イエス様の全生涯が示す受難
キリストハイデルベルク教理問答 • Sermon • Submitted
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20201年1月3日ハイデルベルク教理問答説教
参考聖句: ガラデヤの信徒への手紙4:1-11
聖書箇所:マタイによる福音書26:36-46
説教題: “イエス様の全生涯が示す受難”
讃美歌
頌栄 – 讃美歌21 29
十戒 – 讃美歌21 130
説教の前- 讃美歌21 134
説教の後- 讃美歌21 436
頌栄 – 讃美歌21 27
第15主日
問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。
答 キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、
全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。
それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによって
わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために
神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。
問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」苦しみを受けられ
たのですか。
答 それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになる
ことによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、
わたしたち免れさせるためでした。
問39 その方が「十字架につけられ」たことには、何か別の死に方をする以上
の意味があるのですか。
答 あります。
それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを
御自身の上に引さ受けてくださったことを、確信するのです。
なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。
イエス様の全生涯が示す受難
問37~38は“イエス様が苦しみを受けられた”ことに対する教えです。使徒信条の御子なる神様に対する告白の順番は次のようになっています。“主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ”、“ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け”となっています。すなわち、使徒信条には、イエス様の御生涯のお働きは記されていません。イエス様の30歳以前の生き方に関しては聖書にあまり記されていないとしても、御生涯のお働きは聖書に沢山記されています。それにも関わらず、使徒信条にはそれに対する告白はありません。カルヴァン先生が作成したジュネーヴ信仰問答問五十五を見たいと思います。
55問 : どうして全生涯の歴史を省いて、降誕から直ちに死に移るので
すか。
答 : ここでは私たちの贖いに固有な、したがってある意味でその本
意を含むことしか論じていないからです。
カルヴァン先生のこの答えは、私たちが、聖書と使徒信条の教えに対して必ず覚えるべきことが何であるかを教えています。
1)まず、この答えは、私たちに“聖書はどういう本であるのか”を教えています。聖書は、実に“イエス・キリストの贖いのお働き”が中心です。そういう意味で、ジュネーヴ信仰問答の答えは、明白な答えを私たちに与えてくれます。使徒信条は短くて簡潔な信仰告白なので、イエス様の御生涯に関する“全般的な要約”が必要とされたと思います。それで、他の全ての内容を思い切って省略して、イエス・キリストの御降誕を告白して、直ちに十字架の受難を告白するようにしたのは、‘聖書の教えの強調点’に従ったことであることが分かります。
2)そして、使徒信条が作成された環境から見ると、使徒信条は、本来、 洗礼が授けられる時に用いられたものでした。そこでは、イエス様の働きの中で、贖いのお働きが中心に教えられなければなりませんでした。すなわち、これは古代教会が大切にした信仰の強調点が何であるかを示しています。もし、古代教会がイエス様の御生涯の中で、弟子達と過ごされた時間を大事にした教会であったのならば、イエス様が弟子達と共に過ごされた時間を使徒信条に信仰告白として入れたかも知れません。しかし、古代教会が信徒信条にイエス様の贖いのお働きを入れたのは、使徒信条が‘洗礼を受ける人々’、すなわち、‘救われて教会の会員になる人々’のための信仰告白であったからです。洗礼を受ける人々に確認すべき信仰の内容の中で、一番大事な事は、イエス・キリストの贖いのお働きを信じるかどうかということでした。それで、信徒信条がイエス様の降誕の後、すぐに贖いのお働きを告白するようになったのは、その必要性から見るととても適当なことだと思います。
