1 Timothy 3:1-7 Church Leaders: Elders

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1 Timothy 3:1-7 Elders in the Church「教会の長老たち」 English follows Japanese これから 2 週にわたって、教会のリーダーシップについてお話しします。聖書の中で、教会のリ ーダーシップがどのように描かれているのかを示したいと思います。わたしたちは、教会リーダ ーシップについての聖書的理解が十分ではない中で、同じ意見を持たない人々と共にフェローシ ップに参加したり、いっしょにミニストリーを行ったりすることもあるのかもしれません。もし あなたが「日曜学校のための健全な教会ガイド」という教材を勉強しているなら、このトピック は最終章に書かれています。この教材を使っていないならば、いずれ学びの場を設けましょう。 この学びは、教会がどうあるべきかについての聖書の学びとして、素晴らしく堅実なものです。 それでは、今週の聖書箇所に入りましょう。1 テモテ 3 章 1〜7 節です。「1 「人がもし監督の 職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実で す。2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがな く、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力が あり、3 酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、4 自分の家庭をよく 治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ――自分自身の家庭を治めることを 知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――6 また、信者になっ たばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならない ためです。7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔 のわなに陥らないためです。」 祈りましょう。 パウロは単刀直入に話題に入ります。この話題とは、教会のリーダーシップについてです... 第 一に、長老たちのことです。パウロは言います。「人がもし監督の職につきたいと思うなら、そ れはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。パウロは「牧師になりた い人がいたら、その人は“素晴らしい仕事をしたい”と思っているのだ」と言っているかのようで す。ここに出てくる「overseer(監督者)」と訳されているこの単語は、教会の牧師または長老 をあらわします。この聖句の後半では、パウロがもうひとつの単語、英語では執事と翻訳されて いる単語を使っています。みなさんは、わたくしが長老とか牧師という言葉を無作為に使ってい るように聞こえるかもしれませんが、これらの単語の意味は全く同じであることを理解していた だきたいです。 ギリシャ語には、牧師という言葉の語源となった単語が 3 つあります。まず第一にポイメンとい う単語です。この単語から牧師という単語が生まれました。意味は羊飼いです。この単語は福音 書の中で、イエス様とご自分の民との関係について語られるとき何度も使われました。パウロは この同じ単語を、教会で実際に指導する者、特に教育ミニストリーで指導する者に適用します。 エペソ人への手紙 4 章 11 節は、牧者/より良い羊飼いと呼ばれる牧師について記されている唯 一の箇所です。すなわち、「11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言 者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。12 それは、聖徒 たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためである。」この聖句は、羊 飼いが行う教育の役割を示しています。この役割とは、聖書を教えることによって、神について の理解や神の民に対する神のご計画と目的について優しく教え導くことです。この羊飼いの役割 とは、説教壇から聖書の真理を宣べ伝えることでもあり、日常生活の中でクリスチャンが人生の 課題を克服するために、聖書の御言葉や聖句に基づいた助言を与えるカウンセリングを行うこと でもあります。どちらにしても、教育の役割に携わっているクリスチャンであることに注意して ください。羊飼いまたは牧師/教師は、ミニストリーに奉仕する救われた人々を育成し、ひいては キリストの体を建て上げる人々です。羊飼いは主に伝道者という訳ではありません。それでも牧 師はすべて、福音を宣べ伝えるために召されており、イエス・キリストを指し示す聖書の真理を 説教に込めて宣言するように召されているのです。 牧師の単語の語源となった 2 番目の単語はプレスブテロスです。これは長老と翻訳されている 単語であり、教会職において最も頻繁に使用されます。1 テモテ 5 章 17 節の中では、こう言い ます。「17 よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさ い。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」後でもう一度、別の観点か らこの聖句を見たいと思いますが、この聖句を読むと“有給の長老”と“無給の長老”がいるようで す。どちらも長老職としては同等です。しかし、教会は神の言葉を定期的に説教したり教えたり するために召した人に、二重の名誉を与えて支払うことができる、というのです。 3 番目の単語はエピスコポスで、この聖書箇所にはこの単語が「監督者」として使用されてい ます。過去に、この単語はビショップ(司教)と翻訳されていたことがあります。この単語は、 教会におけるリーダーに関して、たった 4 回しか使われていません。この単語を牧師という意味 で使うならば、教会での活動を牧師が権威をもって監督する、ということを示します。牧師は、 どこかのバプテスト教会のように、執事が望むことをするために存在するのではないし、あるい は、常に教会員を喜ばせるために教会にいるのでもありません。 牧師の役割は教会員をリードす ることです。牧師のリーダーシップは、王や独裁者のそれではなく、羊飼いとしてのリーダーシ ップなのです。 今お話しした 3 つの単語が、どこかのキリスト教派の名前と類似していることにお気づきになら れた方もおられるでしょう。プレスブテロスとプレスビテリアン(長老派)、エピスコポスとエ ピスコパル(聖公会)ですね。こうした教派は、先の 3 つの単語の理解に基づいて、それぞれ建 て上げられた教会教派です。聖公会という形式を採用する教会は、先の 3 つの単語をそれぞれ異 なった教会職として捉え、司教は教会全体の監督職、その監督下において司祭または牧師が牧会 を行います。ローマカトリック教会、英国国教会、そしてメソジスト教会は、このような解釈を 行う教派の代表的なものです。わたくしは申しますが、先にお話しした 3 つの単語はすべて、新 約聖書の中で同じ意味で使用されております。それは現在、わたしたちが牧師と呼んでいる 1 つ の教会職について語っているようです。実際、使徒の働き 20 章 17 節の中で、パウロはエペソ の教会の長老たち(プレスブテロス)を呼び集めましたが、28 節では、同じグループの監督者 (エピスコポス)を呼びました。すなわち、長老や監督者を教会内の異なる教会職としてみる必 要はありません。しかし、同じ教会職の中の異なる役割として見る必要はある、ということで す。 これで、教会職に関する用語をひと通りお話いたしました。それでは、牧師についてのパウロの 主要なポイントを見ます。わたしたちは牧師について何を見るべきなのでしょうか?今日の聖書 箇所の 1 節から始めます。「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を 求めることである。」最初に見るべきもの、それは牧師の意欲です。わたしたちは“牧師の召し” に重点を置きがちです。しかし、新約聖書は、わたくしが言い続けているように、賜物、意欲、 そして次のいくつかの節で見るように、性格に重点を置いているのです。意欲だけを見るのでは 十分ではありませんが、牧師になるというこの「すばらしい仕事」に仕えるために、意欲はある べきです。2 節を見ます。「2 ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、 非難されるところがなく、…」要約すれば、長老/牧師とはこういう人なのだ、ということです。 非難されない人であるから、誰もこの人を告発することができないのです。聖書にはもう一つ 「潔白」という単語も出てきます。