IN THE MIDDLE OF THE STORM
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Social
Intro (5min)
Intro (5min)
お久しぶりです。前回は3月。少し自分の近況アップデートを。
ICCダラスでのインターンシップは終わり、Dallas Theological Seminary でMaster of Theology の勉強を始める
明日からオリエンテーション、来週から授業
アメリカに来たのはちょうど4年前。
CFNIで学ぶためにアメリカに来たが、実は来てからがっかりした気持ちも感じていた
CFNIは「神学校」ではなかった。州に認定された学位を授与できない。体系的な神学の授業もない。
しかしこれまでの4年間は、DTSという、実績ある、アメリカでは非常に有名な神学校での学びを始めるために必要な時間だったのだと信じて疑わない。
しかしこの4年がなければ、
Master の勉強をできるほどの英語力はつかなかった
ICCダラスのある方が、学費のサポートを申し出てくださった (奨学金だけで補えない残りの授業料全て!)
ICCに4年間つながり、奉仕し、OPTをすることがなければこれはあり得なかっただろう
奨学金は7.5k、通常の3倍以上出た。年間授業料の半額以上。
5月にキャンパス内での仕事がすぐ見つかった。時給がとんでもなくいい。生活のめどがたった
アメリカに来た時はDTSという学校のことなど知らなかった。
しかし神さまは始めからその計画で、この4年を導かれた。精神的に経済的に困難な時期も通った。しかしその嵐の中で、イエスさまは確かに、ご自身がどのような方であるかを僕に教えてくださった。
聖書の中にも、こういった「嵐の中」の物語がいくつかある。
今この時が、過去のあの問題、なぜあるのか、なんのためなのか、わからない。
振り返ってみたら無駄にも見えるような時期を通ることも。
しかし神は確かに、私たちの毎日を、目的を持って導いておられる。
聖書朗読 (2 min)
Mark 6:45 - 53 ESV
Immediately he made his disciples get into the boat and go before him to the other side, to Bethsaida, while he dismissed the crowd. And after he had taken leave of them, he went up on the mountain to pray. And when evening came, the boat was out on the sea, and he was alone on the land. And he saw that they were making headway painfully, for the wind was against them. And about the fourth watch of the night he came to them, walking on the sea. He meant to pass by them, but when they saw him walking on the sea they thought it was a ghost, and cried out, for they all saw him and were terrified. But immediately he spoke to them and said, “Take heart; it is I. Do not be afraid.” And he got into the boat with them, and the wind ceased. And they were utterly astounded, for they did not understand about the loaves, but their hearts were hardened.
When they had crossed over, they came to land at Gennesaret and moored to the shore.
Mark 6:45 (ESV)
それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。
というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。
彼らは湖を渡って、ゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
背景説明 (10 min)
背景説明 (10 min)
v. 45:
「それからすぐに」… 男だけで5,000人の群衆を5つのパンと2匹の魚で満腹にさせた奇跡の直後
女性・子どもを入れば1万人を優に越したであろう大群衆が、イエスを追いかけてついてきていた。
しかし食べるものもなく日が暮れようとしていたので、子どもが持っていたお弁当のパンと魚を、イエスが命じて弟子たちが群衆に分けた。一人一人に欲しいだけ分けたが、パンも魚も奇跡的に増え、なくならなかった。むしろ12のかごいっぱいに余りが出るほど余ったという、有名な奇跡
v. 31にあるが、そもそも弟子たちは、休むために彼らだけでその場所に来た。これはガリラヤ湖の東側で、異邦人の地。
思いがけず起こされた奇跡で弟子たちはもちろん感動しただろうが、疲労は限界に達していただろう
そこでイエスは彼らを先に船に乗せ、ベツサイダに向かわせた
ガリラヤ湖の東側からベツサイダまでは最短でも8-10kmの距離。船で2,3時間
ベツサイダはペテロとアンデレの故郷。彼らは元漁師だから、自転車で家に帰るような感覚だろう。
イエスは彼らと一緒に行かず、祈るために一人で山に登られた (v.46)
v.47-48
「湖の真ん中」ヨハネの6章には「4,5kmほど漕ぎ出したところ」とある
ちょうど行きと帰りの真ん中あたり。引き返すには遠いし向かうにもまだ先が長い...。
v. 48
なんと夜中の3時になってもまだ着いていなかった!
夕方の時点で湖の真ん中にいたのだから、出発してから9-10時間経っていただろう。
直線距離で時速0.5km = 分速1m未満…。人の歩く速さは時速4km。
激しい向かい風のせい。大の男が12人。重い。(オールも人数分あったかわからない。たぶんない)。
しかもたった12人で1万人以上に食事の配給をした後。疲労は限界に達していただろう。
さらに悪いことに、イエスはその時一緒にいなかった。(大事な時に...!!)
