偉大な救いの偉大な奥義
偉大な救いの偉大な奥義
聖句:1コリント 15:20-28
イントロダクション:私が救われてすぐに経験した事は、聖書を読めば読むほど喜びが増して来ました。それと同時に至らなさの為に、苦しむためにクリスチャンになったのかしらと悩みました。どうして、神様は私たちを完全に罪の無いものとなさらないのか疑問に思った事はありませんか? 今でも皆さんの中に色々な試練を通されて、疲れ果てている方もいらしゃるかも知れません。どの様にその試練に対処されていますか? 今日は、私たちに与えられた偉大な救いの偉大な奥義を知る事によって、これらの疑問、質問に答えを得、色々な困難、試練に打ち勝つ信仰の奥義を学びたいと思います。この礼拝の終わりには、皆さんが、与えられている救いの偉大さを十分知り、その背後にある神様の知恵、奥義に圧倒され、驚かされ、神の子供とされている恵みの素晴らしさに心が満たされ、この地上でのクリスチャン生活を勝利を持って歩む事が出来る様になると信じます。神様に期待しましょう。 お祈りしましょう。
さて新約聖書の奥義とは神秘的なもので何か解り難い物と言うよりも、隠されていたものが表された事を象徴しています。エペソ 1:9は、
“みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、”
今日はこの、“神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって”と言う私たちに知らされた奥義を見てみたいと思います。
テトス 1:1、2、“神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ・・私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。 それは偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。”
永遠の昔:pro cronwn aiwniwn 永遠の時の前から:時が始まる前から
約束:この約束は、永遠の命にかかわりのあることであることが解かりますね。この永遠の命にかかわる事が、時の始まる前から約束されていたと言う事ですね。何を約束されたのでしょうか? 誰に神様が約束されたのでしょうか? パウロにでしょうか。それとも誰か他の人にでしょうか?
2テモテ 1:9 “神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって,”この“永遠の昔”は見ましたテトスに出て来ました“永遠の昔”と同じ言葉が使ってあります。(pro cronwn aiwniwn)ですから、救いにある永遠の命が、永遠の昔に、時が始まる前に、私達に与えられたとあります。しかし、パウロも私達も、永遠の昔には存在しなかったわけです。
この恵み(永遠の命)は、私たちに直接与えられたかと言うとそうではない事も,この句から解ります。イエスキリストにおいてですね。イエスキリストにおいてとはどう云う事なのでしょうか。
ヨハネ福 17:2 “それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。”ですから、神様は永遠の昔、時が未だ存在していない間に、私達、救われる者に永遠の命を与えるために、イエスキリストに全ての人を支配する権威を与える様、恵みによって御計画されたのです。ですから私達、その恵みにあずかる者は, 父なる神様から、子なる神様への贈り物なのです。
ヨハネ福17:6
“わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。”
父なる神様は、時が始まる前から、救われる魂をイエス様に与えました。ですから、イエス様は全てのことをして、私達、お父様からの贈り物を大切にしてくださいます。それは、私たちがイエス様だけの者ではなく、お父様の者でもあるからです。
私の父との関係 => オーバーコート
ヨハネ福 17:9
“わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。”
エペソ 5: 25-27
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
パウロも同じ様な表現を使っています。
2コリント 11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
この最終的完了が,黙示録でいうキリストの大晩餐会なのですね。
黙示録 19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
黙示録 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
黙示録 21:9 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
イエス様が私達の為にとりなしをしてくださる理由は、勿論私達のためであるのですが、それが第一ではないと言う事です。私達は父なる神様のもので、イエス様に捧げられた贈りものであるが故に、イエス様は私達を大切にして下さるのです。これが真の恵みの奥義なのです。この様な神様の恵みの理解を致しますと、何か信仰というものは、暖かみのない、非人間的な感じがしないこともありません。でも、考えて見てください、皆さんは子供さんをどの様に育てますか? 尋ねる物を全て与えますか?それとも、神様が一番喜ばれるものを子供にも知ってもらいたいと言う思いで育てますか?勿論後の方ですね。自分の子供が神を知り、神を喜び、神の中に満足を見出す時に、私達の心は慰められるのですね。ですから、子育てと言うものは、根本的には、子供の為ではなく、神様の為であるということですね、しかしそれが、子供にとって最善でもあるという事です。
福音とは、私達の為が、第一ではなく、神様のためであると言う事です。イエス様は私達が、父なる神の前に素晴らしい魂となる為に全力投球してくださっているのです。私達は自分の中にある救いを喜ぶのではなく、イエス様の中にある救いを喜ぶのです。近代の福音宣教は、人間に焦点を当てる事が沢山あります。イエス様を信じたら、幸福になれる、悩みから開放される、セルフイメージがぐっと増す、自己価値(セルフワース)を悟る事が出来る など等。これらの福音の宣言は、聖書が言っている、神様の与えられる恵みとは随分異なるものです。一つの例話をお話したら 解り易くなると思います。
