ハイデルベルク教理問答
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キリストの昇天の神秘
キリストの昇天の神秘
イエス・キリストの昇天の意味
今日、私たちが学ぶ内容は、イエス・キリストの昇天の意味です。イエス・キリストの復活によって私たちのれいと肉が完全に回復されるということを学びました。しかし、イエス・キリストによる神様の救済の働こは、キリストの復活が最後ではありません。イエス・キリストは復活されて昇天されることによって救済を完全に成し遂げられたのです。
皆さん!考えていただきたいと思います。イエス・キリストは、復活された後、なぜ、天にのぼられたのでしょうか。キリストは、復活された後、なぜ、この世で弟子たちと共の働きをせず、天にのぼられたのでしょうか。
イエス・キリストの昇天は、復活後の前進です。すなわち、イエス・キリストの復活が目指すところがとこであるかを確かに示しています。私たちは、復活という意味を学びました。復活は、古い人が死んで、新しい人に生まれ変わることです。新しく生まれ変わった人、復活された人が志向する所がどこであるかということです。
コリントへの信徒への手紙15章は、私たちは、“世に属していたのですが”、イエス・キリストの復活によって、”天に属している”存在になったことを教えています。すなわち、私たちの肉と魂は新しく生まれ変わったということです。それで、生まれ変わった人は、その 故郷はこの世ではなく、天になります。フィリピの信徒への手紙3章20〜21節を見ましょう。
“ Phil. 3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
Phil. 3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。”
イエス・キリストは、なぜ、復活された後、“天に昇られた”のでしょうか、復活は天を志向するからです。新しく生まれ変わった人は、コリント信徒への手紙が教えているように、“ 土からできたその人の似姿ではなく、“ 天に属するその人の似姿”になります。コリントへの信徒への手紙15章49節です。
“ 15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。”
それて、イエス・キリストは復活後、他のところにいかれたのではありません。また、この世に滞在されたのでもありませんでした。イエス・キリストは復活の結局が何であるかを示して下さるために、“天に昇られました。”
イエス・キリストの昇天が与えて下さる恵み:天国の民としての生き方。
では、イエス・キリストの昇天は私たちにどういう恵みを与えて下さるのでしょうか。イエス・キリストが復活されて、罪と死に打ち勝って昇天されたことは、私たちの身分を明らかしてくださった出来事です。すなわち、イエス・キリストと共に復活した私たちは、“天国の民”として生きるようになりました。コロサイ信徒への手紙3章1〜2節です。
“ Col. 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
Col. 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。”
新約聖書には、特に、信徒に道徳的な善をを求める聖書箇所が沢山あります。しかし、大勢の人々がそのような聖書箇所の意味を歪曲するのも事実です。そのような正しい行いをすると、それが神様のみ前で義と認められると思い込んでいるからです。また、ある人々は、そのような行いによって救われるとも思い込んでいます。大切な事実は、聖書に記されている道徳的な教えは、全て、信徒に与えられたという事です。すなわち、聖書が信徒に求めている道徳的な教えは、それを行うことによって神様のみ前で、義と認められるという意味では決してありません。私たちの身分が天国の民に変わったので、その身分に相応しい生き方をしなさいということです。コロサイ信徒への手紙3章5節には次のように記されています。
“ だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。”
なぜ、私たちは、そのような生き方をしなければなりませんが。神様のみ前で義と認められるためでも、救われるためでも決してありません。私たちがイエス・キリストによって復活されて、天国の民になったからです。もう一度コロサイの信徒への手紙3章1〜2節を私が朗読いたします。
“ Col. 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
Col. 3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。”
私たちが道徳的に善を行うと、良いものが与えらえるという意味ではありません。鳥が空を飛ぶように、魚が海で生きるように、天国の民は、天国の民として生きるということです。イエス・キリストと共に復活された人は、“上にあるものに心を留める人”で、“地上のものに心を引かれない人”です。
なぜ、私たちは、この地に住んでいるのでしょうか。
復活された信徒は次男のような疑問を抱くようになると思います。“生まれ変わったという意味は、罪と死に打ち勝ったことを経験したことであり、それは、私たちが、この地に属しているのではなく、天国に属しいていることを意味します。では、私たちは、まだ、この地で生きているのでしょうか。神様は、なぜ、私たちが生まれ変わった時、救われたとたん、天国に連れていかなかったのですょうか” 私たちはその答えを二つの聖書箇所から見つける事が出来ます。マタイによる福音書17章で、イエス・キリストの姿が変わることからです。もう一つは、フィリピの信徒への手紙1章21〜24節に記されているパウロ先生の答えからです。
