1 Timothy 3:8-13 Church Leaders:Deacons
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1 Timothy 3:8-13 Church Leadership: Elders
先週は第一テモテ 3 章の最初の 7 節を見ましたが、そこでパウロは教会でのリーダーについて話
し始めました。まず彼は長老と牧師について話しましたが、彼らの役割が教会全体のリーダーシ
ップと教えであり、さらには一人以上で構成されることが書かれていました。今日も引き続きパ
ウロは教会で仕える者について話します。執事(Deacons)です。第一テモテ 3:8-13 を一緒に
読みましょう。8 執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳(キンゲン)で、二枚舌を使わ
ず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、9 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人で
す。10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさ
い。11 婦人執事も、威厳(イゲン)があり、悪口を言わず、自分を制し、すべてに忠実な人でなけれ
ばなりません。12 執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければな
りません。13 というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良い地歩を占め、また、キリス
ト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるからです。祈りましょう。
先週は長老の資格について、新約聖書で「監督の職」が何を意味するか学びました。今週は執事
についても同じくその定義を見て行きたいと思います。新約聖書は執事については多くを語って
いませんので、結論づけるには慎重にならないといけませんが、実際問題としては教会がそれぞ
れ多少のバリエーションを持ちながらも執事については聖書に忠実である事が可能であると思わ
れます。使徒の働きにおいてはじめて執事という発想が描かれています。ここにおける男たちは
Deacon と命名されていませんが、これらがはじめての執事を意味していると考えられます。使
徒の働き 6:1-6 1
そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、
ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配
給でなおざりにされていたからである。2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言っ
た。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。3 そこ
で、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさ
い。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。4 そして、私たちは、もっぱら祈
りとみことばの奉仕に励むことにします。」5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、
信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、ア
ンテオケの改宗者ニコラオを選び、6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈
って、手を彼らの上に置いた。
この個所から、執事の役割とさらには執事がどのように選ばれるべきかを理解できます。とにか
く教会の一致が最重要であり、パウロは第一コリント 1:10 にこのようにまとめています「さ
て、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いしま
す。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってくださ
い。」
では使徒の働きで描かれている最初の教会ではどうだったのでしょうか?ギリシャ系の未亡人が
毎日の食事を与えられていなかったためネグレクトされており、そのため教会には亀裂が生じて
いました。当時社会保険など存在しませんので子供がいない未亡人は面倒を見てくれる人がいな
い、逆に子供をもった未亡人は信者となったため、子供たちが異なる信仰をもつ母親を見捨てた
のかもしれません。この初期教会はまだ使徒 12 人が長老であり、彼らは教会―キリストに従う
信徒―を集めて執事を選任するという提案をしたのです。注目するべき点は、これは使徒だけで
も牧師と長老たちのみで決めたのではなく、教会が一体として決めたのです。そしてこの手法は
今日も続いており、長老のように明確ではありませんが、明らかに教会が執事を選んでいます。
エルサレムの初期教会は 7 名の男を執事として選びます。どうも 7 人という人数が絶対である必
要は無いと思われますが、絶対に 7 人と設定している教会もあります。教会が必要な人数が重要
であり、それぞれの教会が大人数でも少人数でも選ぶ自由があります。これら初期の執事たち
は、選ばれそして任命されました。さらにはこの任命というのも、単純に使徒か長老がかれらの
ために祈りました。現在も新しい執事を任命する時には同じことをします。他の要素もあります
が、基本的には牧師であれ執事であれ、彼らを選別して Ministry に成就させる祈りを捧げます。
では執事の由来を検証してきましたので、その言葉が聖書でどのように用いられていいるか見て
いきましょう。聖書において、長老は 3 つの異なる単語で表現されているますが、執事は唯一
