ハイデルベルク教理問答 (2)
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不在、そして共におられる
不在、そして共におられる
イエス・キリストの昇天されたという事実は、私たちもキリストのように天に引き上げられるという確かな約束と、私たちはこの世に属しているのではなく、天に属している存在であること、私たちに教えています。それが先週学んだ内容です。
今日は、キリストの昇天に関して二つ目の学びです。先週は問49に集中して学びましたが、今日は、問46と47、48に基づいて、“イエス・キリストはいつも私たちと共におられる”という意味が何であるかを学びたいと思います。神様が今日の説教を用いてくださって、私たちに豊かな恵みを与えて下さる事を願います。
“キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ”
昇天に関する教えである問46には次いようのうな言葉があります。“キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ ⋯⋯.” イエス・キリストは弟子たちの目の前で地上から天に上げられたという事です。では、イエス。キリストは、なぜ、弟子たちの目の前で、昇天されたのでしょうか。そこには二つの理由があります。
一つ目は、公に明白な証拠を与えて下さる為です。イエス・キリストは十字架の死の後確かに墓に葬られて、ご自身が確かに死んだことを証拠として与えて下さいました。それと同じように弟子たちの目の前で天に上げられた理由は、イエス・キリストの昇天は真実であり、確かな出来事であることを証拠として与えて下さる為です。そうすることによって、ごまかしやうわさではなく、明らかな事実であることを明らかにして下さいました。
二つ目は、教会が確かな信仰告白の上に立てられるようにされました。教会が告白する信仰告白は、単に、人々にから聞いた伝説のようなものでも、神話的話の上で行われたのではありません。弟子たちが直接に目撃したイエス・キリストの復活と昇天のいう事実に基づいた信仰告白であるということです。それで、キリストは、弟子たちの目の前で天に上げられて、弟子たちが確かに目撃した事をの信仰告白として告白するようにされました。
もう一つの強調点
そして、もう一つの強調点があります。
キリストは地上から天に上げられ他:地上にはおられない
イエス・キリストの昇天が示すもう一つの強調点は、イエス・キリストは地上にはおられないという事です。地上でのイエス・キリストの不在です。すなわち、イエス・キリストは昇天されて、地上におられないという事は、何かを、私たちに教えているという事です。アウグスティヌス( Augustinus)は、キリストは昇天を通して。弟子たちにご自身が“地上におられない”事を確かに示された”と言いました。
“イエス・キリストは人間性において私たちといつも共におられない。なぜなら、イエス・キリストは、復活後40日間、弟子たちと共に暮らした後、地上から天に上げられて、地上におられないことを弟子たちに御自ら確かに示してくださったからである。”
すなわち、イエス・キリストはご自身の昇天に弟子たちに見せて下さることによって、地上にはおられない事を公に宣言されたという事です。
私たちはイエス・キリストの昇天の救済の意味を学びました。救済の意味としての昇天は、イエス・キリストが死に打ち勝った証拠です。また、イエス・キリストが天に上られた事は復活の志向がこの地上ではなく天だることを示す為です。それと共に、救済の完全に成し遂げられるために、イエス・キリストは必ず弟子たちの別れなければなりませんでした。すなわち、イエス・キリストの昇天は、救済を完全に成し遂げらる、御子なる神様のお働きであるという事です。
人間性、すなわち肉体を持って地上におられない理由:私たちも結局肉体から離れる
イエス・キリストは救済を成し遂げらえる為に、弟子たちから離れました。なぜ、イエス・キリストは、弟子たちから離れなければならなかったのでしようか、弟子たちは、キリストが救済を成し遂げられる前に、キリストが復活され、昇天される前には、イエス様の側でイエス様の御声を直接に聞い、共に食べ、目で見て共に暮らしました。
しかし、イエス・キリストは救済の成し遂げられる為に、弟子たちから離れなければなりませんでした。ある面では、イエス・キリストが弟子たちと共に暮らして下さるのが、弟子たちにとってもっと良い事ではありませんか。共に暮らしてくださる事をとそいて、救済をサシとげら得ることが、弟子たちに私たちにもっと良い事ではありませんか。
私はアウグスティヌス( Augustinus)がイエス・キリストの昇天に関する話を皆さんに紹介しました。大事なのは、キリストは、確かに地上から天に上られたのですいが、アウグスティヌス(Augustinus)は、次のような言葉を用いてイエス・キリストの昇天を説明しました。“イエス・キリストは人間性において” すなわち、イエス・キリストが弟子たちから離れたのは、“その人間性において”です。他の言葉で言い表すと“肉体の領域”から離れられたという事です。
復活は、肉体の限界、死を乗り越える事です。昇天は、復活の究極的な志向はこの地上ではなく天であることを示します。それで信徒の生き方は、この地上、肉体に属しているのではなく、天に属している人生だと学びました。
イエス・キリストは昇天を通して、私たちも地上を離れなければならないことを教えて下さいました。すなわち、イエス・キリストの昇天は、私たちが志向すべきとことは天である事を教えて下さいます。また、それと共に、私たちもこの地上を離れなければならない事を教えています。
私たちが御国の民になるという意味は、地上の身分を完全に捨て他ことを意味します。私たちは、”二重国籍者”ではありません。私は日本に住んでいますが、韓国の国籍を持っています。韓国人です。日本の国籍を持つか、韓国の国籍を持つか、一つを必ず選ばなければなりません。自分の都合によってこれを選んだり、あれを選んだりすることは出来ません。私たちは、イエス・キリストの贖いの死によって“御国の民”になりました。すなわち、私たちは地上の国籍を完全に捨てて、天の国の民になったという事です。