でも、この要件は、後でお話しする執事についても期待され ることであり、すべての信者にとっても同じように期待されているのです。わたしたちは牧師候 補を探す時、凄く敬虔なクリスチャンを求めているわけではありません。誰でも必要となる献身 的なライフスタイルを持っている人が牧師候補となるのです。ピリピ人への手紙 2 章を見てみま しょう。パウロがすべての信者に同じ命令を与えています。ピリピ人への手紙 2 章 14〜16 節は 言います。「14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。15 それは、あなたがた が、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない 神の子どもとなり、16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためで す。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったこ とを、キリストの日に誇ることができます。」ここで注意することは、牧師となるべき人物を考 える時、わたしたちを取り巻く世界の評判にも目を向けるべきであり、すべてのクリスチャンと 同じく牧師は不正行為に対して潔白であるという評判を持つべきである、と分かります。 この節の次の要件を見ると、ひとりの妻の夫であり、、、とあります。現在、この聖句は離婚し ていないことを意味するように非常に厳密に解釈されています...教会がこの聖句をどう解釈する かを決めなければなりません。しかし、それがこの節の本来の意味ではありません。この聖句は 文字の通り「1 人の女性を愛する男性」を意味します。この聖句をどう適用するかを考えると き、わたしたちはキリストが出現する前、わたしたち 1 人 1 人が罪人であり、キリストが出現し た後でも罪がわたしたちの人生、更には配偶者の人生にも影響を及ぼすことを覚えておく必要が あります。目標は、自分の人生の中で自分がどこに立っているのかを吟味することです。ですか ら、過去に離婚したことがある男性、特に救いの前に離婚を経験した男性でも、明らかに、1 人 の妻の夫、1 人の女性を愛する男性として今を生きることができるのです。どれだけ賜物がある としても、こうしたことで自分自身にはミニストリーはできないと思う男性もいるのではない か、とわたくしは考えます。この節は、長老に関する話の中で女性について言及した唯一の箇所 であるということに注意したいと思います。先週の説教のポイントは、女性が長老の役割から制 限されているということでした。はっきりとしたことを理解するには十分ではありませんが、こ の要件は長老が男性になるべきであるというもうひとつの手がかりになります。 パウロはさらに、4 つの言葉を語ります。冷静であること、自制すること、立派であること、そ して親切であること、です。パウロは次の節でアルコールについて取り上げていますが、冷静で あるということの意味は、軽率さや過度で攻撃的な反応から自由であることです。次は自制とい う言葉です。牧師である人は他人を尊重する人です。他人に親切になる方法を知っています。他 人を追い払うことはありません。他人と関わり合い、自分の家に招待するような人柄です。 次にパウロは「教える能力があり、、、」と説明します。来週の説教で執事に関する話をする予 定です。執事にもすべてのクリスチャンに期待されている道徳的要件がありますが、執事にはこ の“教える能力”が要件である必要はありません。ここで牧師の役割とは違うことを理解すること ができます。すでにエペソ人への手紙 4 章から、牧師は羊飼いであり教師であることが分かりま した。牧師は神の言葉を正確に教えることができなければなりません。長老がすべて定期的に神 の言葉を教えているわけではないことは明白でした。1 テモテの手紙 5 章 17 節を思いだしてく ださい。「17 よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさ い。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」しかし、牧師になりたいと 思っているのに、聖書を正確に教えることができないならば、その人には牧師の資格はありませ ん。 話をさらに続けます。監督または長老は酒飲みではないことを教えています。 パウロは、酒を飲 んではいけないとは言っていません。しかし、聖書では常に泥酔は非難しています。アルコール 摂取をコントロールできない人は、その性格に大きな欠陥があります。そのことは長老と見なす には懸念が大きすぎるはずです。さらに、暴力をふるわず、温和で、争わず、..とあります。非 常に論争好きであり、不快であり、誰とも同意をしない理由を探している牧師をわたくしは何人 か知っています。わたしたちは人々と意見を異にすることがありますし、そうであっても、その 意見の相違に対して優しく謙虚になります。長老は、議論や怒りの不一致を起こしやすい人であ ってはならないのです。 監督者が持つべき次の特性は、金銭に無欲で、ということです。お金が原因で没落してしまった 牧師は多くいます。彼らにとって、ミニストリーとして始まったものは、ますます金儲けのため の資金源になっていきました。こうした牧師の説教はより多くの群衆と献金額を集めていくよう にできるのです。その牧師の著書は、人々をキリストの弟子に訓練することが主な目的ではなく なり、印税を増やすことが目的となります。皆と同じように、牧師は生きるため、自分の家族を 養うためにお金を持たなければなりません。しかし、お金を賢く使用する者であることと、お金 を愛する者であることの間には違いがあるのです。 次に、パウロは牧師の家族に目を向けます。4 節と 5 節は言います。「4 自分の家庭をよく治 め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。5 ――自分自身の家庭を治めることを知 らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。――」この聖句は理解でき ますね。では、アダルトチルドレン(子供のような大人)の場合はどうでしょうか? ある男性の 中にいるアダルトチルドレンがキリストに従わない場合、この男性はミニストリーをする者とし て失格になりますか? 彼の妻が信者でない場合はどうなりますか? すべての状況に明確な答え があるかどうかはわかりませんが、教会は、ミニストリーを任せられる者かどうかを検討してい る男性に対して、彼が子供をよく訓練しているかどうかを判断する必要があります。これは主観 的な基準であり、確かに祈りをもって判断されるべきです。しかし、そうする理由は非常に明確 です。長老は教会内で管理責任を行使する人であり、もし彼が自分の子供を管理することさえで きないなら、自分の意志と意見で教会の大人をどのように導くことができるでしょうか。 執事になる資格についても、同様な要件が問われます。しかし執事の要件には、教会の世話に関 する項目は除かれます。1 テモテ 3 章 12 節では、ただこのように言っています。「12 執事は、 ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」この 12 節に ついては来週くわしくお話しします。しかし重要なことは、執事については教会の世話に関して 言及がないことです。YIBC で使用する教材ナインマークスの執事の章の中で、ベンジャミン・ マークルは次のように指摘します。「執事は教会の支配的地位や指導的地位を与えられていないそうした機能は長老に属している。」この言葉は長老が教会をリードする一つの手がかりとなる ようです。 さて、パウロは 6 節と 7 節で長老の資格についての話を終わります。「6 また、信者になったば かりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないため です。7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわ なに陥らないためです。」わたくしは、ポール・デイビッド・トリップが書いた「危険な召し」 という本を持っています。牧師や長老の方々にこの本を読んでいただくことを強くお勧めしま す。特に、牧師や長老になりたいという気持ちをお持ちの方々にとっては必読書です。この本の 最新版(2012 年だと思います)の裏面には、有名な改革派バプテスト牧師 5 名からの裏書が掲 載されています。このうち、2 名は現在も牧会をしており、他の 2 名は不祥事により辞任し、残 り 1 名は信仰を持たなくなりました。このことが、6 節と 7 節で語られる資格が必要な理由なの です。重要なことは、単に力強く始めることではなく、牧会ミニストリーは力強いしめくくりを 迎えることなのです。ピリピ人への手紙 3 章 13〜14 節でパウロが伝えているのは、まさにこの ことです。