「diakonos」という単語のみが用いられています。この単語は正に仕える者という意味です。新
約聖書では頻繁に使われますが、これは教会の部門を意味するのではありませんので、使徒の働
き以降の聖書でどのような役割を行ってきたかが分かりにくいのです。この役職が Deacon 以外
として翻訳されてきた場合もあり、これが教会で与えられた役職の持ち主なのか、仕える者とし
て選ばれたのかが明確ではありません。この良い例がコロサイ人への手紙 1:7 です:「これはあ
なたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私た
ちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって」忠実な仕え人というフレーズの単
語は diakonos が用いられており、忠実な執事と読み取れます。また diakonos は Minister と表
現されることも多いのですが、Minister が使われる場合の多くで教会の部署とは関係ない場合は
仕える人として訳せる場面になります。コロサイ人への手紙において翻訳書はパウロが愛情をも
って共に奴隷となって仕える者と呼ぶ Doulos と、仕える人 Diakonosu との違いを明確にしよう
としており、歴史的には牧師よりは Minister という言葉を用いる方が適しているようにも思われ
ますが、同時に牧師を含めて全ての人が Ministry を行うように呼びかけられていると考えられま
す。
この minister という動詞が執事など仕える人を教会の職員として、音楽の Minister、子供プロ
グラムの Minister などといった感じで仕える役割を与えられ、牧師と長老とは違う形で執事とし
て雇用され、他の形で仕えることができます。多くの教会もこのようにしてきました。誰かを
Minister と呼び教会のスタッフとしますが、牧師ではありません。我々が聖書に忠実で寄り添い
続けたいのであれば、ここで描かれている人は実質上フルタイムで執事をこなし、そしてこれは
聖書的にも忠実な対応方法だと思えます。
使徒の働きにおいてどのように Deacon または新約聖書で Deacon と呼べる人が用いられている
かに目を向けますと、どのようにして執事が教会に仕えて Ministry を整理できるかが見えてきま
す。聖書では明言されていませんが、使徒の働きでは彼らが食事を提供することによって未亡人
をケアする場面が見えてきます。これは現実的な問題であり、教えと霊的方向性とは違う側面で
リーダーシップの力が必要とし、さらには Deacon に委ねて頼る方がベターな事柄が浮かび上が
ります。再び使徒の働き 6:2-4 に戻りますが、使徒と呼ばれる長老たちが自らが何に集中するべ
きかを話しています。2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神
のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。3 そこで、兄弟たち。あな
たがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人
たちをこの仕事に当たらせることにします。4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕
に励むことにします。」彼らは長老が集中するべきことを書き出します:神の言葉を伝えて祈り
とみことばの奉仕です。みことばの奉仕は説教であり、教えるという奉仕も説教と同類です。そ
うすると群れをケアするためのニーズは実に幅広くまだ残る事になります。特にキリストの身体
と呼ばれて統一されており、この地球上にはこのような他には存在しない組織を考えるとなおさ
らです。
現在の Context で申し上げますと、物理的な建物が与えられてその中でキリストの身体は集いま
す。教会に絶対必要ではありませんが、建物があった方がベターです。これら建物は維持管理が
必要となってきます。そして教会として弟子づくりへの取り組みを考えた時、Sunday School
という組織を設定し、子供たちをあらゆるレベルに応じた方法を考えます。そのためには教材の
発注が必要となります。これらも Pastor が出来ますが、これは仕える人/執事にお願いしたほ
うがベターです。長老と牧師のメインの働きは日曜日の朝に行われる礼拝賛美ですが、礼拝にお
けるその他要素は他の人に任せるのがベターかもしれません。アッシャー、グリーター、サウン
ド、音楽のスケジュール、パソコンの操作担当などです。
これら初期教会には存在しなかった働きですが、神様がこのように初期教会には牧師だけでなく
執事を仕えさせることによって、今日においても教会が聖書に忠実な働きをすることができま
す。これら奉仕活動を読みますと、大部分は人を要しており、使徒の働きでもありますように、
各自必ずしも一致はしていません。神様は Deacon を呼び掛けて、これら奉仕を行う人たちがキ
リストの身体において役割が与えられるようにしています。こちらの画面において Deacon
Council がどのような役割をもって奉仕の働きを成就しているかが分かります。すでに役割が与
えられたものもあれば、まだまだ調整が必要なところもあります。
これら役割は流動的でもありますが、不変で常に真実でなくてはならない事とは、パウロが今日
の個所で伝えている事です。パウロが聖霊の導きによって Deacon に相応しい資格として第一テ
モテに記していることを見ましょう。8 節には執事もまたとあります。彼は長老と監督する職の
者の資格について書き終えたばかりですが、続けてまた違う教会の部門について書くのですが、
Deacon の役割が長老の役割と比較してもまたと表現するのです。すなわち資格が大きく異なる
のではなく、実際には執事と長老の資格には重複する項目が多くあります。すでに牧師について
申し上げました通り、牧師はスーパークリスチャンでもありませんし、Deacon も同じく特別な
クリスチャンではありません。全てのクリスチャンがそうするようにと呼びかけられている当然
の生き方をする必要があるのです。