子供の頃日本海フェリーに乗った時の記憶。風がある夜の海は怖い。
暗闇の中で、力の限り漕いでいるが進まない進んでいるのかもわからない。でもあきらめずに漕ぎ続けた。
「あきらめなければなんとかなる」とかいう人もいるが...自分の努力ではどうにもならない、何かに、誰かに頼らなければならない状況は確かにある。
ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブも漁師。彼らのホームグラウンド、得意分野で、彼らは自分達の限界に直面する。
素晴らしい奇跡の直後で、意気揚々としていたかもしれないが。
さあここでヒーローが登場する舞台が整った!という場面...なんとイエスはそこを通り過ぎるつもりだった。
弟子たちが近づいてくるイエスを見つけて「助けに来てくれた!」と思ったとしても彼らの期待は裏切られる展開。
または「もうこんな時間だね。まだこんなところにいるの?向かい風ものすごいね。しかも真っ暗だし。死ぬかもしれないよね。.... じゃ。」とでも言うつもりだったのか?
v.49
イエスは水の上を歩いて来られた
弟子たちはイエスだとはわからず、幽霊だと思った。
v. 50
「わたしだ。恐れることはない」という言葉で福音書は一致している
出エジプト3:14「わたしは、『わたしはある』という者である」“I AM”と同じ言葉
神はあなたが恐れる時、ことばを与えられる。ご自身を指し示される。
v.51-52.
弟子たちはイエスが水の上を歩き、嵐をしずめることのできる方だと知って驚いた。→そのような方だと信じていなかった
彼らはまだ、イエスが神の子とは思っていなかった。優れた律法の教師の一人だと思っていた。一人の人間と。
v.53
当初の目的地とは違うところに到着している。(ベツサイダに向かったが風に流されゲネサレに着いた)
解釈・奨励 (10min)
解釈・奨励 (10min)
歩いた方が早かった。安全だった。
結局遠回りだったし、疲れたし、怖い目に遭っただけ。
しかも目的地に着いてない。
→ イエスさまの言う通りにしたのに。船に乗せたイエスさまの判断ミスとも考えられなくもない。
「これもしかして無駄だった…?」「絶対こうした方がよかったじゃん!」
私たちの計画と、神さまの計画は多くの場合異なる。
イエスは嵐が起こることを知っていただろう。
真夜中になって弟子たちが命の危険を感じる目に遭うことも知っていただろう
それでなおイエスは彼らを彼らだけで嵐の中に「強いて」送り出した。目的があったから。
それは彼らが、イエスが神の子であることを知るため。
彼らが、嵐の中でイエスに出会うため。
イエスは嵐の中、彼らを翻弄する荒波を踏みつけてこられた。風をものともせず、疲れ切った弟子たちの元に歩いて来られた。
神は私たちに困難のない、EASYな人生を用意しているのではない。
むしろ嵐の真っ只中で、イエスがあなたの横にいないように思える状況で、あなたがイエスに出会うことを望んでおられる。
再度:イエスが、神の御子キリストだと私たちが信じること。これが父・子・御霊の究極の目的。
マタイ14章 同じ出来事が記録されている。水の上を歩くペテロのエピソード。マタイ14章にだけ。なぜ?
その後のマタイ16章で、ペテロはこう告白するから。
Matthew 16:16 “You are the Christ, the Son of the living God.”
マタイ16:16「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
John 6:29 “Jesus answered them, “This is the work of God, that you believe in him whom he has sent.””
これら嵐の中の出来事は、イエスが神の子、救い主だと彼らが知るため。
私たちは解決策を求める。いやしを求める。空腹が満たされることを求める。
しかしイエスは、まずご自身を私たちにお与えになる。問題解決の前に、いやしの前に、経済的な満たしの前に。
イエスが弟子たちの元を通り過ぎようとされたのはそのため。「イエスさま、嵐をしずめてください!」ではなく「イエスさま、ここに来てください!」と彼らが呼ぶのを待っておられた。
実際、V.51にこうある。「イエスが船に乗り込まれると、風が止んだ。」
嵐が止んでからイエスが来られたのではない。イエスが来られたから嵐が止んだ。
嵐が止むことではなく、イエスが来られることを求めなければならない。
あなたがイエスを呼び求めるなら、彼は必ず来られる。遅れることはない。
主は困難と恐れの中でもがく私たちのところに来て、こう言われる。 v.50「わたしだ。」”I AM”
「わたしがあなたの救い主だ。」”I AM your Savior”
「わたしがあなたのいやし主だ。」”I AM your Healer”
「わたしがいる。」”I AM”
イエスは、今日わたしたちにこう聞いておられる。「あなたはわたしを誰だと言いますか?」
あなたは、イエスを誰だと言いますか?