「13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この 一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走 っているのです。」わたしたちは、辞任しない牧師や長老、この世のものに心をとらわれない牧 師や長老、取り組んでいる目標を見失わない牧師や長老を必要としています。この目標とは、わ たしたち全員を永遠の命へと召して下さる神の永遠の御栄光です。だからパウロは、あなたが牧 師としての資質を見極めようとしている人がいるならば、その人がキリストに従ってきた経歴を 見ることによって吟味してみなさい、というのです。 さて、説教を終える前に、わたくしは長老に関する問題のいくつかについて取り上げたいと思い ます。 最初は、聖書は 1 人の長老が教会を運営する事例を決して示していないことです。教会に は常に複数の長老が仕えています。1 テモテ 5 章 17 節はいいます。「17 よく指導の任に当たっ ている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっ ている長老は特にそうです。」先ほど、2 つのタイプの長老が存在する可能性があるとお話しし ました。ひとつは説教を担当する長老、もうひとつは教育よりもリーダーシップに比重を置く長 老です。使徒の働き 20 章 17 節ではそのことを知ることができます。「17 パウロは、ミレトか らエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。」テトスへの手紙 1 章 5 節ではこう記され ています。「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私 が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。」ここでテモテは、町ごとに一人 ではなく複数の長老を任命することに注意してください。1 ペトロ 5 章 1 節はいいます。「1 そ こで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、ま た、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。」ヤコブの手紙 5 章 14 節は言い ます。「14 あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御 名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」教会の中で複数の長老たちがいること に注意してください。使徒の働き 15 章 6 節はいいます。「6 そこで使徒たちと長老たちは、こ の問題を検討するために集まった。」これはエルサレムの教会でした。 今日、使徒はいません が、各教会には長老がいるはずです。 最後に、ピリピ人への手紙 1:1 では「ピリピにいるキリ スト・イエスのすべての聖徒に、監督と助祭とともに…」と読んでいます。この節では、パウロ が教会全体に挨拶し、監督または長老たちに挨拶しています。 長老たちは複数であることに注意 しましょう。次に執事への挨拶に続きます。執事も複数であることに注意します。 本日の聖書箇所からは外れますが、長老の話にとって非常に重要なことがあります。みなさんは バプテスト教会において教会員としての運営を実践している、ということを知っておく必要があ ります。つまり、教会員は教会における主要事項について最終的に承認をするか否かを選択でき るのです。このことは聖書的です。長老たちはリーダーシップの責務に当たりますが、教会員に よる最終的な承認の選択が残されるべきであるように思われます。だから、わたくしは長老派の 兄弟姉妹のように長老のリーダーシップについてお話しすることを躊躇するのです。聖書の中 に、この根拠となる事例はそれほど多くありませんが、使徒の働きの中で、長老たちではなく教 会が最初の執事を選んだように記されています。「だから、主にふさわしい司教と執事を自分で 選んでください」と記されている古代教会の運営に関する文書もあるのです。 しかし、YIBC や他の教会がどのような教会の運営構造を採用していても、わたしたちとは聖書 の解釈が異なる人や現状維持をとなえる人たちを軽蔑することはできません。わたしたちの教会 運営は、偉大なる羊飼いのご栄光をたたえるように方向づけるものでなければなりません。へブ ル人への手紙 13 章 20 節は言います。「20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエ スを死者の中から導き出された平和の神が。」イエス・キリストが本当の主任牧師であり、偉大 なる羊飼いであり、わたしたち全員が(長老も含めて)彼の羊であるという認識を持って設置さ れない限り、地上に置かれた教会の運営構造はうまくいきません。あなたの罪のために死んだの はイエス・キリストであり、教会や牧師や教派ではありません。あなた、わたくし、教会の中に いるすべての他者、キリストの体の外にいるすべての人は、その誕生の時から罪と呼ばれる問題 を抱えています。ローマ 3 章 23 節はいいます。「23 すべての人は、罪を犯したので、神から の栄誉を受けることができず、」イエス・キリストは、ヘブル人が“永遠の契約”“拘束力のある約 束”と呼ぶものを作るために、私たちのために地上に来られました。この約束は、イエス様の血を 中心に展開します。1 ヨハネ 1 章 7 節はいいます。「7 しかし、もし神が光の中におられるよう に、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべて の罪から私たちをきよめます。」この聖句は、十字架に流されたイエス様の血によって、わたし たちが罪から清められ、赦されることを示しています。そして、わたしたちの罪からの真の救い は、他の人との交わり、つまり教会で生きることなのです。救いにおいて、神はご自身を拒絶し た罪人を連れて行かれます。そして、この罪人とすべての罪は、完全なる人間、つまり神である イエス・キリストにつけられてしまいます。そして、彼ら罪人の身代わりに、神はご自分の息子 であるイエス・キリストを罰したのです。1 ペトロ 2 章 24 節はいいます。「24 そして自分から 十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生 きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」神はその罪 人、つまり、わたしたち 1 人 1 人を見る時、わたしたちの罪ではなく、わたしたちの身代わりに 罰を受けたイエス・キリストの完全な正義を見たのです。こうして、罪人だったわたしたちは、 新しいキリストの弟子として受け入れられて、キリストの体すなわち教会の中に入れられたので す。この教会で、長老たちによる牧会をとおして、わたしたちは福音を教えられます。わたした ちは“福音はわたしたちの生活のあらゆる面に当てはまる”と信じるようになり、それによって、 自ら福音を宣べ伝えることができるようになるのです。これが教会に対する神のビジョンです。 これが神の教会の中にある人生です。これが YIBC の中にあるべき人生です。祈りましょう。 1 Timothy 3:1-7 Elders in the Church Over these next two sermons we will will be talking about church leadership. I hope to show the differences in leadership offices within the church according to Scripture, as well as where we can disagree with others and still fellowship and do ministry together and perhaps where a Biblical understanding of church leadership may limit that involvement. If you are studying the Healthy Church Guides for Sunday School, this topic will be addressed in the last book that is covered. If you are not using that material, I hope as we offer it again as an optional class in years to come, you will be able to go through it. It is a wonderful and solidly Biblical study on what the church should be. So letʼs get into this text today by reading 1 Timothy 3:1-7. 