パウロがまず書いているのは、Deacon は謹厳でなくてはなりません。すなわち尊敬される男性
であるということです。監督する者は非難されることなくが第一に掲げられていたように、
Deacon も尊敬される男性と女性として目に映らないといけません。そしてこれが何を意味する
か、プラス要因マイナス要因のリストを書き記していきます。二枚舌ではない者。誠実であり信
頼できる者ということです。監督の職に就く者と同様に酔っ払いではない事ですが、パウロはこ
こであえて大酒飲みでなくとしています。繰り返し申し上げますが聖書においてアルコールは禁
じられてはいませんが、同時に繰り返し繰り返し明確にしなくてはいけないのは酔っ払い行為は
罪であり、アルコールをコントロールできない人は教会のリーダーとして検討はできません。パ
ウロがエペソ人への手紙 5:18 であえてこのように言った事には理由があります「また、酒に酔
ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい」。さらにはパウロは
長老と同じく不正な利をむさぼらずとあるように、お金にたいする執着に警戒を鳴らします。彼
らの奉仕の性質上、健全な教会において、執事は牧師が管理する範囲より大きい教会の収入を直
接に管理するからです。Building and Grounds Committee と人事関係の Personnel
Committee、そして献金を実際に数える働きは実際に Deacon が直接関わるべき内容です。こ
れは牧師が関わる金額を遥かに超える金額が執事により管理されている事を意味するため、お金
を誠実に使い、お金と欲に左右されてはいけません。
9
きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。信仰の奥義とは福音の真実です。エペソ
3:6 には「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者
となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」とあ
ります。パウロは奥義がイエス・キリストによってユダヤ人が異邦人を問わずに全ての人がキリ
ストの身体の一部となれることです。この真実が良き知らせの中心にあります。福音とはイエ
ス・キリストが全ての罪びとのためにお亡くなりになられ、誰でも信仰をもって彼の元に来て、
彼を救い主として受け入れるのであれば罪が許されて創造主である神との関係が修復されるので
す。そのため執事は福音の真実に対して強い信念を持たなくてはなりません。しかしそれは単純
に豊富に勉強した知識により毎回正解な答えをもっているのではありません。執事は疑いのない
良心で信仰をもたなくてはいけません。真実を行い、福音を生き、単純に福音を信じていると口
先で言うだけではありません。これがヤコブの手紙 2:17−18 に書かれていることです。17 それ
と同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。18 さら
に、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。
行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなた
に見せてあげます。」
執事の信仰は口先の綺麗ごとではなく、生き抜かれないといけないという事が 10 節に書かれて
います。10 まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせな
さい。パウロが審査を受けさせなさいと言っているからと言って、牧師と同じように審査するの
ではありません。なったばかりのクリスチャンではなく、キリストに仕える経歴が必要であるの
はこのためです。執事は長年の信仰生活を証明する必要はありませんが、今の生活が信仰を反映
させる必要はあります。先週牧師について学んだ時と同じ言葉が用いられていますが、非難され
る点がなければです。彼らが宣言している通りの生き方をしていないと言われるようなことはあ
ってはいけません。審査されるプロセスは教会によって異なるかもしれません。YIBC では
Deacon Council が候補者と面談して質疑をした上で彼らの証を聞き、自らの生き方が信仰を反
映させるか審査した上で、教会全体に執事の候補者として名前を挙げます。そして教会全体とし
ても任命する前に証をシェアしていただいた上で、祈りを捧げて執事として神様の前に委ねま
す。このように何らかの形で資格者として審査されるプロセスが必要です。
11 節へと展開していきますが、ここで教会の間で見解が違う個所に行きます。ここ 2 週間の説
教を通しても明確に出来たと思いますが、長老または牧師の責務が男性に限定されている事を一
緒に学んできました。しかし執事の責務は違います。我々は教会として、そして牧師として執事
は男性と女性両方が仕えられると考えています。この個所の言葉遣いは難しく、私が伝える事が
明確に伝わる事を願います。
新改訳では 11 節にこう書かれています。11 婦人執事も、威厳(イゲン)があり、悪口を言わず、自
分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。英語の English Standard Version では男
性の執事の妻という表現で訳されていますが、日本語の新改訳はギリシャ語の原文が女性と妻を
同じ表現で用いている事が分かります。あえて執事の妻についての指摘がありながら、先週読ん
だ監督の職に就く者の妻について言及されないのは不自然であります。特に聖書では長老が男性
のみであるとしているのであれば、なおさらです。これは不自然な表現であり、12 節の家族をよ
く治めるという個所と同じく不自然さがあります。
長老と執事の資格の違いを考え、さらにほかの聖書の個所を合わせて考えますと、女性が執事に
任命さえていた事は明らかであり、ローマ人への手紙 16 章も同じように、最も明確に女性の執