1) まず、マタイによる福音書17章に記されているイエス・キリストの姿が変わる出来事をみたいと思います。17章1〜8節です。
“ Matt. 17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
Matt. 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
Matt. 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
Matt. 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
Matt. 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
Matt. 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
Matt. 17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
Matt. 17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。”
イエス・キリストは完全ではありませんが、弟子たちに復活の栄光がどういう事であるかを現して下さいました。その栄光の姿をみたペトロは次のように言います。4です。
“ ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」”
しかし、イエス・キリストは、その栄光の姿から、以前の姿に戻られます。
簡単ですが、この出来事で、私たちは、イエス・キリストと共に復活された私たちがまだこの地で死んでいるかという質問の答えを見つける事が出来ます。イエス・キリストは、なぜ、栄光の姿から以前の姿に戻られて、世の中にいかれたのでしょうか、理由は簡単dす。イエス・キリストは、まだ、十字架の上で死なれなかったからです。イエス・キリストにまだ成し遂げなければならない使命がありました。
では、私たちは、いつ、完全な復活の恵みを味合う事が出来るのでしょうか。私は次のように言いたいです。復活の栄光は、使命を全うした後味合う事が出来るものです。
2)使徒パウロの事も確認したいと思います。まず、コリントへの信徒への手紙二12章2節をみましょう。
“ わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。”
使徒パウロは第三の天を経験した人物です。神様は使徒パウロ先生にそれを許して下さいました。都kろおがパウロ先生は、フィリピの信徒への手紙1章21〜24節で、次のように語りました。
“ Phil. 1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
Phil. 1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
Phil. 1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
Phil. 1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。”
使徒パウロは第三の天に住むことを拒みました。その理由は何でしょうか。“肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。” すなわち、使徒パウロ先生にも、このとでの使命が、全うすべき使命がまだあるからです。
神様は、なぜ、私たちが救われたその時、私たちに罪と死に打ち勝ったことを確かに見せて下さる為に、私たちが確かに天国に民であることを見せて下さる為に、すぐに、天に連れていかれなかったのでしょうか。なぜ、救われて、イエス・キリストの復活を味合った私たちを、この世に、罪と死の影響の元に生かせているのでしょうか。なぜなら、私たち信徒には、まだ、全うすべき使命があるからです。
それで、私は次のように言いたいです。救われた私たちが“志向”すべき事、救われた後の私たちの生きる目的は、“何かを手に入れる為の人生”ではありません。“何かを表す人生”である事を覚えなければなりません。
私たちはあう意味で、“既に” 完全ではありませんが、天国を所有した存在です。それで、聖書は天国の民である私たちに天国の民としての生き方、道徳的な生き方を求めています。しかし、それは、何かを手に入れるための道徳的な生き方ではなりません。道徳的に生きることによって、私たちが天国のもっと良い民になることでも、それによって私たちにもっと良い報いが与えられることでもありません。私たちの身分が変わったので、天国の民になったので、天国の民に相応しい生き方をしなければならないということです。
神様の9歳の御計画は私たちの考えを超えた広いです。神様は、まだ、この世で成し遂げなければならないご自身の計画があります。それを成し遂げられるために、神様は、今も、救われたご自身の民を用いられて働いておられます。
それで、信徒は、救われた神様の民は、神様からの使命を表す人生を過ごさなければなりません。この世で、塩と光の姿を示すことです。もっと簡単に申し上げると、天国の民の生き方を示す人生です。
イエス・キリストの昇天が与えて下さる恵み:キリストとの連合