3 The saying is trustworthy: If anyone aspires to the office of overseer, he desires a noble task. 2 Therefore an overseer must be above reproach, the husband of one wife, sober-minded, selfcontrolled, respectable, hospitable, able to teach, 3 not a drunkard, not violent but gentle, not quarrelsome, not a lover of money. 4 He must manage his own household well, with all dignity keeping his children submissive, 5 for if someone does not know how to manage his own household, how will he care for Godʼs church? 6 He must not be a recent convert, or he may become puffed up with conceit and fall into the condemnation of the devil. 7 Moreover, he must be well thought of by outsiders, so that he may not fall into disgrace, into a snare of the devil. Letʼs pray. Paul does not waste any words getting to straight to his next topic with Timothy, and it is the subject of church leadership…primarily, elders, for now. He says, The saying is trustworthy: If anyone aspires to the office of overseer, he desires a noble task. Itʼs like Paul is saying here, “you can trust me on this, if anyone wants to be a pastor, he wants a good and honorable job!” Later on in this text, Paul will use another word translated Deacon in English, but this word here translated “overseer” is one of the words that is used to describe pastors in the Bible or Elders. You will probably hear me use randomly elder or pastor, but understand they are exactly the same thing as we will see. Because the first thing we need to do is define the terms. I try to not do this, but I think it is helpful here. There are three words in Greek that the idea of pastor come from. The first is Poimen. This word is the word where we get Pastor from. The literal meaning is shepherd and it used to apply many times in the gospels to Jesusʼ relationship with his people. Then Paul applies that same term to what is clearly talking about the human leaders in a church…specifically those with authoritative teaching ministry. Ephesians 4:11 is the only place where we see what we know as a Pastor, called a pastor or better shepherd. Ephesians 4:11-12 says, 11 And he gave the apostles, the prophets, the evangelists, the shepherds and teachers, 12 to equip the saints for the work of ministry, for building up the body of Christ. This verse shows us the teaching role that shepherding involves. It is tender leading to proper understanding of God and his plans and purposes for his people by teaching the scripture. This happens from the pulpit as the truth is proclaimed, but it also happens in counseling as scripture and scripture based advice is given to help Christians overcome challenges in their lives. Notice it is Christians they are teaching. Shepherd or Pastor/Teachers are Equipping the Saints -saved people- for ministry, whose ministry then builds the body of Christ. The Shepherd is not primarily an evangelist, although like every Christian, every Pastor is called to proclaim the gospel and every scriptural sermon that is true to the Bible points to Jesus Christ. The second word that describes what we many times call Pastors is Presbuteros. This is the word translated elder and is the most often used word for this office. I would say that it would be good for us to use Biblical language to talk about Biblical offices, and this is the word that the Bible chooses to use almost everytime church leaders are spoken of. In 1Timothy 5:17, Paul says, “Let the elders who rule well be considered worthy of double honor, especially those who labor in preaching and teaching.” I want to look again at this verse in a different light later on, but it seems to show the idea that there may be paid and unpaid elders. All the elders are on the same level, but the church could be paying ‒ giving double honor ‒ to the one they have called to do the regular preaching and teaching of Godʼs Word. There is a third word and that is the one that we see in this passage, Episkopos ‒ the word here for