事に言及しています。ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたが
たに推薦します。ESV の英訳全般を私は好んでいるのですが、この個所においても仕える者を執
事と訳していませんが、他の訳では新改訳と同じように執事としています。とにかくこの個所を
もっても女性を執事とする事を推薦していると思われます。
もうひとつの可能性は夫婦の執事チームです。YIBC にはありませんが聖書にはこのようなアレ
ンジの可能性にも言及している、または推奨していると思われます。ここには女性執事が威厳で
あるように書いていますが、執事の資格について最初に挙げた資格そのものですが、そして悪口
を言わずとありますが、うわさ話を駆り立てないことです。そしてあえてすべてに忠実な人とし
ています。これは非難されない人の資格を表現していると思います。忠実に仕えていることが執
事の生き方に象徴されないといけません。執事になってからあらたに得たものではなく、すでに
執事として選ばれようとする候補者の生き方にそれが反映されていることです。
パウロは引き続き 12 節で長老たちにあたえた同じフレーズを用います。12 執事は、ひとりの妻
の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。詳細について語ろうとは思
いませんが、これは長老ともども、一人の女性を愛す男子であるべきと言っています。自身の結
婚に対して忠実であることを示す事です。
これは必ずしも離婚した事が無い人を選ぶようにと言っている訳ではありませんが、おそらく確
実に欲求とかポルノなどに問題がある人ではダメだとしているでしょう。長老と同じように、男
性であれば父親として、女性であれば母親としてどのようであるかが、彼らがどのようなキャラ
クターの持ち主で、教会のその他メンバーとどのように機能するかが問われます。
パウロは 13 節でこのように締めます。13 というのは、執事の務めをりっぱに果たした人は、良
い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について強い確信を持つことができるから
です。これは執事として仕える者がどのようになるかのみではなく、信仰を与えられてイエス・
キリストに仕える者がどうなるかが描かれています。執事のみならずクリスチャン全てにとって
最優先されるべきイエス・キリストに仕える事ですが、信仰が成長すればさらにあなたに力を与
えるイエス・キリストに仕える力が与えられます。そしてイエス・キリストへの信仰こそが我々
が仕えるための全ての基礎となります。神様があなたを Deacon として、又は牧師として呼びか
けても、又はキリストの身体の一員である教会員としてかもしれませんが、与えられた賜物を用
いて仕える基礎となるのはイエス・キリストへの信仰です。神様の恵みを自らの力でこじ開ける
事はできません。執事になる事も含めてです。我々の罪はあまりにも奥深く、神様にとってはあ
まりにも大きな憤りの対象であり、聖なる完璧な神様のために何をしようとどんな奉仕をしよう
としても足りません。それが執事をすること、Sunday School の先生をすること、牧師であっ
てもです。我々は自らが罪びとであり罪に背を向けて、イエスキリストが十字架で我々の代わり
に支払った罪の代価を受け入れる事によって、罪を悔い改めなくてはなりません。
イエスキリストへの信仰によって我々の内から仕える事が出来、仕える事によて信仰が成長され
ます。主に仕えるために牧師とか執事になる必要はありません。神様は彼を救い主として知る者
を、彼に仕えるために創造されたのです。エペソ 2:10 に書かれているように、私たちは神の作
品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たち
が良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
我々はどのような奉仕、どのような働きを神様のためにしますか?執事になる事ではないかもし
れませんが、確実に何かです。祈りましょう。
1 Timothy 3:8-13 Deacons in the church
Last week we looked at the first 7 verses of 1 Timothy 3, where Paul began discussing
the subject of church leadership. He began by discussing the Elders or Pastors of the
church, and we saw that their role was overall leadership and teaching and that the
expectation is that there is more than one of them. Today Paulʼs discussion of
leadership continues by looking at the servant leaders of the church ‒ Deacons. Letʼs
begin by reading 1 Timothy 3:8-13. 8 Deacons likewise must be dignified, not doubletongued, not addicted to much wine, not greedy for dishonest gain. 9 They must hold
the mystery of the faith with a clear conscience. 10 And let them also be tested first;
then let them serve as deacons if they prove themselves blameless. 11 Their wives
likewise must be dignified, not slanderers, but sober-minded, faithful in all things.