日本からお客様がいらしゃると言うので、カナデアンロッキーの広大さを
見せたい、でも家の車はがたが来ているから、この際新車をかいましょう。いよいよお客様が着き、ロッキーにお連れしましたが、お客様は新車に惚れ込んで、広大なロッキーには、目もくれず、話すのは車の事ばかり。又それにのって、ホストの方も:
この車に乗ると、王様のように感じますよ、加速も良いし、スタイルも良し。燃費も良ければ、コントロールも良し。地面に吸い付くように走り、安定感も良し、非常に安全に感じますよ。こんな車をあなたも買ったらどうですか。
これは神様の与える恵みではありません。神様の恵みは、私達の心を神に向け、神を喜び、神を楽しみ、神の中に満足を得てゆくものです。
広大山に多いかぶる真っ白な氷河を見て、私達に与えられている儀の衣を思い、何千もの木が、太陽に向かってまっすぐに伸びている成長の姿勢を学び、動物たちを毎日養っている神の忠実に心から感謝する、これがイエス様のなさる恵みの業です。父なる天のお父様に合わせて下さるのです。
それでは、最初に読んで頂きました I コリントの15章に戻りましょう。
Iコリント 15:20 “しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。”
1コリント 15: 24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
神の国には二通りの見方を理解しなければなりません。ルカ17:20、21
さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
イエス様は、御国はすでに来ていると言われました。御霊の支配される所が、
神の御国なのですね。 又パウロはロマ書の14:17、
“なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだか
らです。”
すでに来ている神の国。私たちの今住んでいる現在に神の国が来ているのです。
もう一つの王国は、来るべき神の王国です。 ルカ13:28、29
神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
この1コリント15:24は、この再臨の時に現れる王国を指していますね。
最後の最後には、イエス様は、私達、イエス様によって永遠の命を与えられた者
を、お父様にお返しになるのです。
私は、父から頂いたオーバーコートを大切にしました、でもそれを父に返す必要はありません。もし返さなければ成らないならもっと大切にしたと思います。
もし、私の様なものでも、頂いたものを返さなければならないとしたら、本当に大切にすると思います。もしその返す方が私の愛している人であったら、なおさらの事ですね。ましてや、お父様から頂いた私たちを、お父様に返す時が来るならば、お父様の者をぶっきら棒に扱うはずはありません。丁寧にねんごろに扱い、お父様に喜ばれるように全てをなさるでしょう。その様にイエス様は、わたし達を取り扱って下さるのです。なんと言う恵みではないでしょうか。
これが私達に与えられている救いの奥義なのです。簡単に言いますならば、救いというのは人間の為が第一ではなく、イエス様の為なのです。そしてそれは、天の父なる神様の御栄光のためなのです。
エペソ 1:18 , 19 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、
1. 神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、
2. 聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
3. 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどの ようにに偉大なものであるかをあなたがたが知ることができますように。
何かパウロの心が解るような感じが致しませんか?
私たちの救いは、何か私達の為に計画されたように思われるかも知れません、でも、そうでは、ありません。それは、イエス様の為であり天のお父様の為なのです。もし、救いが私達の為であるならば、私達がどの様に反応するかによって、神様の心が変わるかも知れません。調度、親が子供の心を重要視するが為に、子供の要求に、振り回される事が,たびたびあると思いますが、神様の与えられる救いは、神様の心の中に計画され、ご自身の御栄光の為に、完成されたものなのです。それが、私たち造られた者にとっても最善であるのです。ヨブの話を思い出してください。神の偉大な恵み、保持の物語です。
揺り動かぬ神の、揺り動かぬ救いを、主の手に守られ、主御自身を楽しもうではありませんか。では、この様な救いの奥義を知る事で、現実の生活にどの様な影響がもたらされるのでしょうか。
1. 救いの確信。
2.真のよろこび
3.満足感
4.偽善解消:本当の自分になれる。装う必要なし。人間の力から解放。
5.大胆さが養われる。愛を持って真理を語る事が出来る。
6.平安、平和が得られる
7.忍耐が養われる。
8.神中心の生活を送る事が出来る。
どうして救われた瞬間に私達を御国に連れて行かれないのか? イエス様の力を知る事が出来ない。十字架の上の犯罪人をうらやましく思った事が御座いませんか? イエス様がどれほどの権威を持ち、どれほど恵み深いかを知る事が出来ない。ですから試練はクリスチャンに付き物なのです。私達はイエス様の為に信仰だけではなくイエス様の為の苦しみをも賜ったのです(ピリピ1:19)
神様は涙を取り去ろうとはなさいません、涙を通して虹を見る事が出来る様にして下さるのです。そういう信仰の道を通して、私達はイエスキリストの権威、哀れみ、恵みを知る事が出来るのです。その事を成して下さるのが、イエス様です。そのために私達は召されたのです。これが現れた偉大な救いの偉大な恵みの奥義です。