overseer. Sometimes in the past this word has been translated bishop. This word is only used only 4 times in relation to leaders in the church. By using this word for a pastor, it shows that there is an authoritative oversight function that pastors do perform in the church. A pastor is not at a church to simply do whatever the Deacons want as it is in some Baptist churches or to make people happy all the time. The pastors role is to lead. That leadership is as a shepherd, not a king or dictator, but it is leadership. You may have noticed these words bear similarities to some denominational names ‒ presbuteros, Presbyterian. Episkopos, Episcopalian or Episcopal. These are really specific forms of church government based on an understanding of those words. Churches that adopt an Episcopal form of government read these three words as different offices of church leaders and have come up with offices of Bishop to oversee groups of churches that are then led or pastored by priests or pastors. Roman Catholic, Anglican, and Methodist Churches represent the groups that interpret it this way. You can tell that is not how I am saying they are best interpreted. All three of these words are used sort of interchangeably in the New Testament, and seems to speak of just one office that we have in modern times called Pastor. In fact in Acts 20 verse 17 Paul calls together the elders (presbuteros) of the church at Ephesus, but then in verse 28, he calls that same group of men, overseers (episkopos). There is no need to view them as different offices within the church, but as different roles of the same office. Now that we have defined the terms, we can see Paulʼs main point about pastors, which is this ‒ What should we look for in Pastors? Letʼs start at verse 1, “If anyone aspires to the office of overseer, he desires a noble task.” There is the first thing to look for ‒ desire. We put lot of emphasis on calling, but the New Testament, as I keep saying, puts the emphasis on gifting, desire and as we will see in the next several verses, character. Desire is not enough, but it should be there to serve in this “noble task” of being a pastor. Letʼs go on to verse 2 2 Therefore [because this is such an important task] an overseer must be above reproach… This is what I would say summarizes what should characterize the life of the Elder/Pastor. To be above reproach means that no one can bring an accusation against you. Another word in the Bible for this is blameless. What I want to point out, though, is that all of the moral requirements in these verses and the upcoming one describing Deacons are the same expectations for all believers. We are not looking for super Christians as pastors, but those who demonstrate the same committed lifestyle required of all believers. Look at Philippians 2, where Paul gives the same command for being blameless to all believers. Philippians 2:14-16 says, 14 Do all things without grumbling or disputing, 15 that you may be blameless and innocent, children of God without blemish in the midst of a crooked and twisted generation, among whom you shine as lights in the world, 16 holding fast to the word of life, so that in the day of Christ I may be proud that I did not run in vain or labor in vain. Notice that the focus in on our reputation in the world around us, and the pastor like all Christians is to have a reputation of innocence of wrongdoing. The verse continues, the husband of one wife… Now, this has been interpreted very strictly to mean no divorce…ever. Each church has to decide for themselves what to do with this, but that is not really the meaning of this verse. It literally means “a one-woman kind of man.” In thinking through what to do with this verse, we have to remember that before Christ, each of us was a sinner, and even after Christ, sin still affects each of our lives, and even our spouses. The goal seems to be to examine the man for where he is at that time in his life. So, even