イエス・キリストは、継続的に人間性を持って肉体的に弟子たちと暮らしませんでした。なぜなら、そのような事は、いずれ、脱ぎ捨てるべきものであるからです。イエス・キリストが再臨される時、私たちはこの弱くて罪に襲われている肉体を脱ぎ捨てて、以前とは完全に異なる肉体と持つ“霊的な肉体”を持つ存在として生まれ変わります。それで、イエス・キリストの地上での不在は、私たちに私たちの故郷は天であることと、また、最後の日には、私たちは必ずこの地上を離れなければならない存在であることを教えています。
それで、以前の生き方に止まってはならない。
それで、弟子たちは、その生き方に止まってなりませんでした。なぜなら、キリストが究極的に願われるのは、この地上での生き方、肉体的な生き方ではないからです。弟子たち、また、私たちは、キリストの昇天をとしてその事実をもっと固く信じなければなりませんん。
イエス・キリストは、十字架の死の前に弟子たちに次のように勝たれました。ヨハネによる福音書16章7節です。
“ 16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。”
“わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる”と、イエス様は確かに勝たれました。私たちの考えでは、イエス様が私たちの側で共に暮らして下さるのがもっと良い事です。しかし、イエス様は、”わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる”とおっしゃっています。それで、イエス・キリストは弟子たちと共におられた時、ご自身が弟子たちから去って行く事を教え続けられました。マタイによる福音書26章11節です。
“ 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。”
ヨハネによる福音書16章28節です。
“ わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。”
ヨハネによる福音書17章11節です。
“ わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。”
しかし、ここにおらえる
しかし、イエス・キリストは、今、私たちと共におられます。イエス・キリストは人間性において肉体的に私たちと共におられませんが、その神性において“霊的共に私たちと共におられます。”
キリストは、昇天の前に、弟子たちに““わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる”とおっしゃた究極的な理由は、ご自身の肉体が昇天することによって、“霊的に”私たちと永遠に共におられることが出来るからです。ヨハネによる福音書16章7節をもい一度読みます。
“しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。”
イエス・キリストの肉体の不在が私たちに与えて下さる益は、“霊的に”私たちの共に永遠におられることです。イエス・キリストは確かにマタイによる福音書28章20節です次のように約束してくだ様した。
“イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」”
しかし、イエス・キリストは昇天されました。その理由が何であるかを問47には次のように教えています。
“キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時もわたしたちから離れてはおられないのです。”
交わりの前進
問47がそのように質問した理由は、この“霊をもって共におられる”ということを教えるためです。 私たちが前に説明したように、キリストが私たちと共に肉体でおられない理由は、“送る聖霊を通じて私あちと永遠に共におられる為”です。 すなわち、イエス・キリストが去って行かれたのは、実は私たちと共に永遠におられる為だということです。
それで、私たちは、神様の交わりの方法が変わったことを覚えなければなりません。キリストが、この世におられた時、弟子たちは、イエス・キリストの肉体を通して交わりをしました。弟子たちは、イエスさ様の姿を見ることが出来、イエス様の手に触れる事が出来、イエス様の御声を聞くことが出来ました。
しかし、そのような肉体を通して交わりは、“限り”がありました。いくらイエス様が弟子たちの魂に切実に教えたとしても、弟子たちのうちに聖霊の内在がまだなかったので弟子たちはいろいろとイエスを様の教えを誤解しました。イエス様が死ぬ時までも、イエス様のお教えをを正確に理解していない弟子が多かったのです。 彼らが福音を完全に理解するようになったのは“聖霊を受けてから”です。 イエス様がおっしゃったように、イエス様が昇天して、彼らに感覚的に経験しないことが、彼らにとってより大きな益でした。
ここで交わりの進展があります。 私たちは顔を合わせて目を合わせ、話をすることが最高の意思疎通だとよく考えます。 しかし、これは肉体を着て生きる“一般的な世界”ではそうです。 霊的な世界には、これより“より優れた交わりの仕方”があります。
イエス様と弟子たちの意思疎通さえ肉体を媒介とする交わりである時は、完全ではありませんでした。弟子たちはよくイエス様を政治的メシアと誤解し、そのためメシア王国で上座を占めようと戦ったりもしました。
しかし、主の昇天を通じて“肉体の不在”を通じた“霊的に共におられる”ことが可能になりました。すなわち、まじ和知の急進的な進展がありました。 主を正しく理解していなかった人達が正しく理解するようになり、主が公生涯期間中に語られた言葉の意味を理解して聖書を記すようにになりました。 これが、イエス様が肉的では昇天し、その後、聖霊を送ってくださった理由です。 聖霊が来られることによって、私たちは真の"霊的交わり"が可能になりました。 まさに交わりの急進的な進展です。
したがって、私たちは、このような事実から、主が“肉体なの不在を通じて“永遠に共におられる”を可能にしようとした究極的な理由が分かります。 私たちはよく“主が私のそばにいたら…”というふうに考えます。
しかし、聖霊が私たちを理解させ、悟らせ、服従させ、謙虚に行う交わりは、目が合った状態で、体と体が出会うことをはるかに凌超えます。 教理問答47の答えを見てください。
“キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時もわたしたちから離れてはおられないのです。”
私たちはイエス様の時代に住んでいた人々よりはるかに栄光の場所に立っています。