12 Let deacons each be the husband of one wife, managing their children and their
own households well. 13 For those who serve well as deacons gain a good standing for
themselves and also great confidence in the faith that is in Christ Jesus. Letʼs Pray.
Last week as we were studying the qualifications for Elders, we went through the New
Testament to discover what was meant by the term overseer. We need to do the same
with the Deacons. The New Testament does not actually say a lot about Deacons, so we
need to be careful in drawing conclusions, but it seems that how Deacons actually are
used in the church can differ greatly from church to church and still be in line with
Biblical truth. In the book of Acts, we find the first idea of Deacons. The men we see
there are not called Deacons, but we take them as the first ones. Letʼs read Acts 6:1-6
to see the beginnings of Deacons, “Now in these days when the disciples were
increasing in number, a complaint by the Hellenists arose against the Hebrews because
their widows were being neglected in the daily distribution. 2 And the twelve
summoned the full number of the disciples and said, “It is not right that we should give
up preaching the word of God to serve tables. 3 Therefore, brothers, pick out from
among you seven men of good repute, full of the Spirit and of wisdom, whom we will
appoint to this duty. 4 But we will devote ourselves to prayer and to the ministry of the
word.” 5 And what they said pleased the whole gathering, and they chose Stephen, a
man full of faith and of the Holy Spirit, and Philip, and Prochorus, and Nicanor, and
Timon, and Parmenas, and Nicolaus, a proselyte of Antioch. 6 These they set before
the apostles, and they prayed and laid their hands on them.”
From this passage, we get a good understanding of the role of the Deacon and even
how Deacons should be chosen. Remember that the unity of the church is of primary
importance. Paul summarizes this well in 1 Corinthians 1:10, “I appeal to you, brothers
and sisters, in the name of our Lord Jesus Christ, that all of you agree with one another
in what you say and that there be no divisions among you, but that you be perfectly
united in mind and thought. That sets the stage for what was happening in Acts. There
was disunity in the church because the Greek (what the ESV called Hellenist) widows
were being neglected in the food that was given to widows each day to help them out
as there were no social welfare structures to take care of those without children to
take care of them. If they had become believers, their children could have rejected
them. This was still early in the church, so the elders or pastors were the 12 apostles.
They called the entire church together ‒ all the disciples or followers of Christ ‒ and
the solution they proposed was to choose Deacons. Notice it was not the Apostles, the
Pastors or elders of the church who chose the Deacons. It was the church body itself.
This should be our pattern today, and although it was not as clear with elders, it is very
clear here that the church chose the Deacons.
The early church there in Jerusalem chose 7 men to serve as Deacons. There does not
seem to be a need to stick to 7 only. I know some churches do, but the number is not
significant. It is the number that that church needed, and each church is free to choose
as many or as few as they need. In the case of these first Deacons, they were simply
chosen and then ordained. I say they were ordained, but their ordination was simply
being prayed over by the Apostles or Elders. In essence, this is still what we do when
we ordain new Deacons. Whether there are other elements involved, ordination for
either pastors or deacons is basically a prayer of dedication over them for the ministry
to which they are being set apart.
