真の信仰
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参考聖句 : 詩編33:12-22; マタイによる福音書16:13-20
聖書箇所 : ヨハネによる福音書4:43-54
説教題 : “真の信仰”
讃美歌
頌栄 – 讃美歌21
29
十戒朗読後 – 讃美歌21
説教の前- 讃美歌21
130
153
説教の後- 讃美歌21
頌栄 – 讃美歌21
483
27
真の信仰
しんこう
皆さん!“真の信仰”とは、一体どういう信仰でしょうか。私たちが学んだハイ
デルベルク信仰問答は、真の信仰を次のように教えています。
問21 まことの信仰とは何ですか。
答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわた
しんじつ
かくしん
にんし き
しが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊
しんらい
がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります。それによっ
え い えん
て、他の人々のみならずこのわたしにも罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与え
こうせき
られるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。
信仰問答が教えている真の信仰とは何でしょうか。一言で言うと“福音を信じる
こと”です。すなわち、“神様が、独り子イエス・キリストを通して私を救って下さると
いう御言葉を信じる事”です。それで、私たちは、真の信仰は他のことによってで
はなく、イエス・キリストによって与えられる事が分かります。すなわち、教会がイエ
ス・キリストではなく、他のことを教えているというならば、そこには真の信仰はない
という事です。また、私たちが、イエス・キリスト以外の事によって慰められていると
ぐうぞうすうはい
いうならば、それは、偶像崇拝でしょう。
今日の聖書箇所の背景
2
私たちは、今日の御言葉に基づいて真の信仰がどういうものであるかを共に学
びたいと思います。今日の聖書箇所43節には、イエス様がサマリアを去ってガリラ
ヤへ行かれたと記されています。私たちは、3週間に渡って、イエス様がサマリア
の女の人に出会った出来事の意味を学びました。皆さん!イエス様が行かれよう
とされた行き先はどこでしょうか。4章3節に記されているように、イエス様は、“ユダ
とちゅう
ヤを去ってガリラヤに行かれる”途中でした。
しかし、私たちが学んだように、イエス様は、サマリアの女の人に会う為に、当
し よ う
がわ
時ユダヤ人達が使用している道であるヨルダン川を渡って、その川の向こう側、すな
ひがしがわ
とおまわ
わち、東 側 の道を遠回りしたのではなく、サマリアを通って行かなければならなかった
い
ど
のです。イエス様はシカルというサマリアの町にある井戸で、サマリアの女の人に出会
たいざ い
います。また、イエス様はサマリアの人々の願いに応じて、そこに二日間滞在され、
人々に御言葉を教えられました。その後イエス様は、ガリラヤへ行かれます(40節・43
節)。
人々がイエス様に願っている事は何であるか?文脈で強調されてい
る事
ここで、私たちは、今日の聖書箇所が、私たちに教えていることが何であるか、
い
み
り か い
その意味を見出さなければなりません。聖書を読んで、その意味を理解するのは
か ん たん
し ゅ うき ょ うかいか くしゃ
そんなに簡単ではないと思います。しかし、宗教改革者ルター先生、また、カルウ
へ い い
ァン先生は、 “聖書の真理、福音は、全ての人々に平易に理解されなければなら
あ ん ご うぶん し ょ う
かいどく
ない。”と教えました。すなわち、私たちが聖書を読む時、暗号文章を解読するよう
に聖書を読んではならないということです。それで、ルター先生は、“聖書は極め
て分かりやすく記された”と言いました。
私たちが注意を払って聖書を読むと、聖書が何を私たちに教えているかを
理解する事が出来ると思います。神様が聖書を私たちに与えて下さった理由
け い じ
は、ご自身を明らかに啓示して下さる為です。それで、神様は、誰が読んで
も、ご自身の御心を、聖書を通して知ることが出来るようにして下さいました。
神様は、文字ということの後ろに御自身の御心を隠されたのでは決してありま
せん。私たちが、中世の教会のように、神学者達や牧師達だけが聖書を読む
ことが出来るという事を認めない理由がそこにあります。誰でも聖書を読むと
3
り か い
理解出来るように、神様は、聖書を記して下さいました。では、今日の聖書箇
所を見ましょう。ここは、私たちに何を教えているのでしょうか。
1) 今日の聖書箇所の構成:主題言葉
まず、私たちは、今日の聖書箇所が二つに分かれている事に注意を払わなけ
ないよう
ないよう
ればなりません。43〜45節の内容と、46節以下の内容が分けられています。43
ないよう
〜45節に記されている内容には、イエス様がガリラヤに行かれる前の出来事も記
おうしつ
されています。46節以下には、イエス様がガリラヤに行かれた後の出来事、王室