a man with a divorce in his past, especially one that happened prior to salvation can definitely still be living currently as a the husband of one wife and a one woman kind of man. Let me also say that this does not say or mean one wife at a time. There are some men that in my opinion with their history of marriages and divorces have disqualified themselves from ministry no matter how gifted they are in any other way. Before we leave this section, notice that this is the only mention of women in the section on elders. In the teaching regarding Deacons, Paul will directly address women. I know it is not enough to base an entire understanding on, and the point of last weekʼs sermon was that women are restricted from the role of elder, but this is another clue that elders are to be men. Paul continues with four words, sober-minded, self-controlled, respectable, hospitable, Paul will deal with alcohol in the next verse, this use of sober-minded means to be free from rash or excessive and aggressive response. The next word is self-controlled. The Pastorʼs emotions and actions do not get the best of him. He is a person who respects others. He is also to be someone who knows how to be hospitable to others, who doesnʼt push others away but has a personality that is willing to engage with others and even invite them into his home. Next we see the description, able to teach… When we look at Deacons next week, youʼll see there are basically the same moral requirements of Deacons and all of these moral requirements are really what is expected of all Christians. But this one is different. The Deacons are not required to possess this ability, which gives us an understanding of the differences in the roles. We have already seen from Ephesians 4 that the pastor is a shepherd-teacher. The Pastor must be able to accurately teach the Word of God. Now it was clear as we saw that not all the elders did that on a regular basis. Remember 1Timothy 5:17, Paul says, “Let the elders who rule well be considered worthy of double honor, especially those who labor in preaching and teaching. But if a man wants to be a pastor and cannot accurately teach the Bible, he is not qualified. Paul then tells us that the overseer or elder is not to be a drunkard. It doesnʼt say he can not drink, but getting drunk is always condemned in scripture. Someone who cannot control alcohol is showing a great flaw in his character that should be serious concern for considering that man as an elder. He continues, not violent but gentle, not quarrelsome… I know some pastors who are so argumentative and disagreeable and look for reasons to disagree with anyone. We can disagree with people and still be gentle and humble in that disagreement. An elder should not be a person prone to arguing and angry disagreements. The next character trait an overseer should possess is to not [be] a lover of money. Money has been the downfall of many pastors. What started as a life of ministry became a source of more and more money. Messages can begin to change to build bigger crowds and offerings. Books get written not to primarily disciple people to follow Christ, but to get more income. Just as everyone of you, a pastor has to have money to live and to provide for his family, but there is a difference between a user of money or even a wise handler of money and a lover of money. Next Paul turns to the Pastorʼs family. Verse 4 and 5 says 4 He must manage his own household well, with all dignity keeping his children submissive, 5 for if someone does not know how to manage his own household, how will he care for Godʼs church? This verse can be understood in several ways as well. What about adult children? If a manʼs adult children are not following Christ, is he then disqualified from ministry? What if his wife is not a believer? Iʼm not sure that there is a clear cut answer to every situation, but each church does have to judge whether the man they are considering is disciplining his children well. This is a subjective standard that should be prayerfully judged, for sure; but the reason for it is very clear. The Elder is one who is to exercise management responsibilities within the church, and if he cannot even manage his children, how can he lead a church of adults with wills and opinions of their own. Now this particular qualification is interesting. As with most of these qualifications, the Deacon is required to have the same qualifications. But when the Deacons are addressed it leaves out the part about caring for the church. 