Now that we have looked at the origin of Deacons, it is useful to examine the word
itself and how it is used in Scripture. There were three different words for elders in the
Bible, but for Deacon, there is only one word, diaconos. The word literally means one
who serves. It does come up often in the New Testament, but not referring to the
church office, which is why it is difficult to trace a pattern after the Deacons are
instituted in the book of Acts, and even in Acts they are never called Deacons,
although it seems clear that is their function. We do see the word translated in ways
other than Deacon, and sometimes it is unclear whether it is referring to someone with
an official office in the church of Deacon or perhaps just someone being pointed out
as a servant. One example of this is found in Colossians 1:7 which says, “7 just as you
learned it from Epaphras our beloved fellow servant. He is a faithful minister of Christ
on your behalf.” That word, faithful minister is the phrase faithful diakonos or faithful
Deacon. Diakonos is many times translated minister and in many of those cases could
easily be translated servant as it is usually translated when it does not refer to the
church office. In Colossians, the translators are trying to show the difference between
where Paul calls him our beloved fellow servant (Doulos, slave) and then minister
(Diaconos, servant) It does seem like the term Minister applies to this role more than to
the office of Pastor, although historically, it has been applied to pastors and all of us
are called to do ministry. It is this use of the word minister to refer to a Deacon like
servant that seems to allow a church to bring someone on staff as a “Minister of
something, music, children, education, whatever…” And I would say that it is
appropriate to have people on staff like that and they are not serving as pastors or
elders, but basically paid Deacons to specifically serve in certain areas. Many churches
have done this. They will call someone a Minister and put them on church staff, but not
as a Pastor. If we want to stay close to the Bible and how these roles are defined, this
person would actually be functioning as a full time Deacon, and it seems like that is a
good Biblical way to handle that distinction.
Looking at how Deacons were used in the book of Acts and the various people who
may be referred to as Deacons in the New Testament, we can get a picture of how
Deacons can serve in the church and be organized for ministry. On this point the Bible
is pretty silent, but of course Acts shows them taking care of food distribution for
widows. This is a practical concern, and gives us an idea that the practical matters of
the church that are not related to the teaching and spiritual direction and leadership of
the church are best left to Deacons to manage. Going back to Acts 6:2-4, notice what
the Apostles, the Elders of the church said they were supposed to focus on. “It is not
right that we should give up preaching the word of God to serve tables. 3 Therefore,
brothers, pick out from among you seven men of good repute, full of the Spirit and of
wisdom, whom we will appoint to this duty. 4 But we will devote ourselves to prayer and
to the ministry of the word.” They listed three tasks that were supposed to be the
focus of the elders ‒ preaching, prayer, ministry of the Word. Ministry of the Word is
the preaching and teaching ministry of the church so it goes with preaching. That
leaves a whole lot of other stuff that happens in any group of people that needs to be
taken care of, especially a group of people called to be unified as the body of Christ
and represent a loving body like no other organization on earth can do.
In our modern day setting, it means that we now have buildings for that body of Christ
to meet in. Although it is not necessary for the church, it is nice to have. Those
buildings need taken care of. As we have looked for the best ways to do discipleship as
a church, we have developed this organization called Sunday School and figured out
ways to teach children at their developmental levels. That requires management of
teacher schedules and materials to be ordered. All things that a Pastor can do, but
probably are better left to servants/Deacons within the church. Elders and Pastors are
primarily responsible to God for the worship that happens on Sunday mornings when
the church gathers, but there are logistical parts to the worship service that are better
looked after by others ‒ ushers, greeters, sound board technicians, musician schedules,
Proclaim software computer operators. All these things which were not present in the
early church, but that help us be the church in the way that is Biblical but modern are
why God set up not just Pastors, but Deacons to make sure that these details are taken
care of. If you look at all of those ministries, for the most part, they involve people, and
as in the book of Acts, people will have disagreements. It is the Deacons who God has
called to the task of unifying all of these people in ministry as each person seeks to
find their place of service in the body of Christ. To give you an idea of how we are
working toward organizing our Deacon Council at YIBC, I have on the screen a list of
the Deacon roles that we are working towards. Some of them we have filled and others
we are still working on what they look like.
The roles can be fluid, but what cannot be changing and what must be true of any
Deacon are what Paul is talking about in this passage for today. So, letʼs now return to
this description of the qualifications for Deacons that Paul under the inspiration of the
Holy Spirit is giving us here in 1 Timothy. Notice he begins in verse 8, Deacons likewise.