やくにん
の役人の息子を癒して下さる出来事が記されています。
ところが、43〜45節に記されている内容をご覧ください。聖書は、イエス様が
単に“ガリラヤに行かれた。”と記しているのではありません。44節をみましょう。
こきょう
うやま
“イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬 われないものだ」とはっきり言わ
れたことがある。”
こきょう
はんのう
44節は“イエス様に対する故郷の人々の反応”がどうであったのかを示してい
はんのう
うやま
ます。イエス様に対する彼らの反応は、“敬 わなかった”という事です。なぜ、彼ら
がイエス様を敬わなかったのかに関しては、後で詳しく学びますが、とにかく、覚え
こきょう
うやま
ていただきたいのは、“イエス様は自分の故郷では敬 われなかった。”という事で
す。
2) 強調されている所
やくにん
そして、46節以下に記されているイエス様が王の役人の子供を癒される出来
事で、私たちが注意を払わなければならない言葉を見たいと思います
① 46節を見ましょう。
“イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶ
どう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、そ
の息子が病気であった。”
:聖書は、その出来事が行われた場所を次のように私たちに教えています。
“前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。”聖書は、なぜ、私たちに、具
体的にその場所を教えているのでしょうか
4
② 45節を見ましょう。
かんげい
“45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭り
に行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたから
である。”
かんげい
:“ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。”と記されています。そして、なぜ、ガリラ
かんげい
ヤの人がイエス様を歓迎したのかも記しています。“彼らも祭りに行ったので、その
時エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。”私たちは、
彼らが行った祭りで見た出来事が何であるかをヨハネによる福音書2章で学びまし
しんでん
しょうにん
た。“イエス様が神殿から商人を追い出された出来事”です。その後、イエス様は、
エルサレムで、沢山のしるしを行われました(ヨハネによる福音書2章23節;3章2
節参照)。すなわち、ガリラヤの人たちも、その時、イエス様が神殿で商人たちを追
い出された事、また、その後、行われた沢山のしるしを見たという事です。それで、
彼らは、イエス様の名を知るようになって、イエス様がガリラヤに行かれた時、彼ら
は、イエス様を‘歓迎’したのです。
ないよう
③ ①と②は同じ内容を私たちに教えています。ガリラヤ人たちは、イエス様に
関してよく知っていました。イエス様は、ある面で、有名人になりました。1)カナで
こんれい
の婚礼で、水でぶどう酒を造られた出来事は人々に知られて広く広がっていっ
しんでん
しょうにん
て、2)エルサレムで、神殿で商人たちを追い出された出来事、また、その後行わ
れた沢山のしるしも、人々に広く広がっていました。ガリラヤの人々は、イエス様に
極めて大きな興味を寄せていました。その時、イエス様がガリラヤに行かれたので
す。
③ 今日の聖書箇所で一番大事な所である48節です。ともに見ましょう。
ふ
し
ぎ
“イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して
信じない」と言われた。”
ふ
し
ぎ
:イエス様は“あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じな
しっせき
い”とおっしゃって、何かを叱責されています。イエス様は、沢山の人々、すなわ
5
しっせき
ち、イエス様が行われた沢山のしるしを見た人々を叱責される御言葉です。
結局
結局、今日の聖書箇所が私たちに教えている事は確かです。
1)人々は、イエス様を知っていた。
2)人々は、イエス様が行われた沢山のしるしを見て、イエス様に興味を寄せ
た。
3)しかし、イエス様は彼らを叱責されます。
ちゅ うしん てき
ないよう
これが、今日の御言葉に基づいて私たちが見出すべき中心的な内容です。
王の役員の姿勢とイエス様の応答
それで、今日の出来事、“役員の息子をいやす出来事”と呼ばれているこの
ばめん
ようやく
出来事は、実は、今まで、私が説明した内容を一つの場面で要約していま
や くい ん
びょうき
す。王の役員に一人の息子がいました。ところが、その息子が病気であって
‘死にかかっていた’のです(47節)。それで、彼は、“カファルナウムまで下っ
て来て息子をいやしてくださるように、イエス様に頼みました。”
切実さが真の信仰の構成要素ではありません。
皆さん!死にかかっている息子をそばで見ている父親の心を考えてみて
そうぞう