1 Timothy 3:12 simply says, 12 Let deacons each be the husband of one wife, managing their children and their own households well. We will of course deal with this verse in detail next week, but it is important to note the lack of mention of care for church with the Deacons. In an article from 9 Marks on Deacons, Benjamin Markle rightly pointed out that this shows that “Deacons are not given a ruling or leading position in the church ‒ that function belongs to elders.” This is another indirect clue that Elder lead in the church. Now Paul finishes the qualifications with these remarks in verse 6 and 7, 6 He must not be a recent convert, or he may become puffed up with conceit and fall into the condemnation of the devil. 7 Moreover, he must be well thought of by outsiders, so that he may not fall into disgrace, into a snare of the devil. There is a book I have and highly recommend to pastors and those headed to pastoral elder ministry called Dangerous Calling by Paul David Tripp. I highly recommend anything he has written, but for any man who desires to be an elder or pastor, it is a “must read.” On the back of the latest paperback printing of the book, which I think was 2012, there are 5 endorsements from 5 different well-known reformed Baptistic pastors. Today of those 5 pastors, only 2 are rd still in the ministry, 2 resigned in disgrace, the 3 , Joshua Harris, came out a couple weeks ago and said he no longer considers himself a Christian. This is the reason for this final qualification. It is important to finish strong in Pastoral ministry, not just start strong. This is why Paul says in Philippians 3:13-14, “13 Brothers, I do not consider that I have made it my own. But one thing I do: forgetting what lies behind and straining forward to what lies ahead, 14 I press on toward the goal for the prize of the upward call of God in Christ Jesus.” We need pastors and elders who will not quit, who will not get caught up in the things this world has to offer and lose sight of the goal they are working towards ‒ the eternal glory of God who is the one who calls us all to eternal life. So, Paul says, test the man who you are examining to be pastor to see a history of following Christ. The Passage ends here, but I would like to address a couple other issues with elders before we close. The first is this. The Bible never shows a single Elder model of church government in the Bible. There are always multiple elders serving in a church. 1 Timothy 5:17 says, 17 Let the elders who rule well be considered worthy of double honor, especially those who labor in preaching and teaching. We looked at this earlier, that there could be two types of elders, one who is charged with preaching and another whose role is more leadership, less teaching. In Acts 20:17, we see multiple elders. “17 Now from Miletus he sent to Ephesus and called the elders of the church to come to him.” In Titus 1:5 Paul says, “5 This is why I left you in Crete, so that you might put what remained into order, and appoint elders in every town as I directed you.” Notice Timothy is to appoint multiple elders, not a single elder in each town. 1 Peter 5:1 begins, “So I exhort the elders among you…” In James 5:14, James says, “14 Is anyone among you sick? Let him call for the elders of the church, and let them pray over him, anointing him with oil in the name of the Lord. Notice he is calling