He has just finished talking about the qualifications for Overseers or Elders and now he
turns to the other office in the church and says basically here are qualification for the
Deacons, just like the elders or likewise. In other words, these are not different
qualifications, and there is in fact much overlap between the two lists. As I said
regarding pastors, they are not super Christians and neither are Deacons, they are
both supposed to be living the faithful life that all Christians are called to lead.
The first item that Paul lists that should be true of the Deacon is they must be
dignified. This means that they are to be men (and women as we will see) worthy of
respect. Just as above reproach laid the foundation for the overseers, being a man or
woman worthy of respect in the eyes of others sets the foundation for being a Deacon.
Then he goes into a list of positive and negative traits about just what this means. He
says they are not double-tongued. They are honest and trustworthy. Just as with the
overseer, they are not to be a drunkard, except here Paul says, not addicted to much
wine. Again, alcohol in Scripture is never forbidden, but it is made clear over and over
again that drunkenness is a sin and a person who cannot control alcohol should not be
considered for church leadership. There is a reason that Paul writes to all believers in
Ephesians 5:18, “18 And do not get drunk with wine, for that is debauchery, but be
filled with the Spirit…” Again, just like the elder, Paul warns against a love of money
when he continues by saying, not greedy for dishonest gain. Because of the nature of
their ministry and service, I would say that the Deacons directly manage a larger
amount of a churchʼs income than the pastors, which is healthy for the church.
Between building and grounds committee and personnel committee and those
overseeing the actual counting of the offering, all of those are areas where Deacons
can and probably should be actively involved. That is far more money being actually
overseen by them than pastors, and that means you need people who know how to
wisely use money, but are not controlled by money and greed.
9 They must hold the mystery of the faith with a clear conscience. The mystery of the
faith is the truth of the gospel. Look at Ephesians 3:6, This mystery is that the Gentiles
are fellow heirs, members of the same body, and partakers of the promise in Christ
Jesus through the gospel. Here in Ephesians, Paul explains the mystery as the fact that
in Jesus Christ, anyone Jews or Gentiles can be made part of the Body of Christ. This
truth is the core of the Good News, the Gospel, that Jesus Christ died for all sinners so
that anyone who comes to him by faith and accepts him as their Lord and Savior can
be forgiven of their sins and be restored to a relationship with their creator, God. So,
the Deacons must hold strong convictions on the truth of the Gospel. But, it cannot be
just a faith of academic knowledge and “knowing the right answers.” The Deacons as all
of us are to hold the faith, with a clear conscience. In other words, doing the truth,
living the Gospel, not simply saying that you believe the gospel. This is what James
2:17-18 is saying, “So also faith by itself, if it does not have works, is dead. 18 But
someone will say, “You have faith and I have works.” Show me your faith apart from
your works, and I will show you my faith by my works.
It is the requirement that a Deaconʼs faith be lived out, not just declared by their words
that leads directly to verse 10, 10 And let them also be tested first; then let them serve
as deacons if they prove themselves blameless. Just because Paul only says to test the
Deacons, does not mean donʼt test in the same way Pastors. That is why he says
Pastors should not be young Christians, but have a clear history of serving Christ. The
Deacons do not seem to need to have a long history of faith, but they do have to show
a life that currently exemplifies and shows their faith. It comes back to this same word
we discussed last week with pastors, …blameless. There should not be people that can
bring accusations against them that their lives do not match up with their professed
beliefs. The testing process can look different from church to church. For YIBC, we
meet with nominated candidates as a Deacon Council and ask questions and listen to
their testimony to see if their lives demonstrate their faith, before we put them before
the church as a Deacon Candidate. We ask them to share their testimony of faith
before we ordain them by praying over them and dedicating them to serve as a
Deacon. There should be some sort of process of examining each person put forward
as a Deacon candidate to see if they meet the qualifications.
As the passage continues to verse 11, we come to a point of disagreement between
churches. After talking about it for two sermons over the past 2 weeks, I hope its clear
why we believe that the Bible restricts the office of elder or pastor to men. However,
the office of Deacon, we as a church and I as a pastor believe is open to both men and
women. This verse is difficult in its wording, but I hope I can make clear what it is
saying and what it is teaching. Verse 11 in the English Standard Version says, 11 Their
wives likewise must be dignified, not slanderers, but sober-minded, faithful in all things.