“全生涯が示す受難”
ところが信徒信条のそのような構成に対する教理問答の解釈はとても興味深いです。なぜなら、使徒信条はイエス様の御生涯を省略して、十字架の受難を告白するように教えているように見えますが、教理問答は次のように使徒信条を解釈しました。
教理問答は、イエス様の御降誕の後、十字架の受難を教える時、その“受難”を次のような言葉で説明しています。“キリストがその地上での全生涯”と。信仰問答は、イエス様が受けられた受難は、十字架の上だけで受けられたのではなく、イエス様の全生涯がイエス様が受けられた受難だと教えています。すなわち、使徒信条のイエス様が“ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けられた”という意味は、イエス様が十字架を背負われたその時だけを意味するのではなく、イエス様の全生涯を、イエス様が受けられた受難だと教えているという事です。
今日、私たちが共に学ぶ内容がこれです。イエス・キリストは、“この世に来られて、全生涯に渡って受難を受けられた。”という信仰問答の説明の意味を二つの主題に分けて共に学びたいと思います。
一つ目、死なれたことと贖い、御生涯と義
死ぬ事によってか、生きる事によってか
まず、イエス様の受難は“全生涯に渡る受難”だという一つ目の意味を学びます。その主題を次のように言い換えることが出来ます。“イエス・キリストは十字架の上で死なれた事だけを通して、救済を成し遂げられたのですか、それともイエス・キリストは全生涯を通して、救済を成し遂げられたのですか。”もっと簡単に言い表すと、“イエス・キリストは、十字架の死だけを通して私たちを救ってくださったのですか。全生涯を通して私たちを救ってくださったのですか。” 使徒信条には、私たちが救われたのは、イエス・キリストが十字架の上で死なれたことによってであると記されています。なぜなら、イエス・キリストの十字架の死が、救済の頂点であるからです。 しかし、信仰問答には、イエス様はご自身の全生涯を通して、また、それと共に、イエス・キリストの十字架の死を通して、私たちを救ってくださったと記されています。
では、その質問に対する私たちの答えは何でしょうか。私たちは、イエス・キリストの十字架の死だけによって救われたのでしょうか。それとも、イエス様がこの世で過ごされた生き方、すなわち、全生涯を通して、私たちは救われたのでしょうか。
その質問に対する答えは、意外に簡単ではないかなと思います。大抵の信徒は、一つ目の質問には全然ためらわずに答えますが、二つ目の質問に対しては深く考えたことがないと思います。人々は“イエス・キリストは十字架の死を通して、私たちを救ってくださった”と告白しますが(一つ目の質問)、“イエス・キリストはご自身の全生涯を通して、私たちを救ってくださった”と告白したことがなかったからです。(二つ目の質問)。
しかし、私たちが深く考えなければならい事は、イエス様の御生涯は、私たちの救いと何の関係もないことなのかということです。イエス様の御生涯が、私たちの救いと何の関係もないというならば、イエス様のお教え、イエス様が行われた奇跡、イエス様が父なる神様に捧げられた祈り等......イエス様がその御生涯のなかで、行われた全ての出来事が何の意味もないものになります。しかし、そのように考えることは正しくない事を、私たちは知っています。
改革神学で、よく用いられている神学的な言葉があります。私は個人的にあまり好きな言葉ではありませんが、通常、改革神学では、イエス様のお働きを説明する時、‘積極的な従順’と‘消極的な従順’という言葉を使います。
1) ‘消極的な従順’という意味は、イエス様がポンテオピラトのもとで苦しみを受けられ、十字架の上で死なれた時、示してくださった従順です。すなわち、人々に嘲られて、十字架にかけられて死なれた一連の出来事は、イエス様が、’積極的’に行われたのではなく、父なる神様の願いを受け入れて行われた出来事’だと理解する事です。
2)‘積極的な従順’とは、イエス様がこの世で生きている間、すなわち、御生涯の時、積極的に律法に従い、神様の御言葉と御国を宣べ伝えて、神様の栄光を現した事を意味します。
では、ハイデルベルク信仰問答は、私たちに何を教えているのでしょうか。私たちは、問37の、“キリストがその地上での全生涯に渡って苦しみを受けられた”という意味を次のように理解して告白しなければなりません。‘イエス様がこの世で生きている時、成し遂げられた義’を通して、私たちを救ってくださった’と。それで、問37の答えには次のように記されています。
“キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。”