下さい。王の役員がイエス様の所に来て、イエス様に頼んでいるその姿を想像
ひょう げんで き
せつじつ
してみて下さい。彼は、言葉で表現出来ない切実さをもってイエス様の所に来
ひ っし
たと思います。一人の息子を癒してもらう為に、必死に、イエス様に頼んでいる
と思います。
ち ほ う
き ょ り
その事実は、ガリラヤの地方と距離を考えると、その役員がどれほど切実な
心をもって、どれほど必死であったのかが分かるようになると思います。イエス
こうつうきかん
様の時代には交通機関がなかったのです。車も自転車もありませんでした。そ
れで、46節を見ると、王の役員の息子がいる所は‘カファルナウム’です。ま
た、46節にはイエス様がおられるところがどこであるのかも記されています。
き ょ り
‘ガリラヤのカナ’です。カファルナウムからガリラヤのカナまでの距離は40km
6
き ょ り
です。車がないその時代40kmは、本当に遠い距離です。
のぼ
さか
みずうみ
また、カファルナウムからガリラヤのカナに行く道は上り坂です。ガリラヤ 湖
ちちゅう かい
かいめん
て い ち
はん めん
は 地中海の海面よりやく212m下にあります。本当に低地です。反面、カナは、
か いばつ
海抜400mの高い所です。すなわち、ガリラヤ湖からカナまで行く為には、600m山
を登っていかなければなりませんでした。
しゅっぱつ
へ い ち
カファルナウムを出 発 して、カナまで行くには、15kmは平地を歩きますが、
ちょうてん
残り、25kmは600mの頂点までいかなければなりませんでした。その道は、そんな
に、歩きやすい道では決してありません。
しかし、王の役員は、自分の僕をイエス様の所に遣わすのではなく、自ら、それ
そうとう
も歩く辛い道を歩いてイエス様の所に来ました。40kmの山を登るという事は相当辛
いです。しかし、彼は、その道を歩いてイエス様の所に来ました。
やくいん
しかし、この役員が来た時、イエス様が語られた御言葉をみて下さい。イエス様
は次のように語られました。48節です。
ふ し ぎ
“イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して
信じない」と言われた。”
ひ っし
イエス様は、‘切実な心’をもって、‘必死’で、ご自身の所に来た王の役員に
し っせ き
叱責の言葉を語られました。簡単に申し上げると、イエス様は、王の役人の信仰を
叱責されているという事です。彼がイエス様の所に来たのは、イエス様が行われた
しるしの為です。すなわち、彼の信仰は、“しるしを求める信仰”であるという事で
す。
皆さん!私が説明した今日の聖書箇所全体のあらすじを思い起こして下さい。
今日の聖書箇所が私たちに教えている事は何でしょうか。イエス様が、私たちに
願っておられる事は何でしょうか。また、人々や私たちがイエス様に願っている事
は何でしょうか。確かな事は、イエス様が私たちに願っておられる事と、人々がイエ
ス様に願っている事は違うという事です。
7
うやま
1)皆さん!“ 「預言者は自分の故郷では敬 われないものだ”理由は何でしょう
か。人々が預言者たちを‘肉の目’をもって見たからです。イエス様が生まれて育
てられたナザレにもこのような人々がいたと思います。“私は、そいつを子供の時
から見てきたよ”
か ん てん
そのような観点をもってイエス様を見ると、決して、イエス様が神様の独り子で
ある事を知る事は出来ません。神様の御言葉が教えている救い主ではなく、自分
けい けん
ち し き
たちが知っている人、自分たちが経験した事、自分たちが持っている知識の枠で
は、決して、神様の御国も神様の独り子であるイエス様も、救い主であるキリストも
見る事が出来ません。
はい せき
こきょう
2)それで、イエス様を排斥したイエス様の故郷の人々ではなく、ガリラヤの人々
かんげい
はんのう
はどうでしょうか。彼らはイエス様を歓迎しました。彼らのイエス様に対する反応
せいはん たい
かんげい
は、ナザレの人々と正反対です。しかし、いくらガリラヤの人々がイエス様を歓迎し
か ん てん
たとしても、彼らとナザレの人々の観点、すなわち、イエス様を見る観点は何の差
か ん てん
もない同じ観点であるという事です。
かんげい
ガリラヤの人々は、なぜ、イエス様を歓迎したのでしょうか。彼らがイエス様に興
味を寄せた理由は何でしょうか。イエス様が、水でぶどう酒を作られたからです。ま
た、イエス様がエルサレムで沢山のしるしを行われたからです。彼らは、イエス様
かんげい
が行われた出来事を聞いてイエス様を歓迎しました。
かんげい
では、そのような人々の歓迎を受けたイエス様はどうなさいましたか。イエス様
かんげい
は、人々に歓迎されたので、本当に嬉しくなりましたか。彼らに対するイエス様の
おうとう
応答がこれです。“あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じな
かんげい
い。”彼らが、イエス様を歓迎したのは、イエス様がキリストであるからで
はありません。すなわち、彼らは、イエス様をキリスト、救い主として、
かんげい
こくはく
歓迎したのではないという事です。自分たちの罪を告白して、赦しの恵
みを頂く為に、イエス様を歓迎したのでは決してありませんでした。 (驚く
