have seen that women prophesied and prayed
publicly, and that they were teaching women and even a man. What I did point out, and
what we need to notice about those passages is the type of teaching and speaking that
is involved. None of it was what we would call preaching. The authoritative proclamation
of Godʼs Word, done in the manner that the apostles and pastors and elders of the early
church would have been doing. Also, none of those situations involved any elder / pastor
type of role in the church. They were definitely ministering, teaching and serving, but it
was not as a Pastor.
I know churches that would extend these verses to forbid any sort of public role that a
woman could have in church, but when we look at the other evidence and tie it in with
what we will see about Elders and Deacons over the next couple of weeks, that does not
fit with Scripture. The best interpretation of these verses that does not try to say they
are completely cultural to that time period, means they are prohibiting women from
serving as Pastors or Elders. In other words in the authoritative teaching role of the
church, that guides the direction, purpose and other leadership roles in the church. This
goes against what most other churches here in Japan and in many other places practice,
but we must be clear on the Scripture, and not change what it says to suit our cultural
or emotional sensitivities.
There are two traps we can fall in regarding applying this passage. We can ignore it or
reinterpret it to say what we want it to say, and simply go with the mainstream
understanding of a fully what is called egalitarian position that would embrace women in
all aspects of church and pastoral ministry. The second trap is to embrace and practice
this, but to what would be an extreme complementarian position that would deny women
any real place in the public worship of the church or at its extreme even say that it
applies in government or business. Both of those positions are wrong. We need to be
clear that this passage, just like the passage we studied in Ephesians on submission in
marriage only applies in marriage and here in the church, not any other social structures,
and by looking at those other passages, I believe it is best interpreted very narrowly to
apply to preaching and the pastoral authority.
I have friends both in Japan and the US who would disagree with me and our church and
say that women should be ordained as Pastors and elders. The scriptural argument that
is made for the most part by those who still say they believe the Bible is authoritative is
that this should be understood as being cultural, and that the passages we looked at
earlier show women in a pastoral role. What Paul addresses next as he continues
addresses whether this prohibition is only cultural. And when we see the argument he is
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making, we see that it is not cultural. Why not? Look at verse 13-15. For Adam was
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formed first, then Eve; and Adam was not deceived, but the woman was deceived and
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became a transgressor. Yet she will be saved through childbearing̶if they continue
in faith and love and holiness, with self-control. The reason that this prohibition on
women as elders/ pastors is not cultural is because it is tied to creation before the fall.
By invoking Adam and Eve, he is leading us to see that knowing that Godʼs design in
marriage was husband headship or servant leadership and wife godly submission from
Ephesians 5, women in authority positions over men in the church can undermine that
God ordained structure.
It was not based on wanting to keep women down and men as dictators, but in creating
a picture of the gospel. The roles in marriage were designed to show Christʼs love and
so the gender roles within the church reflect that same structure that God ordained in
marriage, which came before the presence of sin in the world. As we have already
noted, this prohibition is only given in relation to the home and church, not society at
large. It is in following these God ordained gender roles, that both genders find our
purpose and meaning as ones who are created in the image of God. Thatʼs why he
points out that Adam was not deceived but willingly sinned. Adam as the husband had a
responsibility to protect his wife, and to make sure she understood what Godʼs law was.
He failed in that role, and Satan deceived Eve. It seems clear from scripture that Adam
was beside or very near her and watched it happen, yet said nothing; then sinned
himself by eating the fruit.
Paul then continues by saying that women are saved through childbearing, and it is
connected somehow to the statement about Adam and Eve. There are a couple of
possible interpretations. One is that it is referring to Jesus Christ as the promised
Messiah through Eve. That is not the most likely, but is an interpretation that you hear
often. What best fits this passage is that salvation is found in what W.E. Vine describes
as “accepting motherhood, and fulfilling the design she was created for.” This is not
eternal salvation from sin, but a preservation of the family in the face of societyʼs
pressure to have families that did not follow Godʼs pattern; this concern over the family
structure seems to be the overall issue that God is concerned with in this explanation.
But fulfilling a Biblical role in marriage and family is not what saves us. This is why Paul
goes on to say that they are only truly saved if women (or men for that matter) continue
in faith, love and holiness with self-control.
Faith in Jesus Christ is the only thing that will save us from that sin that the first human
Adam brought into the world. Romans 5:17 says, “17 For if, because of one man's
trespass (SIN), death reigned through that one man (ADAM), much more will those who
receive the abundance of grace and the free gift of righteousness reign in life through
the one man Jesus Christ.” The only way we accept that righteousness found in Jesus
Christ is by faith in what he did on the cross for us. Ephesians 2:8-9 says, “8 For by
grace you have been saved through faith. And this is not your own doing; it is the gift of
God, 9 not a result of works, so that no one may boast.” Faith is Godʼs gift to us to
believe, meaning to fully accept Jesus as our Savior and Lord. When we are truly
following Jesus and living out our faith in him and our complete acceptance of him as the
only source of forgiveness from sin, then we will be living in love. Jesus says the mark of
a follower of Christ is that he loves God and loves others. Matthew 22:37-38 says, 37
And he said to him, “You shall love the Lord your God with all your heart and with all
your soul and with all your mind. 38 This is the great and first commandment. 39 And a
second is like it: You shall love your neighbor as yourself. We are also told that a mark
of the believer who knows God is holiness. 1 Peter 1:16 says, “You shall be holy, for I
am holy.” It takes discipline that is led by the Holy Spirit in order to practice holiness as
a believer, whether man or woman. Thatʼs why although Paul says self-control. That
self-control is God control. Romans 12:1-2 says, “I appeal to you therefore, brothers, by
the mercies of God, to present your bodies as a living sacrifice, holy and acceptable to
God, which is your spiritual worship. 2 Do not be conformed to this world, but be
transformed by the renewal of your mind, that by testing you may discern what is the
will of God, what is good and acceptable and perfect.” When we are living the life of
faith, being conformed to the image of Christ and his plan and purpose for us his
children and his church, and not the pressures of the society and culture around us,
then we truly are satisfied and serving as God intends us to in the role he intended for
us.
In the family of God, the body of Christ, his church, there is a place for you as a woman
or a man to fully use your gifts, to experience what it is to be the man or the woman
that God has designed you in his image to be. He has given each of us roles and
responsibilities to lay out for us the best way to experience Godʼs purpose and to truly
be able to worship him in submission to his glorious purpose and will. Will you as a
follower of Christ and us as his body, the church, submit to that purpose done
according to Godʼs Way to be the church that God intends us to be?