すなわち、信仰問答は、私たちに二つの事を教えています。私たちは普通“イエス・キリストが私たちをどのように救ってくださいましたか。”という質問に、十字架の死だけを覚えて答えます。しかし。信仰問答を勉強している私たちは、それに加えて、イエス・キリストが十字架の上で全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われて死なれた事と、また、イエス様がこの世で生きている間、積極的に神様の御心に従った従順と、イエス様が成し遂げられた義によって、私たちを救ってくださったという事を告白しなければなりません。ガラデヤ信徒への手紙4章4節を読みましょう。
“4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。”
“しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。”という言葉に注意を払いたいと思います。聖書は、イエス様がどうなされたと記されているのでしょうか。律法の創始者であり、その律法を被造物に与えてくださって、守るようにされたお方が、その律法の下に生まれました。続いて5節です。
“5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。”
すなわち、ガラデヤ信徒への手紙は、イエス・キリストが十字架の死を通して、私達を救ってくださる事だけに教えているのではありません。このみ言葉は、イエス・キリストがお生まれになった事、すなわち、‘御生涯を通して’私たちを救ってくださったという事を強調して教えています。それで、ハイデルベルク信仰問答は、イエス・キリストの贖いの死とイエス・キリストの全生涯によって、私たちが救われた事を教える為に次のようになっています。“キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、”
どういう仕方で:贖いと義
では、イエス様が、十字架の上で贖いのいけにえとして死なれる事と、この世での御生涯を通して、私たちに与えてくださる事は何でしょうか。私たちは、イエス様が私たちを二つの方法によって贖ってくださった事を覚えなければなりません。
一つ目、イエス・キリストが十字架の上で懲らしめられて死なれたことによって、私たちに与えられた恵みは、‘贖い’、すなわち、‘罪の赦しの恵み’です。イエス・キリストが十字架の上で懲らしめられて死なれた理由は、私たちの全ての罪を背負って、神様の御怒りをご自身の体と魂に負われて、私達に赦しの恵みを与えてくださる為です。
二つ目、では、イエス・キリストがご自身の御生涯を通して、私たちに与えてくださる恵みは何でしょうか。それは、‘イエス・キリストが成し遂げられた義’です。私たちが読んだガラデヤの信徒への手紙の教えの中心は、“イエス・キリストが律法の要求を完全に成し遂げられた”ということです。ある人々は、“神様の契約は時代が変わることによって変更される”と言います。また、ある人々は、次のように言います。“神様は、旧約時代の人々に‘律法を守る事’を求められたのですが、人間はそれを完全に守ることが出来ない存在であり、よく失敗する存在である。それで、神様は、新約時代の人々に、恵みを与えてくださって、‘イエス様に従うことだけ’を求められると言いました。しかし、神様の契約は時代が変わっても、決して変わるものではありません。また、神様は、いつも、私たちに完全に律法を守る事を求められます。
ところが、私たちは、どのように完全に律法を御心が求めるように成し遂げることができるのでしょうか。完全に守る事が出来るのでしょうか。私たち人間は、決して、律法を完全に守る事が出来ない存在です。私たちは律法の下で罪人に過ぎません。それで、もし、イエス・キリストが、単に、私たちの罪だけの為に十字架の上で死なれたと考えてみましょう。私たちは絶えず罪を犯して、イエス・キリストは、絶えず、私たちの罪を赦してくださいます。そのことだけが繰り返されます。
それで、聖書が私たちに教えているのは、救われた人々が、罪の赦しだけを受けて、生きる事を教えているのではありません。それで、信仰問答は、イエス・キリストが私たちの為に成し遂げられたことが一つではなく、二つであると教えています。すなわち、イエス・キリストは、十字架の死を通して、私たちに罪の赦しの恵みを与えてくださいました。また、イエス・キリストは、“ご自身の御生涯を通して”、’私たちが義を成し遂げる事が出来る恵み’を与えてくださったのです。
二つの事を整理すると、次のようになります。イエス・キリストは、十字架の死を通して、私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さいました。また、イエス様がご自身の御生涯を通して成し遂げられた全ての義、積極的な従順を、私たちに与えて下さいました。それで、私たちは、イエス・キリストの贖いの死によって救われました。しかし、イエス・キリストは、私たちに罪の赦しの恵みだけを与えてくださったのではありません。イエス・キリストは、この世で、ご自身が成し遂げられた義と、父なる神様に積極的に従順になられた事を、私たちに与えて下さいました。イエス・キリストの贖いの死とその恵みによって救われた私たちは、この世で、完全ではありませんが、神様の御心に従順に従う事が出来、神様の民としてこの世で、神様の栄光を現すことが出来る存在になりました。