では、イエス・キリストの昇天が私たちに与えて下さる二つ目の恵みを学びたいと思います。キリストの昇天が私たちに与えて下さるひとつ目の愛は、”昇天は復活が天を思考していることを示しているので、この世で生きいている救われた人々は、天国の民としての相応しい人生を過ごすことです。” 二つ目の益は、問四十九の答えで見出す事が出来ます。
皆さんと共に注意を払いたいところは、答えの第二のところです。
“第二に、わたしたちがその肉体を天において持っている、ということ。それは、頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということです。”
コリント信徒への手紙一15章には復活の神秘が記されています。聖書は、復活の神秘に関して教える時、“私たちの体”が変えられる事を強調します。所が「ハイデルベルク信仰問答」も、私たちの体の変化、すなわち、肉たが新しい肉体に変化することを教えています。それが49の第二のこたえです。
教理問答は昇天の益を“わたしたちがその肉体を天において持っている”事だと教えています。本当に興味深いこたえです。私たちの肉体が天にあるという事です。私たちの肉体は実愛に今ここに、この世にいます。この文書を英語の文書をそのまま訳してみると次のようになります。“私たちは、私たちの肉体が天にいるという確かな保証を持っている”という意味になります。この答えは、“キリストの昇天が私たちにどういう益を与えてくれますか。”という質問の正確な答えになります。“キリストの昇天は私たちの肉体が天にいるという確かな保証”です。すなわち、教理問答は、私たちの肉体が昇天に相応しい肉体になることを教えています。
キリストの昇天が私たちの肉体の昇天に対して確かな保証になる理由
では、キリストの昇天が私たちの肉体が復活して、昇天するということの確かな保証になる根拠は何であるかです。その理由を教理問答は次のように教えいています。四十九の第二のこたえです。“それは、頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる。” からです。
聖書は、救われた私たちを“キリストの体”で、“イエス・キリストは教会の頭”だと教えています。その教えには終末的な意味が込められています。キリストが私たちの頭で、私たちはキリストの体であるという言葉は、終末論的な意味を表す言葉です。
では、その意味を二つに整理する事が出来ます。1)頭と体が分離できない事との同じように、体である私たちは、頭であるキリストと同じいであるという意味です。二つ目の意味は、かしらと体が分離できない事と同じように、私たちはイエス。キリストと確かに連合しているという事です。
すなわち、私たちがキリストの体であるという意味は、一方で、私たちは確かにキリストだと同じであるという意味で、一方で、私たちはキリストと離れる事は出来ないという意味です。
聖書は、私たちに、“私たちはキリストの体で亜あり、キリストは私たちのかしらだ”確かに教えています。では、今、イエス・キリストはどこにおられますか。私たちが使徒信条を通して告白しているように“全能の父なる神の右に座しておられます。” では、私たちは、キリストから分離されて捨てられたのでしょうか。キリストの体である私たちと、頭であるキリストから完全に切り捨てられたのでしょうか。そうでないことをハイデルベルク信仰問答は確かに教えています。
“それは、頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちを御自身のもとにまで引き上げてくださる一つの確かな保証である、ということです。”
私たちは、今、この世で生きているので、キリスから切り捨てられたように見えます。しかし、キリストが昇天されたという事実は、極めて確かに、私たちをすぐに天に引き上げて下さるという約束です。既に成し遂げられたことのように確実な事実です。神様が私たちに与えてくださった保証は極めて確かなことなので、私たちがたとえ今この地に住んでいても『ハイデルベルク郷里門」の告白のように“わたしたちがその肉体を天において持ってい流”と告白する事が出来ます。また、それが私たちを慰めて下さる希望でもあります。
イエス・キリストの昇天が与えて下さる益:保証としての聖霊と三位一体神様
最後に学びたいのは、私たちの弱さに対する神様の配慮です。神様は、イエス・キリストの昇天をと押して、私たちを天に引き上げて下さると確かな約束と保証を与えてくださいました。しかし、神様にそれに加えて、弱い人間である私たちの為に“もっと極めて確かな保証”を与えてくださいました。
人間は弱い存在なので、神様がいくら確かな保証を与えてくださって状況によって揺るがされます。人間は、それが、救われた神様の民であっても、弱い存在です。神様は、確かに、キリストの昇天を通して、頭であるイエス・キリストがおられる所に、体である私たちもいると確かな保証を与えて下さいました。しかし、人間は弱い存在なので、自らの力でその保証を確実に持ち続ける事が出来ません。
それで、神様は、私たちがその保証を確かに信じて、持ち続ける事を、私たちに任せたのではありません。私たちが絶対変わらない確信を持ち続けてその日を待ち望む事が出来るように神様は、私たっちにある方法を与えて下さいました。神様が私たちに与えてくださったその手段は、“聖霊”です。問四十九の答えの第三の所です。
“この方がその保証のしるしとして御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。その御力によってわたしたちは、”
私たちの力と能力で、私たちは揺るがない確信を持つ事はできません。それで、神様は、弱い私たちの為に、聖霊を送って下さいました。私たちは、“聖霊の助けによって”、“聖霊の力”によって、神様が私たちを天に引き上げて下さるという約束を確かに信じ、その日を待ち望む事が出来るという事です。