I know this version translates this in a way that appears to be saying the wives of the
male Deacons, but the word in Greek for wife and woman is the same word, so it is not
necessarily speaking of wives. This is one valid interpretation of the verse that it is
speaking of male Deaconʼs wives, but why would their be explicit instructions for the
wives of Deacons and not for the wives of overseers, especially if as it seems the Bible
is clear that Elders are to be men. This seems a strange addition, especially in light of
the same requirement for managing their family that follows here in verse 12.
In light of this difference in requirements between Elders and Deacons and based on
other Scriptures that seem to clearly show women holding the office of Deacon, rather
than just a description of being a servant, it seems best to interpret this as addressing
women, who serve as Deacon. In Romans 16, we see the clearest example of a woman
specifically being actually called a Deacon. Romans 16:1 says, “I commend to you our
sister Phoebe, a servant of the church at Cenchreae,” Again, while I typically really like
the ESV or I would not preach out of it, I would take issue here with the translation
chosen by the English Standard Version. The Word, servant is translated in most
translations as Deacon or Deaconess of the church as it seems to indicate a formal
title or office, although to be fair, it could also be simply calling her a servant. It may
not be completely clear, but it seems best to interpret scripture in this case as
permitting and encouraging women to be Deacons.
There is one other possibility that I do believe has a strong case is that Deacons were
chosen as a husband and wife team. We have not had that yet at YIBC, but I do believe
the Bible allows and possibly encourages that arrangement. Notice that he is basically
repeating that the women should be dignified, the same as he started the Deacon
qualifications with, then he says, not slanderers, in other words not tearing down others
in gossip, and closes specifically by saying faithful in all things. This I would say is just
repeating in a different way the aspect of blamelessness. Faithful commitment to
service and ministry should characterize the life of a Deacon. It is not something gained
after becoming a Deacon, but recognized as already existing in the person chosen for
that office.
Paul then continues in verse 12 with the same phrase to the men who are Deacons as
he gave to the elders. 12 Let deacons each be the husband of one wife, managing their
children and their own households well. Iʼm not going to go into much more detail here,
except to say, this is the same understanding as the elder ‒ to be a one woman kind of
man. To be currently free from anything in your life that would show you to be untrue
to your marriage. It does not necessarily mean never divorced, but could definitely be
saying not to choose someone who struggles with lust and pornography. Again, as with
the elders, how a man is as a father, and I think it would apply to women, how they are
as a mother says a lot about their character and how they will work with others in the
church.
Paul closes with verse 13, 13 For those who serve well as deacons gain a good
standing for themselves and also great confidence in the faith that is in Christ Jesus.
This could apply equally well to the standing those who serve faithfully as a Deacon
gain in the church or their standing before their Savior as a faithful servant of Jesus
Christ. The more you serve Jesus Christ, which is the primary role of a Deacon, but also
all Christians, the stronger your faith grows in the one who empowers your service,
Jesus Christ. And it is faith in Jesus Christ that is the foundation of all of our service.
Whether God calls you to be a pastor or a Deacon, or one of the many dedicated
members of the Body of Christ who faithfully serves Christ with the gifts you are given,
it is all built upon faith in Jesus Christ. You cannot work your way into Godʼs grace or
into his good will, even if its by being a Deacon. Our sin is too bad and too deep and
too much of an offense against God for us to ever atone for it to a holy and perfectly
righteous God by doing any form of service, including serving as a Deacon, or Sunday
School Teacher…or pastor. We must acknowledge that we are a sinner and repent of
our sin by turning away from it and accepting that Jesus Christ paid the punishment
for that sin by dying on the cross in our place.
It is that faith in Jesus Christ that our service then flows from, and it is that service that
grows our faith. You do not have to be a pastor or a Deacon to serve the Lord, he has
created each of us who know him as Savior for the purpose of serving him, as
Ephesians 2:10 says, For we are his workmanship, created in Christ Jesus for good
works, which God prepared beforehand, that we should walk in them. What service,
what good works did God prepare for you to do? It may not be to be a Deacon, but it is
to do something. Letʼs pray.