イエス・キリストがご自身の御生涯を通して成し遂げられた義が、私たちに与えられたという意味は何でしょうか。それは、神様の義が私たちの全ての行いを覆ってくださるという意味です。私たちが行ったもの、私たちが行うすべての行いが、イエス様が成し遂げられた義によって覆われて、神様の御前で、罪人ではなく義人と認められるという意味です。イエス・キリストは、‘ご自身の御生涯’を通して成し遂げられた義と積極的な従順が、私たちに恵みとして与えられました。
信徒がその二つの恵みを覚えて生きる方法
それで、その事実を信じている信徒は、この世で生きる間、’何の責任も負わない’存在ではありません。信徒は、自分が犯した罪をイエス様に押し付けるだけ押し付けて生きる人ではありません。聖書には、“このようにしなさい。このように生きなさい。”という戒めが沢山あります。その理由は、イエス・キリストが、信徒にご自身の全生涯を通して受けられた受難を通して、それらの事を成し遂げる事が出来る十分な力を与えて下さったからです。それで、信徒は、自分たちの生き方を通して、神様の栄光を表す事ができる存在であり、 罪と闘って、その罪に打ち勝つ事が出来る存在です。 (たとえ依然として何度も失敗しても、神様は、またこの失敗から依然として私たちを救ってくださるが。)
信徒は、道徳的な存在ですか。私は、信徒は道徳的な存在だと言いたいです。なぜなら、イエス・キリストは、十字架の死とご生涯を通して、私たちの罪を赦してくださって、ご自身の義で、私たちを覆って下さいました。それで、私たちは、この世で、その義を表す神様の民として生きることが出来るようになり、そのように生きるように定められました。私が言う道徳は、世の道徳に基づいたものではありません。イエス・キリストが与えてくださった義に基づいた道徳です。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いの死を固く信じています。それと共に、私たちは、イエス・キリストがご自身の御生涯を通して成し遂げられた義が、私たちに与えられたことも信じなければなりません。
二つ目、“体と魂”
今日は“イエス様の受難は“全生涯に渡って受けられた受難”である事を二つに分けて学んでいます。イエス様が、“全生涯に渡って受難”を受けられたという意味の一つ目は、‘イエス様が御生涯を通して成し遂げられて、私たちに恵みとして与えてくださったその義を表す信仰生活をするという事’です。イエス・キリストは、十字架の死と共に、ご自身の御生涯を通して、私たちを救って下さいました。これが、一つ目の主題です、
そして、今日の二つ目の主題は、“イエス様の受難は“全生涯に渡って受けられた受難”であるという意味を、“全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた。”いう言葉に基づいて考えてみたいと思います。これが二つ目の主題です。
“体と魂”の一つ目の意味
二つ目の中心的な言葉は、“体と魂”です。すなわち、イエス様が“全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた”という意味が何であるかを学ぶ事です。
それらの言葉の意味を、神様が人間を創造された時の初めの姿から考えなければなりません。すなわち、最初の人間の姿からは見ると、私たちは、人間を“体と魂と区別する事が出来ないという事”です。その事実は、私たちが創世記に注意を払って読むと分かるようになると思います。神様がアダムを創造された時を聖書は次のように記しています。創世記2章7節です。
“7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。”
神様は、土の塵でアダムを形作りました。その後、その鼻に命の息を吹き込まれられました。それによって、人は生きる者となったのです。神様がその鼻に息を吹き込まれる前の人は、生きる者ではありませんでした。単なる形です。それで、英語の聖書は、その存在を“living being”と記しています。この言葉の意味は、人は、神様がその鼻に命の息を吹き込まれて生きるようにされた存在であること、そして“being”という言葉のとおりに、“一つの存在”であるということです。すなわち、‘全人’です。人は、体と魂とを別々にもつ存在として創造されたのではありません。体と魂とが合わされた一つの存在として創造されました。すなわち、堕落以前の世界で、人という意味には、‘体’と‘魂’とが分かたれているという概念はありませんでした。ありのままの‘人’が存在しただけです。全人です。
それで、私たちは、堕落後、人が死ぬと、その体は、土に戻るという意味と、魂は天に行くという意味、すなわち、体と魂が分離するという出来事は、‘罪の結果’である事が分かります。堕落以前のアダムは、‘死なない存在’でした。それで、彼には、体と魂が分離する事はありませんでした。しかし。堕落後、人が死ぬとその体は土に戻って、魂は天に行きます。体と魂が分離されます。そのような出来事の原因は、罪の結果であるという事です。それで、私たちは、神様が最初の創造された人は、全人で、‘体’と‘魂’を区別する事が出来ない、一つである事を覚えなければなりません。