べき事は、聖書ではそのような信仰をもっている人々が沢山登場します。しかし、
8
イエス様はそのような信仰をもっている人々を癒して下さいます。)
人々は、‘肉の目’に良い事で、イエス様を見ました。イエス様が行われた沢山
と う じ
し て ん
の奇跡を見て、イエス様を歓迎しました。それが当時の人々がイエス様を見る視点
か ん てん
まんぞく
であり、現代の多くの人々の観点でもあります。肉の目! 肉の満足、肉の豊か
さ、肉の喜び、そのようなことが“人々がイエス様に願う事”です。
そのような人々にイエス様は語られました。“しるしを求める信仰をもっている
人々”だと。それは、イエス様が私たちに願われる信仰ではありません。イエス様が
私たちに願われる信仰は、ペトロのように、“あなたはメシア、生ける神の子で
す。”と告白する事であり、“罪の赦しの恵みをいただく為にイエス様を歓迎する信
仰”です。
ようやく
そのような点で、王の役員の話は、今までの内容を要約した出来事です。王の
かんげい
役員が、イエス様の所に来た理由、イエス様を歓迎した理由は、しるしの為でし
た。彼は、イエス様をキリスト、また、神様の独り子として信じたので、イエス様の所
き せ き
に来たのではありません。彼は、イエス様が行われた奇跡を聞いたので、その
き せ き
奇跡の為に、イエス様の所に来ました。彼にとってイエス様は、キリストではなく、
き せ き
神様の独り子でもない、単なる、有名な人で、何かいろんな奇跡を行っている人に
しっせき
すぎないという事です。それで、イエス様は彼の信仰を叱責されたのです。
王の役員の信仰を正しい信仰に導いて下さったイエス様
しかし、さらに私たちが注意を払わなければならない事があります。彼は、正しく
ない信仰を持って、イエス様に正しくない事を願いました。しかし、イエス様は、そ
のような人の願いも受け入れて下さり、恵みを与えて下さいました。イエス様は彼
に次のように語られます。50節です。
“50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエス
の言われた言葉を信じて帰って行った。”
びょ うき
どういう理由であるのか分かりませんが、イエス様は、彼の息子の病気を癒して
下さいました。しかし、私が言いたいのは、“彼の息子の病気が癒された”ということ
9
が、イエス様が、彼に与えて下さった“驚くべき恵み”ではありません。イエス様が
彼に与えて下さった驚くべき恵みは他にあります。
イエス様は、役員に“「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」”とおっしゃいまし
はんのう
た。その言葉を聞いた役員の反応をみて下さい。彼の反応は本当に興味深いで
す。50節です。
“50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエス
の言われた言葉を信じて帰って行った。”
彼は、“イエス様が言われた言葉を信じて帰って行きました。”しかし、52節を見
ましょう。
“52 そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後
一時に熱が下がりました」と言った。”
とうちゃ く
役員が家に到着した時、彼の僕が迎えに来て“子が生きていることを告げまし
びょ うき
た。”王の役員は、 息子の病気が良くなった時刻を尋ねます。僕は、“きのうの午
後一時に熱が下がりました。”と答えます。僕は、確かに、昨日だと答えました。す
なわち、王の役員は、イエス様の御言葉を聞いてすぐに家に帰ったのではないと
いうことです。どういう理由があったのか、私たちが分かる事が出来ませんが、彼ら
は、イエス様の御言葉を聞いてすぐに、家に帰らなかったということです。
52節には、“午後一時に息子の熱が下がった”と記されています。53節を見る
と、“イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この
父親は知った。”と記されています。イエス様は、確かにきのうの午後一時、役員の
息子の病気を癒して下さいました。
き ょ り
くだ
ざか
40kmは遠い距離です。しかし、カナからカファルナウムに帰る道は下り坂で
ゆうがた
す。そんなに歩きやすい道ではありませんが、急いで、歩くと夕方になるまでに
き ょ り
は、家に戻ることが出来る距離です。しかし、彼は、その日に家に帰りませんでし
た。彼は、カナで一晩泊まってから、次の日に家に帰ったのです。彼は、息子を癒
してもらう為に、切実な心をもって必死にイエス様に出会う為に、40km歩いて来た
か く にん
人です。しかし、彼は、息子がどうなっているのか確認する為に、急いで家に戻っ
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たのではありませんでした。カナで、一晩泊まったのです。その理由が50節にあり
ます。
“50 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエス
の言われた言葉を信じて帰って行った。”
彼は、“イエスの言われた言葉を信じた。”からです。