神様は、私たちが何かをして、私たちが頑張ってその約束と保証を持つ続けることを願われませんでした。聖霊を送ってくださって、その聖霊の助けによって私たちが昇天の希望を持つ続けるようにしてくださったのです。それが私たちを見守ってくださり、助けて下さる神様の慈しみです。
三位一体の神様によって育てられる信徒
問四十九の答えの第二は、“私たいがキリストの中にいる事”を教えています。第三は、“聖霊が私たちのうちに内在されておられる事”を教えています。すなわち、神様は、私たちを天に引き上げて下さるという約束に対して確かな保証を与えて下さった時の方法です。“神様は三位一体の神様のお働き、すなわち、交わり”を通して、その確かな保証を私たちに与えてくださったのです。
三位一体の神様が、人と契約を結ばれる時、その契約に込められている意味は、“交わり”です。 神様は私たちの結ばれた契約、交わりは、“ご自身を私たちに与えて下さる方法”によってです。
1)人が初めに創造された時、彼は神様との交わりの中にいました。神様は、人間をを創造される時、その鼻に命の息を吹き込まれる方法で人との交わりをされました。
2)人間の堕落後、神様は罪人である人間との交わりをされるために、御自ら人間の所にこられました。すなわたい、神様は、ご自身の事を人間に与えて下さる方法で、人間との交わりを持つ続けておられます。
神様は、私たちにどういう手段を通して、私たちに昇天の確実な保証を与えてくださったのでしょうか。“私たちが神様(キリスト)の中にいる時、神様が(聖霊)が私たちのうちに内在される時”です。すなわち、ご自身を私たちに与えて下さる方法でです。ヨハネによる福音書17章18〜21節を共に読みたいと思います。
“ John 17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
John 17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
John 17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
John 17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。”
イエス様は、確かに語られました。“あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる”と。これが三位一体の神様の交わりの方法です。御父は御子と聖霊のうちにおられいます。御子は、御父と聖霊のうちにおられます。聖霊は、御父と御子のうちにおられます。
所がヨハネによる福音書は、次のように私たちに教えています。“あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。”
イエス・キリストが願われていることは、私たちが一つになる事です。すなわち、神様が三位一体の神様であられるように、“彼らの三位一体の神様のうちにいて一つになる事”です。
全能の父なる神の右に座しておられるイエス・キリストのうちにいる信徒は、また、聖霊が内在されている信徒は、三位一体の神様のお働きにおよって、その交わりによって成長されます。信徒は、イエス・キリストのうちで、聖霊のお働きによって三位一体の神様の交わりに加えられた存在です。その恵みを与えてくださった神様に感謝する信仰生活を共にしたいと思います。
整理
今日の説教を整理したいと思います。問四十九の第三のこたえです。
“第三に、この方がその保証のしるしとして御自分の霊をわたしたちに送ってくださる、ということ。
その御力によってわたしたちは、地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。”
郷里問答の最後の言葉は、確実な言葉で、強く私たちに教えています。“地上のことではなく、キリストが神の右に座しておられる天上のことを求めるのです。” すなわち、天上のことを求める為に心を尽くしましょうとは教えていません。“天上のことを求めるのです。”と、断固として、確信に満ちた言葉で答えています。なぜでしょうか。
救われた人、天に属している神様の民として生きるという意味は、“私たちの意志”のことではないからです。私たちが天国に民として生きることを能力することでも、心を尽くす生き方でもないからです。これは、身分の問題です。
私たちの力や能力によって神様の御国の民になるのではなく、三位一体の神様の恵みによって私たちは既に神様の御国の民になったからです。私は韓国人ですが、日本で住んでいます。日本で住んでいる私は韓国の法律ではなく日本の法律にしたがって生活しなければあんりません。私は韓国の改革派の教会ではなく、日本キリスト改革派それも、四国中会の所属の教会である高松東教会で働いています。 それで、韓国の改革派の教会ではなく、日本、それも四国中会の規則に基づいて牧会をしなければなりません。なぜでしょうか。私の身分が変わったからです。
それと同じように、私たちの身分は、変わりました。以前は、この世に属した存在、罪の奴隷だった私たちは、イエス・キリストのゆえに、神様の御国の民になりました。では、どのように生きる必要があるのでしょうか。罪の奴隷ではなく、この世に属している人々のようではなく、神様の御国の民として生きることです。
神様の驚くべき恵み、私たちを罪から救ってくださったという事で終わったのはありませんでした。私たちがこの世で、神様の御国の民として活くるように助け主である聖霊を送って下さいました。その聖霊のお働きによって、私たちはこの世で堂々と神様の民として生きる事が出来ます。アーメン。