それで、全人としての‘体と魂’:イエス・キリストは、私たちを全体的に救ってくださった。
私たちは、今までの内容に基づいて、問37にある“体と魂”という言葉の意味を見出さなければなりません。本来の人は体と魂を区別する事が出来ない全人的な存在です。しかし、人間の堕落後、罪の為に、体と魂が分離して区別するようになりました。それで、聖書が、体と魂だという時、その意味は‘人の全てのところ’です。すなわち、聖書が“体と魂”だという意味は、堕落後を生きている私たちの‘全人’を表す言葉です。
1)
では、今までの内容に基づいて問37の答えをもう一度読んでみましょう。
“答 キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、
全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということで
す。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみに
よってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちの
ために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。
“体と魂”という言葉が二回用いられています。“全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、という所です。”、また、“御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。”
2)
そして、:“体と魂”が登場するところがもう一箇所あります。問一です。
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生さるにも死ぬに
も、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
それらの三つのところに記されている“体と魂”が私たちに示している事は何でしょうか。私は、次のように言いたいです。“イエス・キリストは私たちを隅々まで、全体を救ってくださった”と
“わたしたちの体と魂”とを永遠の刑罰から解放してくださる為に、イエス・キリストがされた事は、“ご自身の体と魂に”神様の御怒りを負われる事です。問1に基づいて答えると、私たちが救われた理由は、“私たちの体と魂”が全体的に、“イエス・キリストの体と魂に所属される為”です。私たちの体と魂をご自身の体と魂に所属させる為に、イエス・キリストは、ご自身の体と魂に神様の御怒を負われました。イエス・キリストは、私たちの全人、私たちの隅々まで、救ってくださる為に、ご自身の全人、ご自身の隅々に神様の御怒りを負われました。
ゲツセマネでのイエス様
では、イエス様は、本当に体と魂において苦しめられたのでしょうか。私たちは、イエス様が肉的な苦しみを受けられた事を知っています。イエス様は十字架にかけられて、嘲られて、懲らしめられて、死なれました。
では、イエス様の魂はどうでしょうか。魂をギリシャ語で、“Psyche”と言います。 マタイによる福音書26章38節は、イエス様が十字架にかけられる前、お祈りを捧げる為に弟子達を連れて、ゲツセマネにいかれて弟子達に語られた言葉です。
“38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」”
“わたしは”という言葉がありますが、この言葉の原文は“わたしのPsyche”です。英語の聖書では、“My soul”です。すなわち、わたしの魂が“死ぬばかりに悲しい”という意味です。当然のことなのですが、イエス様は、十字架の上で、その魂も懲らしめられました。
イエス様が十字架の上で、体だけではなく、魂も懲らしめられたという意味はイエス様の全人が懲らしめられたということです。イエス様の全人が懲らしめられたという意味は、“私たちの全人が救われたという意味”です。イエス・キリストは、 私たちの罪に対する神の御怒りを体と魂に負われたことによって、“私たちの体と魂”をご自身の所有“にして下さいました。
イエス・キリストの受難は“全生涯に渡って受けられたこと”であるという二つ目の主題で、私達は“体と魂”という言葉を覚えます。キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりによって、私たちの全人を、私たちを一つの存在として、私たちの隅々まで、救って下さいました。イエス様は、私たちの罪の為に、父なる神様に捨てられました。私たちに注がれるべき神様の怒りを、私たちの代わりに全部受けられました。私たちの上にかかっている呪いを御自身の上に引さ受けてくださいました 。その苦しみのために、その受難のために、私たちは救われたのです。アーメン