なぜ、正しくない信仰を持って来た人が平安を持って帰るこ
とができたのか。
へいあ ん
では、考えていただきたいです。王の役員は、どのように、平安を持って家に帰
き せ き
ることができたのでしょうか。彼は、‘肉の目’、すなわち、イエス様が行われた奇跡
を見て、イエス様の所に来た人です。すなわち、正しくない信仰をもってイエス様
に来た人です。彼は、イエス様をキリストとして、神様の独り子として信じたのでは
なく、単に、奇跡を行う人ぐらいに考えて、イエス様の所に来ました。彼には、聖書
が教えている真の信仰はありませんでした。
しっせき
それで、彼は、その正しくない信仰の為に、イエス様に叱責されました。そのよ
うな彼が、どうして、イエス様を正しく信じる信仰を持つ事が出来たのでしょうか。ど
うして、疑わずに、イエス様の言葉を信じて、帰る事が出来たのでしょうか。
私が皆さんに申し上げる事が出来る答えはたった一つです。彼がイエス様に出会
ったからです。他の理由があったのではありません。イエス様に出会ったので、正しい
信仰をもつようになったという事です。私たちはイエス様に出会ったサマリアの人々に
何が起こったのかを学びました。もう一度確認しましょう。40〜42節です。
40
そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところ
にとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 41 そして、更に多
くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 42 彼らは女に言った。「わたしたちが
信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、
この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」“
- サマリの人々は、イエス様の御言葉を聞いて、イエス様を信じるようになりまし
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けいべつ
た。彼らは、ユダヤ人たちに見下され、軽蔑された人生を過ごしていたのですが、
イエス様に出会って、救われ、真の信仰を持つようになりました。彼らに真の喜び
と慰めが与えられたのです。
同じ事が、今、王の役員に起こっているという事です。彼は、イエス様がキリスト
き せ き
であることも、神様の独り子である事を知らなかったので、単に、奇跡を求めてイエ
ス様の所に来ました。しかし、イエス様は、彼に真の信仰を与えてくださったので
い
し
す。彼は、自分の意思と力で、イエス様の御言葉を信じるようになったのではありま
せん。信じる事が出来るように、イエス様が、彼に信仰を与えてくださったからで
い
し
す。それで、私は、次のようにいいたいのです。信仰は、私たちの意思と
力で、私たちの心から生じるものでは決してありません。イエ
ス様が贈り物として与えて下さるものです。
皆さん!覚えて頂きたいと思います。イエス様に出会う人々は、イエス様によっ
て変えられます。イエス様が、真の信仰を与えて下さいます。イエス様に出会う前
に、私たちがどういう信仰をもっていたのかが大切な事でありません。以前に持っ
とみ
けんり ょく
ていた信仰が、肉的な事を求める信仰、世の富と権力を求める信仰であっても構
いません。なぜなら、そのような信仰を持っていても、イエス様に出会うと、イエス様
が、そのような偽りの信仰を取り除いて下さり、真の信仰を贈り物として与えて下さ
るからです。
イエス様は、真の羊飼いであられるので、いつも、迷っている私たちを正しい道
に導いて下さいます。イエス様だけに、人を変えて下さる力があります。私たちが
平和の中で生きる源は何でしょうか。イエス様の力の為です。イエス様がその信仰
を与えて下さるからです。
整理:真の喜び
やくいん
けつ ろん
王の役員が家に戻ってどうなったのか結論をみて今日の説教を終わりたいと
思います。53節を見ましょう。
“53 それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であるこ
とを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。”
12
“そして、彼もその家族もこぞって信じた。”
53節には彼の気持ちがどういうことであったのか記されていませんが、私たち
か ん たん
すい そく
が、簡単に彼の気持ちがどういう事であったのかを推測する事は出来ます。自分
の息子が生きている事、病気が癒された事を目で見てどれほど嬉しかったでしょ
う。彼は、イエス様がされた事を家族たちに全部話した時、人々はどれほど驚いた
でしょう。その話を全部聞いた人々は、“そして、彼もその家族もこぞって信じた。”
のです。イエス様のお働きによって、人々は信仰を持つようになりました。その信
仰によってその家族には真の喜びと平安が与えられたのです。真の喜びは、真の
信仰によって与えられるものです。また、真の信仰は、イエス様が与えて下さる贈り
物です。アーメン
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