multiple elders from the same church. In Acts 15:6 we read, “6 The apostles and the elders were gathered together to consider this matter.” This was the church at Jerusalem. There are no apostles today, but there should be Elders in each church. Finally, in Philippians 1:1 we read, “To all the saints in Christ Jesus who are at Philippi, with the overseers and deacons…” You see here in this verse Paul greeting the church as a whole, then the Overseers or eldersnotice more than one- then the Deacons ‒ notice more than one, but two separate offices. It is out of the scope of this passage, but very significant to the topic of elders, but as a Baptist church you should be aware that we practice a congregational government, which means the congregation gets the final approval on the major decisions of the church. This is Biblical. While there are two offices, and the Elders are charged with leading, it seems that the congregation should be left with the final rule, which is why I hesitate to describe elder leadership as elder rule like my Presbyterian brothers and sisters would. There is not a whole lot of Biblical evidence, but in Acts it seems the church, not the elders chose the first Deacons, and after the Apostles die, the first generation of churches seemed to follow a congregational pattern to choose new pastors. There is an ancient church rule document, sort of like a bylaws perhaps, called the Didache that says, “Therefore, choose for yourselves bishops and deacons worthy of the Lord…” But no matter what type of church structure YIBC or any other church adopts, it is not to be able to look down our noses at those we may disagree with who interpret the Bible differently than us, or simply like the status quo. Even our church government must be directed to glorify the Great Shepherd. Hebrews 13:20 Now may the God of peace who brought again from the dead our Lord Jesus, the great shepherd of the sheep, by the blood of the eternal covenant. No structure we set up on earth will succeed unless it is put in place with the recognition that Jesus Christ is the real Senior Pastor, the Great Shepherd and we -all of us, elders included ‒ are his sheep. It was Jesus Christ who died for your sins, not any church or pastor or denomination. You and I and every other person in the church and outside of the body of Christ have a problem from birth called sin. Romans 3:23 says, “for all have sinned and fall short of the glory of God.” Jesus Christ came to earth for us to make what Hebrews calls an eternal covenant ‒ a binding promise. That promise revolves around his blood. 1 John 1:7 tells us, “But if we walk in the light, as he is in the light, we have fellowship with one another, and the blood of Jesus his Son cleanses us from all sin.” This verse shows that Jesus Blood that was shed on the cross is what allows us to be cleansed from and forgiven for our sin. But, see in this verse, too…truly having salvation from our sins is lived out in fellowship with others ‒ in other words in the church. In salvation, God takes an individual sinner who has completely rejected him, and all of that sinners and every humans sins are placed on the one perfect human ‒ who is God the Son, Jesus Christ. And instead of punishing that sinner, he punished his own son 1 Peter 2:24 says, “24 He himself bore our sins in his body on the tree, that we might die to sin and live to righteousness. By his wounds you have been healed.” Then he took that sinner, and no longer saw the sin, but the perfect righteousness of Jesus Christ and places that new follower of Christ into the Body of Christ, the church, so that under the shepherding of elders, they can be taught how the gospel they believe applies to every aspect of their lives, which equips them to do ministry. This is Godʼs vision for his church, this is what life should be in his church, this is what life should be at YIBC. Letʼs pray.
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